キャポックちゃん さんの感想・評価
3.5
物語 : 3.5
作画 : 3.5
声優 : 3.5
音楽 : 3.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
後半で作品の方向性が変化
【総合評価:☆☆☆】
幸村誠(『プラネテス』)が2005年から連載中の漫画『ヴィンランド・サガ』(私は未読)のうち、ブリテン編まで(~単行本第8巻)をWIT STUDIO(『進撃の巨人』)がアニメ化した作品。11世紀初頭の北ヨーロッパにおけるヴァイキングたちの血塗られた歴史を取り上げており、作中に登場するデンマーク王スヴェン1世とクヌート王子は実在の王族、主人公のトルフィンはアイスランド商人ソルフィンがモデルだとされる。タイトルのヴィンランド(「ブドウの地」の意)は、ヴァイキングが入植したとされる伝説上の土地で、しばしば北アメリカの一部(ニューファンドランド島など)に比定される。
これは全くの推測だが、原作者の幸村は、途中で何度か作品の全体構想を変更したのではなかろうか。当初は、少年トルフィンの目を通して、農業生産性の低い北ヨーロッパの貧しさと、それ故に繰り返される略奪の残虐さを描き出すことが主眼だったように思われる。力の強い乱暴者が無残に人を切り刻む血なまぐさいシーンが延々と続き、私のように血の嫌いな人間には、どうにも耐えがたい。アニメの第1クールは、半分以上早送りしながら視聴した。
しかし、第2クールに入った頃から、作品の方向性が大きく変わる。トルフィンは脇に追いやられ、代わって、圧倒的な存在感で場を支配するアシェラッドを中心に、クヌートとトルケルが重要性を増す。後二者は第1クールから姿を見せていたが、クヌートは顔がきれいなだけの軟弱な臆病者として、トルケルは戦好きの体力バカとして描かれた。その二人が第15話辺りから少しずつ様相を変え、第18話でまるで別人となる。彼らは、トルフィンに見られるだけの歴史の駒から、歴史を作る主体的存在に変貌するのだ。
{netabare}第18話「ゆりかごの外」では、負傷して「見る者」の立場となったアシェラッドをはさんで、クヌートとトルケルが対照的/対称的に描かれる。トルケルはトルフィンとの果たし合いを続け、クヌートは従軍神父と宗教的な会話を交わすのだが、トルケルのバトルが戦略上の意味を持たない不毛な行為なのに対して、クヌートの言葉は、一つひとつがずっしりと重い。無意味な争いに、愛を追い求める精神が対置される。
「正しく愛を体現できる者はどこにいるのだ」と問うクヌートに対して、戦闘で命を落とした戦士の死体を目で指し示しながら、神父が語る。
「そこにいますよ、ほら。彼は死んで、どんな聖者よりも美しくなった。愛そのものと言っていい。彼はもはや、憎むことも奪うこともしません。彼は、このままここに打ち棄てられ、その肉を獣や虫に惜しみなく与えるでしょう」
その言葉に、クヌートは卒然と悟る。
「わかってきた。この雪が「愛」なのだな。…あの空が、あの太陽が、吹き行く風が、樹々が、山々が…。なのに、なんということだ。世界が、神の御業がこんなにも美しいというのに、人間の心には愛がないのか」
そして、力による略奪がいつまでも繰り返されるこの世に思いを馳せる。
「地を得て、代わりに失ったもの。最も大切なもの。そしてそれは、生ある限り私たちの手には入らぬもの。手には入らぬ。それでも、それでも追い求めよと言うのか、天の父よ」{/netabare}
ここからラストまで、一段と高い視点から歴史の変転が見つめられる。
最終第24話のタイトルは、「END OF THE PROLOGUE(序章の終わり)」だった。いったん脇に退いたトルフィンが、歴史を作る役割を担って再登場するのか、続編が期待されるところである。