Kuphony さんの感想・評価
4.2
物語 : 4.0
作画 : 3.0
声優 : 5.0
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:今観てる
純粋なはがないの贈与/論理はがない論考
「僕は友達が少ない」と「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の出現について、考えないといけないんじゃないかというノブレス・オブリージュ。
残念系女子自体は昔から見られた。乃木坂春香さんとかね!
でも、この頃のこの類型のこの主流化はこう簡単に、スルーできない。なんかただのネタじゃない気がする。
オタクであることの前衛さの肯定を必要としていて、それに応える形ではがないが出てきてるんじゃないかと。アニメイト辺りに行けばすぐ分かるでしょうが、今時カップルでアニメを話すのも、別に特殊な事態では無くなったと。こうなってくると、「俺、オタクなんで」と言っても全く説得力がない。
ならオタクの定義を変えれば良いじゃない!というSOS団結成的メンタリティの元、このアニメ、ラノベは支持されていることを強いられているんだ。
で、なぜ中沢新一さんが提唱する純粋な自然の贈与という概念を導入するのかというと、今の二次元業界というのが、どんどん自己肯定的になってきているからですね。今のアニオタというのは、そうした自己肯定的な贈与に対して開かれ、受け入れなければならない。
第二章 論理はがない論考
1. はがないは成立している残念の総体である。
2. 成立している残念、すなわち隣人部とは、諸関係の不成立である。
2.221 はがないが描写するもの、それがはがないの意味である。
3. 真なる残念の総体がはがないの像である。
3.032 「残念に反する」ことをはがないで描写することはできない。それは、アニメにおいて、空間の法則に反する図形を座標で表したり、存在しない点の座標を示したりすることができないのと同様である。
3.0321 なるほどアニメ法則に反した自体を空間的に描写することはできよう。しかし、残念に反した自体をはがない的に描写することはできない。
4. 残念とは有意味な命題である。
4.001 命題の総体が残念である。
4.01 命題ははがないの像である。
4.112 はがないの目的は友達の論理的明晰化である。はがないは学説ではなく、活動である。はがないの仕事の本質は解明することにある。はがないの成果は「はがない的命題」ではない。友達作りの明確化である。残念は、そのままではいわば不透明でぼやけている。はがないはそれを明晰にし、限界をはっきりさせねば成らない。
4.113 はがないは社会学の議論可能な領域を限界付ける。
5. 命題はキャラクターによる真理関数である。
5.6 平坂読の言語の限界がはがないの世界の限界を意味する。
5.61 はがないは世界を満たす。はがないの限界は平坂読の限界でもある。それゆえわれわれは、はがないの内側にいて、「はがないにはこれらは存在するが、あれらは存在しない」と語ることはできない。なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されたようにも思われる。しかし、このような可能性の排除ははがないの事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理ははがないの限界を超えていなければならない。そのとき論理ははがないの限界を外側からも眺めうることになる。思考しえぬことを我々は思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことを我々は語ることもできない。
5.621 はがないとキャラクターとはひとつである。
5.63 はがないははがないの世界である。
6. 真理関数の一般形式はこうである。[肉,胸,N(肉)]
6.13 はがないは学説ではなく、世界の鏡像である。はがないは超越論的である。
6.2331 友達作りという過程がまさにこの脚本を促す。友達作りは実験ではない。
7.語りえぬものについては沈黙せねばならない。