雀犬 さんの感想・評価
4.0
物語 : 4.0
作画 : 4.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
希望なき時代の少年漫画
平成という時代は、日本にとって厳しい時代だった。経済成長は止まり、少子高齢化は進み、平成27年にはついに人口は減少に転じた。技術力での優位性は徐々に失われ、特に情報技術ではむしろ他国に遅れをとっている。かつて世界第二位の経済大国だった日本の存在感は縮小していった。結局、平成は「失われた30年」という言葉で総括されることになる。
当然のことながら国の停滞は人々の心、特に若者たちに影響を及ぼす。日本政府は「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」(子ども・若者白書)というものを毎年公開している。これは、先進国(日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン)の10代-20代の若者を対象にしたアンケートである。この資料によると、「あなたは、自分の将来について明るい希望を持っていますか。」という質問に対して肯定的な回答をした人は60.6%(平成30年)しかなく、2番目に低かった韓国ですら77.7%であり、この数字は7か国でダントツ最下位になっている。
子ども・若者白書には他にも多くの興味深い結果があるが、本項でもうひとつ注目したいのは親に対する意識調査で、「生き方の手本となる」か、あるいは「尊敬できる」か、という質問に「あてはまる」「どちらかといえばあてはまる」と回答した人の割合も日本は最下位だった。
何故に「彼方のアストラ」のアニメレビューで、こんな陰気な話を持ち出すのか。本作はジャンプらしい熱血少年漫画で、ハッピーエンドの物語のはずだったのではないか。確かに、「彼方のアストラ」はジャンプが信条とする「友情・努力・勝利」に忠実で、心を熱くさせる話だった。SF警察と揶揄される人々が事細かに指摘したように、設定面でいろいろ大雑把な所もあるが、それは大した問題ではなく、展開力でグイグイ引き込む力があり、観ていて純粋に楽しい完成度の高い作品だったと思う。欠点は科学考証の弱さよりもむしろギャグがまんべんなく寒いことで、もっと面白ければなお良かった。ただ作品の評価はひとまず置いて、ほかに語りたいことがある。
「彼方のアストラ」とはどのような話だったか。学校行事の惑星キャンプに旅立った9名の少年少女は移動先の惑星マクパで謎の物体(のちにワームホールという封印されたテクノロジーであることが判明する)に遭遇し、5000光年以上離れた宇宙空間に投げ出される。浮遊していた宇宙船に避難しすることで九死に一生を得た一行は、水と食料を補給できる惑星を乗り継いで帰還する計画を立てる。こうして、9人がそれぞれの能力を駆使し、未知の環境での危機を乗り越えていくSFサバイバルとして話は進行していく。訪問先の惑星で、それぞれのキャラを活躍させつつ内面を掘り下げていく展開は王道ながら面白い。
一方、「彼方のアストラ」はミステリーとしての性格をもつ。遭難生活を経て9人は絆を深めていくが問題が2つある。誰が何のために自分たちを抹殺しようとしたのか?という疑念、そして恐らくは9人の中に1人、犯人の送り込んだ刺客が紛れ込んでいることである。このミステリー要素が作品に深みを与えている。第9話、そして11話に話が大きく動く。
第9話。義理の姉妹ではなく、実の姉妹ではないかという疑問からキトリーとフニシアの検査を行った結果、2人のDNAは完全に一致する。そしてB班の人間は全員クローン人間で、それが自分たちの命が狙われた理由だという結論を出す。惑星キャンプは彼らの'オリジナル'である親たちが発覚を恐れて処分するための計画だったと。僕はこの展開に衝撃を受けた。
少年漫画ストーリーの基本は勧善懲悪である。平和を脅かす存在が敵として立ちはだかり、自由や秩序を取り戻す戦いに乗り出す、というのがよくあるフォーマットだろう。ではこの物語で何が悪だったかというと…そう、親なのである。これは少年漫画としては特殊、というより異常事態といっていいかもしれない。少年達の戦う敵が外敵から内なる敵へ、挙句には親になってしまったのだから。
本作の親たちは子供への愛情などないエゴイスティックな人物ばかり。結局親たちは断罪され、子どもたちとの縁は完全に断ち切られる。最終話、ウルガーが父と面会する場面はあるが、謝罪の言葉などなく彼の父親は最後まで非情な人間であった。その他の親に至っては再会することもない。また、第11話で故郷アストラの歴史は改竄されていたことが発覚する。すべては大人たちの作った紛い物の世界という皮肉。本作から感じるのは徹底した大人への不信感だ。
大人への批判的な視点の数々は、そのまま現代の大人たちに向けられていると解釈できる。いやたぶん、そう感じなければいけないのだと思う。クローンを作り出して、自分たちが成し遂げられなかった夢を叶えようとするアストラの親たちは、モンスターペアレントのカリカチュアなのだろう。
「彼方のアストラ」の主人公カナタは元十種競技の選手である父親の元で厳しいトレーニングをこなしていたが、選手として大成しなかった親がわが子にスポーツ英才教育を施すというのは現実でもよくある話ではないか。成功してスター選手になれば宮里藍やイチローのように美談として語られるが、成功するのはごく一部であることを忘れてはいけない。子どもの頃もっと友達と遊びたかったと、成長してから恨まれることも当然あるだろう。
親は自分自身の挫折経験の穴を埋めようと、子どもたちに自分の果たせなかった夢を託して実現させたいという欲望を持つ。それが肥大化して子どもへの過剰な期待となり、幼少期からスポーツの猛練習、医者にするための猛勉強、あるいは習い事などを強いるようになる。親世代の生活水準が下がって不全感が高まり、さらに少子化となれば、成しえなかった自己実現の延長戦としてますます親の子への過干渉は強まるものと考えられる。「彼方のアストラ」で'オリジナル'の親たちは一様に醜悪な存在として描かれているが、ここから「子どもは親のコピーではないんだ」という主張が感じ取れる。
本作のストーリーは、「親も大人も信頼できないから、自分たちの力で道を開くしかない」と言い切っているように思えてならない。今の時代、必要なのは信じられる仲間と自分自身の能力。加えて、親から宇宙の果てに捨てられる不幸な境遇にあっても世間の注目を集めていることを逆に利用して自己実現に繋げるようなしたたかさ、ということだろうか。でも本当にそれでいいのだろうか。親と子のコミュニケーションは、必要不可欠なものではなかったのか。
「彼方のアストラ」は大人たちにとって、非常に厳しい現状を突き付けているように感じる。この作品を観終わって、もう今の時代は、大人が生き方の見本ではなくなったんだということを痛感した。それは「自分たちが生きている間に船が沈まなければいい」という精神で平成を乗り過ごしてきた大人たちへの当然の報いなのかもしれない。果たして令和の少年漫画は、若者たちに浸透してしまった大人への不信感を払拭できるのだろうか。