キャポックちゃん さんの感想・評価
2.1
物語 : 1.5
作画 : 2.0
声優 : 2.5
音楽 : 3.5
キャラ : 1.0
状態:観終わった
どこかで間違えた作品
【総合評価☆☆】
【重大なネタバレあり】
「どこかで間違えた」としか言いようのないアニメ。どこでどう間違えたかが特定できないので、星2つという中途半端な評価にせざるを得なかった。以下、いくつかの推測を記すが、原作とアニメの重大なネタバレがあるので、これから作品に接する予定の人は、読まないように。
【原作者が間違えた?】
原作になったのは野崎まどの小説で、これまで『バビロン I -女-』(2015年10月)『バビロン II -死-』(2016年7月)『バビロン III -終-』(2017年11月)の3冊が刊行された (いずれも講談社タイガ刊、私はアニメ放送後に読んだ)。この3冊で完了したのか、第4巻が準備中なのか、中断されたまま執筆されていないのか、はっきりしたことはわからない。この原作小説からして何とも奇妙な作品であり、作者の意図が読み取れない。
ここで扱われるのは、自殺の問題。自殺を扱った作品というと、従来は、フォークナー『響きと怒り』、漱石『こころ』、ルイ・マル『鬼火』など、自殺しようとする人の内面を見つめるものが主流だった。しかし、近年になると、伊藤計劃『ハーモニー』やソフィア・コッポラ『ヴァージン・スーサイズ』のように、意図が不明確なまま自殺する人を取り上げた作品が目立つ。『バビロン』は後者の系譜に連なるもので、なぜ自殺するのかわからないケースを描く。ただし、『ハーモニー』『ヴァージン・スーサイズ』が、理由不明であることが人間の曖昧な本性を浮かび上がらせるのに対して、『バビロン』では、魔性の女によって強制的に自殺に導かれており、「人間とは何か」という哲学的な問いかけとは無縁である。
刊行された3冊のストーリーラインは、どれも同じである。第1巻では、政治的陰謀を匂わせる医学ミステリとして始まりながら、やがて医学から離れ、曲世愛(まがせあい)が登場して多くの関係者を自殺に導き、謎の解明を目指した正崎善の計画をぶち壊す。第2巻では、実質的な国家内国家である独立自治体・新域の首長選を巡る社会派ドラマとして始まりながら、やがて社会問題から離れ、曲世愛が登場して多くの関係者を自殺に導き、不正の暴露を目指した正崎善の計画をぶち壊す。第3巻では、国法が倫理に踏み込むべきかに関する論争の話として始まりながら、やがて法と倫理から離れ、曲世愛が登場して多くの関係者を自殺に導き、倫理の復権を目指した正崎善の計画をぶち壊す。
すべて、ミステリやドラマのオーソドックスな展開が、曲世愛によって断ち切られ忽然と終了するというストーリーである。ギリシャ悲劇では、物語が混迷の度を深めたとき、しばしばからくり仕掛けによって舞台に神が降臨し難題を一刀両断にする。これを「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」というが、曲世愛は、まるで舞台そのものを壊してしまう機械仕掛けの破壊神のようだ。
気になるのは、『バビロン』というタイトル。作中での記述から明らかなように、このタイトルは、堕落した社会の象徴として『ヨハネ黙示録』に登場する大淫婦バビロンを意味しており、直接的に曲世愛を指す。とすると、作者は曲世を神話的存在として捉えていたと推測され、彼女を機械仕掛けの破壊神として描いたとしても不思議はない。
ところが、曲世愛が物語を断ち切るために利用するのは、接触した人を操って自殺させるという(まるでルルーシュのギアスのような)婉曲な手段でしかない。野崎まどは、なぜこんな手段を利用したのか? その謎を解く鍵が、第2巻で言及されるフロイトの学説である。
フロイトは、あらゆる人間にエロス的な衝動(リビドー)と並ぶ《死の欲動》があると主張し、これをタナトスと呼んだ。正崎は、曲世が中学生の時に読んだとされるフロイト著『快感原則の彼岸』を、わざわざ取り寄せ熟読している。
「正崎は繰り返し読んだ一連のページをもう一度見遣る。/死の欲動。死へ向かおうとする欲動。タナトス。デストルドー。それは、自我が抵抗し難い衝動であり、個体発生上もっとも古い原初的な欲動であり、悪魔的な生命の破壊衝動である。/全ての人間がそれを持っていると、フロイトは言っていた」(『バビロン II』p.187)
曲世愛は、言葉を交わした人のタナトスを活性化させる能力を備えているようだ。彼女に接触した人が、まるでリビドーを抑えかねるように自殺に向かうことを考えると、野崎まどは、曲世を「タナトスとエロスを入れ替える」能力の持ち主としてイメージしたのかもしれない。もし、タナトスとエロスに関するフロイトの学説が正当ならば、『バビロン』は、この2つの欲動に支配される人間の性(さが)を直視した神話的物語として評価できる。
しかしながら、タナトスとエロスを人間の根源的な欲動と見なすのは、はっきり言って滑稽な考えである。現代のまともな精神医学者ならば、フロイトのタナトス論を真に受けることはないし、大半の医学者は、エロス論にも否定的である。精神医学が未発達でヒステリーやPTSDに関する知見に乏しかった20世紀初頭ならともかく、神経科学のデータが集まった今日、無意識下の欲動という曖昧な概念を持ち出す必要性は全くないのである。
自殺を法律で禁止するという発想は、法学的に見て論外である。現在、自殺に関する法的な議論は、自殺幇助・自殺教唆の問題を中心に、社会との関係という文脈で取り上げられるのが一般的。ALS患者など手厚い介護を必要とする人に見られがちな「他者を思い遣っての自殺願望」とどのように対処するか、抑鬱症状として現れる希死念慮をどこまで薬物でコントロールすべきか、自殺衝動の持ち主を狙った性犯罪をいかにして抑止するか、さらには、自爆テロのような過激な自殺を防ぐにはどうしたら良いか---自殺に関する論点は、こうした具体的な問題に絞られている。『バビロン』第2巻や第3巻で政治家たちが行う議論はあまりに皮相的で、自殺について深く考えてきた研究者に鼻で嗤われるような内容である。
作中で語られる自殺論が、野崎まど自身の考えかどうかは判然としないが、もしそうだとしたら、医学的知識の乏しい作家の戯言でしかない。もちろん、第4巻でフロイト説を嘲笑する深遠な人間観を提示する予定かもしれないので、あまりに厳しい評価は留保せざるを得ないのだが。
【プロデューサーが間違えた?】
アニメ『バビロン』は、TOKYO MXほかで2019年10月に放送が開始されたものの、原作第2巻の終結部に当たる第7話「最悪」でいったん中断、しばらく第1話から再放送した後、12月30日に、前半が第2巻のまとめ、後半が第3巻の導入となる第8話「希望」が放送された。それ以降は、時間帯を変えて第3巻に基づくエピソードが描かれたが、最終第12話「終」の終結部は、アレックスと曲世愛の退場の仕方が原作小説とは異なっている。
全12話をわざわざ2クールに分割して放送したのはなぜか? 内容からして、視聴者の関心を煽ろうとしたとは考えにくい。この期に及んで、制作が間に合わなかったのか。あるいは、第7話の終盤が放送コードに引っかかる内容だったため、大幅な手直しが必要となったのだろうか(第8話冒頭には、「この作品には一部刺激的な表現が含まれます。児童および青少年の視聴には十分ご注意ください」という文言が表示される)。
そもそも、「人々が欲動に駆られて自殺する」という過激な小説をアニメにすること自体、暴挙に近い。しかも、第3巻までのいささか中途半端と思える段階では、優れた作品にするのが困難だとわかるはずである。アニメ化の企画が発表されたのは2018年春であり、第3巻までの執筆ペースからすると、18年末か19年初頭に第4巻ができあがると予想された。そこで、全4巻を各巻6話程度の2クールアニメとするつもりで企画したものの、結局第4巻は発表されず、取り急ぎ各巻4話前後にまとめ直したのかもしれない。原作の内容を各話にどのような割り振るかを考えるシリーズ構成の担当者が(放送版にも公式サイトにも)クレジットされていないが、監督と並ぶ重要スタッフの名前が欠落していることから、制作現場がかなりバタバタしていたのではないかと想像される。この想像が正しければ、完全な企画ミスである。
アニメ制作にあたったREVOROOTは、『刻刻』『フリクリ オルタナ』などで制作協力を行った会社だが、実績は乏しく、これまでのところ元請け作品は『バビロン』くらいしかないようだ。アニメ化を企画したのは、2014年設立という新興のプロデュース会社・ツインエンジン。出資企業の寄り合い所帯でアニメを作る製作委員会方式を改め、海外配信を行うことで1社製作を可能にするビジネスモデルを目指す(ちなみに、アニメやTVドラマでは、クリエイティブな作業を行うことを「制作」、金回りの実務を行うことを「製作」という)。もっとも、このやり方で優れた作品を生み出せているかどうか、微妙である。“尖った”原作を狙うあまり、描写が過激で見終わって不快になる作品が多いからである。ツインエンジンは、自社製作のアニメ『からくりサーカス』『どろろ』『ヴィンランド・サガ』『バビロン』『pet』をAmazonプライム・ビデオを通じて海外独占配信したようだが、これらの作品が海外のファンに日本アニメの最先端と思われたら、ちょっと口惜しい。
【アニメーターが間違えた?】
アニメ『バビロン』は、人々が自殺する動機や曲世愛の正体がはっきりしないまま制作されたせいか、キャラの内面が充分に表現されていない。
第3話「革命」の終盤、高層ビル屋上の端に立つ人々は晴れがましい表情をしており、次々と飛び降り自殺する瞬間には、まるで遊戯に興じるような笑顔を見せる。もし、この行為が活性化されたタナトスによってもたらされたのならば、欲動を制御しきれない狂気染みた表情か、逆に理性の喪失がもたらす法悦の境地を示すのが相応しいだろう。また、意識が完全に曲世のコントロール下にあるとすると、自由意志を感じさせない能面のような顔貌になるとも予想される。ところが、アニメで描かれたのは、訳もなく楽しそうに飛び降りる人々の姿である。まるで空中浮遊を試みるかのように、手足を奇妙に伸ばして…。こうした描写は、視聴者に行為の意味を考えさせることなく、単に、異様な不快感を与えるだけである。『バビロン』の作画は、何らかの意図を表現すると言うよりも、見る者を嫌な気持ちにすることを第一目標としているように思える。
曲世愛のキャラクターデザインは、いかにもありきたりで、“大淫婦バビロン”にはほど遠い。原作の記述はあまりに観念的で、どのような外見かを確定できないため、仕方ないとも言えるが、アニメという具象的な表現に移し替えるのだから、もう少し工夫すべきだったのではないか。新域のトップとなる齋開化(いつきかいか)も、ちょっと頭の良い優男にしか見えない。山岸凉子「パイド・パイパー」の真犯人のような、見た瞬間に心を抉られる凄まじい顔立ちにしてほしかった。
周辺人物も、生きた人間として肉付けされていない。例えば、正崎の助手の立場にいた陽麻(ひあさ)は、うまく膨らませていれば、野崎まどが脚本を書いた『正解するカド』の沙羅花のような面白いキャラになったと思われる。第5話「告白」Bパート、剣道の試合の後で、陽麻が「私は…“善くない仕事”を要求されていると思っていました」と語る。同じ台詞が原作にもあり、ここから彼女の人間性が浮き彫りになるかと期待したのだが、以後、彼女の内面に触れる描写はほとんどなく、どんな人物だったかわからないまま退場させられてしまう。たとえ原作になくても、絵の力によって人物像を形作ることは可能だったはずである。
結局、観念的で心理描写に欠ける原作をそのままなぞるようにアニメに起こしたため、心に訴えるものがなく不快感だけが残る作品になってしまった。アニメーターが自主的に作品世界を膨らませられなかったのは、プロデューサーが原作から逸脱しないようにと要求したからか、監督や原画マンの実力不足のせいか、原因はっきりしないものの、何とも残念な出来である。