「虚構推理(TVアニメ動画)」

総合得点
75.6
感想・評価
577
棚に入れた
2348
ランキング
793
★★★★☆ 3.4 (577)
物語
3.3
作画
3.5
声優
3.5
音楽
3.3
キャラ
3.5

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ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 4.5 作画 : 3.0 声優 : 4.5 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

自己責任の鏡像

*微修正。大意に変更なし


合理的な虚構の提出によって「真相」を捏造する。

原作が本格ミステリ大賞を受賞しただけあって、「ミステリ」として非常に挑戦的で先鋭的な設定だ。

{netabare}望む「結論」から逆算して「論理」を積み上げるヒロインと、分岐する「未来」を選び取るヒーローによって「真相」が決定される作品「世界」は、視聴者のいる「現実」の鏡像のようでもある。



クライマックスで、名も知れぬ投稿者の書き込みによって「真相」が左右される展開は、あたかも、自分たちの「祭り」や「炎上」で企業活動を操作しているといった「ネット民」とやらの自己認識/自己全能感をなぞっているかのように見える。

主人公たちの奮闘は、消費者に支持してもらうために無限努力する企業の振る舞いに似て、ネット民の支持を得るための=歓心を買うためのサービス業的な努力のようだ。
一見すると、視聴者の関心を買おうと懸命なエンタメ産業のメタファーであるかのようでもある。

が、それは見せかけに過ぎない。

設定に従ってストーリーを追う限り、群れ集う有象無象の掲示板ユーザーは、作中現実の「真実」には一切触れることは出来ず、主人公たちの提示する「真相」を承認するための「道具」に過ぎない。
(作中)「現実」での「真実」は一切不可視化された「アンタッチャブル」であり、許されているのは主人公が提示する「解釈」を見比べて「真相」と認めることだけ。
与えられた選択肢を「選ぶ」という、誰かに用意された範囲での行動しかできない文字通りの「有象無象」だ。
生産者の都合で提供される商品を選択しているに過ぎないのに、自分の欲望を「かなえさせている」と全能感に浸る「消費者」のようでもある。

お膳立てされた行為をなぞるに過ぎない有象無象が「真相」の決定権を握るように見せかけることで、同型的存在である視聴者=消費者に臨場感を感じさせる効果的な仕掛けといえるだろう。

だが、作中の「世界」で捏造された「真相」を「(公共的)真実」であると決する決定権を握るのは、可能性を選択的に決定するヒーローのみだ。
有象無象の「ネット民」と同化しつつ、ヒーローの活躍の意味を知る視聴者は、ヒーローにもまた同化し、乏しい可能性を探る「戦い」に、手に汗を握る。

無限遠に見える「世界線」に手を伸ばし、手繰り寄せようと奮闘するヒーローの姿は、まさに「可能性を掴む」定型的な熱血アクションのようでもあり、努力=達成のドラマツルギーの定番のようでもある。
それだけに、視聴者の素直な感情移入を呼ぶものでもある。

が、引っ掛かりを感じてしまうのは、現代社会で何故だか当たり前の定理のように定着してしまった「自己責任論」の鏡像を、そこに見てしまうからだ。


何らかの「決断」に責任が伴うのは当然のことだ。
が、ことさらに「自己」責任と云うとき、本来は「自己」の責任でないものまで押し付けられているからこそ、わざわざ「自己責任」という用語が捏造されているのではないか。
この言葉が使われるのは、他者を非難/攻撃するときに限られているのが、その証だろう。

直近では、新型ウィルスによる感染爆発でさえ「自己責任」という「認知の歪み」は根強い。

疾病の罹患は、自己コントロールできる要素は無い。
確率を上下させることは出来ても、かかる/かからないを「自己」決定できるわけがない。
ましてや未知の新型ウィルスであれば尚更だ。

が、そんな未知の要素がまだ数多い段階にも拘らず、「外出したから」「多人数の集会を行ったから」「喫煙者であったから」「行列に並んだから」などなど、どこかに「自己」責任の要素を無理やりに見つけ出して、罹患は患者自身の責任であるかのように取り扱おうとする。
取り扱おうとするのは、云うまでもなく「バッシング」をしたい者に限られているのも、想像通りで意外ではない。
ましてや、当然に行われるべき支援や保障がなくても、「自己」責任なのだから公的機関の「責任」は問おうと発想しないというのは、「認知の歪み」を越えて精神病理学的な診断が必要かもしれない。


こうした「自己責任」観を底で支えているのは、「適切に判断すれば、自己に不利な『一切の』事態は回避可能であり、『必ず』最適な選択肢を見出すことができる」という確信だ。
いや、むしろ「信憑」、あるいは「信仰」と云った方がいいかもしれない。
(いかなるものであれ)不利な事態に直面するのは、適切な情報の収集や、適切な判断を怠ってきた当人の「能力」の不足に過ぎない、という信仰。

(自分たちにとって最適な)殆ど実現不可能な極微の可能性を探り、苦闘の末に掴み取る本作のヒーローは、まさに「自己責任」論の理想的なヒーロー像と云えるだろう。
「能力」が十分に有りさえすれば、こうして事実上「あり得ない」可能性しかない「最適解」でさえ手中にすることができるのだ。
いかなる「不幸」であれ、回避できないのは「能力」の不足に過ぎないではないか。

無限にゼロに近似する極微の可能性さえ、自己の努力次第で必ず実現可能だという現代の「信仰」は、こうしてヒーローによって体現され、視聴者は、努力=達成=成果にも似た、「真相」を巡る知的闘争と主人公たちの「勝利」を目撃する。

が、視聴者のもう一方の分身である掲示板ユーザーは、その時には「敗者」だ。
ヒーローが「最適解」を掴み取った瞬間、それまで有象無象たちが積み重ねた言葉や解釈は、あるいは「利用」され、あるいは「無化」され、彼ら個々人の「最適解」にまったくお構いなしに、まさしく有象無象の言葉の断片となって霧散するのだから。


「真相」を巡る闘争において、「投票権」を持つ掲示板ユーザーと一体化して消費者的な全能感を甘受し、もう一方では主人公たちに感情移入して「勝利」に満足する視聴者は、「自己責任」の歪みに囚われている限り、両者の間にある決定的な矛盾を感じることなく「感動」することだろう。

しかし、「不可能」な可能性を引き寄せる特殊能力が、「死ぬ」ことで発揮され、不死の肉体によって可能とされている設定は、「完璧な自己コントロールによる「最適解」の選択は一回性の人生を生きる人間存在においては不可能である」という、「自己責任」論の欺瞞への告発であるともいえる。{/netabare}

さすがに賞をとった原作であるだけあって、一筋縄ではいかない手応えある物語だ。

投稿 : 2020/04/05
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サンキュー:

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