Progress さんの感想・評価
4.5
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
まちカドまぞく レビュー
イントロダクション(公式サイトより引用)
ある朝突然闇の力に目覚めた
女子高生・吉田優子は
一族にかけられた呪いをとくため
魔法少女を倒すことになってしまった!!
だけど相手は命の恩人!?
そもそも全く勝てそうにない!?
ポンコツ系庶民派まぞくと
クール系筋トレ魔法少女が織りなす
日常系マジカルコメディー
はじまります!!!
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さて、プチヒット的な流行語もあった本作。
個人的な評価ポイントを書いてこうと思います。
・EDが良い
スピード感と明るさのある曲調と、作品に沿った歌詞。
なにより本編とはかけ離れたキャラデフォルメのインパクト。
可愛らしさと狂気の入り混じったキャラクター達の動き。
回を重ねるごとに理解する意味不明なアイテムたち。
それと同時に強烈なデフォルメでありながら、関係性なども不思議と理解できる。
等々、書いてきましたが、やはり最終回のラストでOP曲ではなくアップテンポなED曲が採用されたことからも、このEDには人を惹きつける魅力があるのだと思いましたね。
・シャミ子と桃の関係
シャミ子単体がかわいいという項目にもしようと思いましたが、それは省略。
シャミ子が桃に挑む。シャミ子は攻め側、だけどシャミ子は弱いので、
桃に負けて、筋トレをさせられてしまう。この時シャミ子は不本意ながら受け手側に回ってしまう。
桃はシャミ子から挑まれる側。受け手。だがシャミ子がか弱すぎるので、筋トレをさせるという攻め手側に回ってしまう。
恐らく大体の回が上記のサイクルが組み込まれており、受け手と攻め手の逆転が二人の関係性の構造になっている。それが、敗者側のシャミ子の決まり文句の「これで勝ったと思うなよ」というセリフに象徴されています。
そこから上記のサイクルをさらに回して、シャミ子が再び攻め側に回るのが、後半の桃の精神的な弱さをシャミ子が補おうとアクションを行うシーン等がある。「これで勝ったと思うなよ」を桃が言うのは、正しくシャミ子が攻め手であったためです。
そこにコメディ要素として、シャミ子が弱すぎる、桃が筋トレバカなどの属性を足すことによって、物語をコメディチックな方向に持っていっています。
・コメディ要素 多属性による飽和攻撃
大体、たくさんの物が飛んで来たら、何が飛んできたかいちいち覚えていないものです。
この作品の一つ一つのネタを覚えていない、という意見が散見されました。それは、この作品の構造が漫談に近いからかもしれません。
会話劇の中で様々な話題をキャラクターの属性から提供し、代わる代わる話題がずれていって、本筋がどこか見えなくなる。
しかし、コントとしてみたらどうか。コントには、物語の筋があります。
たとえば、スーツショップに来たお客は目当ての似合うスーツを探すために、店員と話して決めるというストーリーがあり、お客と店員のどちらかがボケツッコミに入り、ストーリーの中にネタを挟むことによって、コントとして成立します。
つまり、本作品のストーリーは「魔法少女と魔族の勝負」という所にあり、その中に、ネタを挟んでいき、面白いコントにする。
つまり、コントとして見たとき本作は、ネタに引っ張られがちですが、本来は、「魔法少女と魔族の勝負」というストーリーがあるはずなのです。
しかし、印象が薄い。何故か?それがネタに引っ張られるという事です。
そのネタとは、魔法少女と魔族というのはネタではなく、コントのお客と店員の登場人物の関係です。ネタとは、その話をいかに面白くするかの、言わば登場人物の個性です。店員で言えば、意識が高い、であったり、やる気がない、であったり、お客であれば、店に来てるのに物を買いに来ていないであったりの可笑しさです。
つまり属性の持つ「話題性」によって、物語の本筋からずれていき、最終的には「これで勝ったと思うなよ」にたどり着くが、どういう勝負をしていたのか分からなくなるほど、属性が勝負の中に詰められています。
それが悪いのではなく、むしろ意図的に「勝負になっていない」という構図を作り出しており、勝負にならない可笑しさというのを狙っていたように思えます。
そして、最終回への伏線として、回を重ねるごとに関係性が深まっていくような構成にしてあります。関係の積み重ねは、日常の中に存在しています。
・日常
ここで、本作品の日常という物はなんでしょうか?
それは、桃とシャミ子が対決する勝負がストーリーであり、その勝負の幕間の物語として存在するものが日常であるか?ちょっと違和感がありますね。勝負自体が、日常の一部として、取り込まれている、そういった印象を受けるのではないでしょうか?
つまり、作品は、「日常」という世界の中で、シャミ子と桃が勝負をするというストーリーが発生していると考えるのがしっくりきます。
日常の中に取り込まれた勝負は、異質なものとして扱われるのではなく、よくあることとして周囲に認知されています。つまり、短時間で大きく関係の変化のある「ドラマ」ではないのです。
シャミ子のオンリーの日常は、家族という物が存在し、家族とのドタバタコメディが展開されます。
一方の桃は、家族という物が存在しない。だからと言って、桃に日常がないわけではなく、彼女にも衣食住の生活があるわけです。それは、シャミ子の視点によって明らかにされることで、シャミ子が桃の日常を知る、関係性が深まるという事象になっていきます。
日常における関係性が深まることによって、また日常の中にある勝負の関係性も、変化していきます。単純に法少女というだけで敵対する存在から、桃を友人と考えるようになります。これが、「ドラマ」という世界で短期間に構築されるものではなく、「日常」という、ドラマより長期間の時間を持った世界で構築される関係性であるからこそ、登場人物は「日常」を重要視するのです。
それは桃がシャミ子の父を封印した出来事に関わっている事へのうしろめたさから、日常における関係性を距離を取ることが、ドラマであるとしたら、それを日常側へ引き戻そうとした、シャミ子の言葉がいつもの勝負の言葉であったのは、「勝負」が日常側の出来事であるからではないでしょうか。
・作中における、音の表現。
シャミ子や先祖像の発する咀嚼音は、リアルよりもアニメ的であるように思えます。
というのも「もしゃもしゃ」あるいは「もちゃもちゃ」という音を、口や喉によって発した言葉によって表現しています。
リアルな咀嚼音というのは、言葉ではなく、音である。
その他にも、シャミ子が負けて泣くときに、「すんすん」という鼻をすする音、「モガー」と人が怒ったりするところの叫びを、声で表現しています。かつ、それをセリフに被せてきています。つまり、あくまでそれは、擬音であり、セリフではないのです。なので、これは擬音の表現方法についてなのです。
まだわかりにくいので、例えを出そうと思います。
砂を救い上げて、下に落とすとする。その時、砂が互いに擦れ合って音を出す。
その音を聞いた人間は「サラサラ」だとか「ザーッ」とかの言葉で、砂が落ちた音を表現しようとする。
つまり、言葉によって表現される音は音を聞いた聞き手側の感想にすぎず、擬音を言葉にして表現するのは非現実な表現(実際の音を再現したものではない)と言えますね。
もちろん、それが悪いかどうかが問題ではなく、その表現によって得られる効果が問題です。
現実・非現実という視点で言えば、それは非現実な印象を与えるために作用します。
現実の咀嚼音を使ったならば、リアリティを出したいんだなという事で終わってしまう。物語の問題が咀嚼音にはない。
しかし、言葉による咀嚼音は、非リアリティであるため、引っかかりが起きる。
評価基準は、咀嚼音のリアリティではなく、咀嚼音の面白さにシフトします。
なぜか、言葉による咀嚼音は、コミカルで面白い。
コミカルさを表現するには、言葉による咀嚼音の方がいい。
漫画で言えば、咀嚼音などは吹き出しのない文字で描かれている。
つまり、アニメーションを制作する側は、咀嚼音を音にするか、言葉にするか、選択を行い、言葉にすることでコミカルさを得たという意図を読み取ることが出来ます。
他作品でも、同様の表現はあったと思いますが、私はこの作品が最初の引っかかり。リアリティではないし、フィクションのための表現というには、大層すぎる。これは、コミカルさという、少しクスっと来るような、引っかかりを生む表現だと思います。
・最後に感想のまとめなど
最後に作品の印象を挙げて、振り返ってみます。
シャミ子は頑張り屋で、弱い。
桃はクールで、強い。
でもそれは、逆転することもあります。
二人を取り巻く周りの世界は面白くて変なものが一杯ある。
そんな日常の世界で、二人の関係が積み重なっていく。
お互いの気持ちを思いやりながら奇妙な戦いを続けていきます。
そこにあるのは、優しさであり、優しさを相手に伝えられる強さがあります。
お互いを思いやった行動に、人はやさしさを感じ、それをあえて行う難しさを知っているからこそ、そこに強さを感じます。
だからこそ、桃を思いやるシャミ子が強い子に見えたのでしょうね。