「ふしぎの海のナディア(TVアニメ動画)」

総合得点
78.5
感想・評価
582
棚に入れた
3142
ランキング
550
★★★★☆ 3.9 (582)
物語
4.0
作画
3.6
声優
3.9
音楽
4.0
キャラ
4.0

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ネタバレ

Progress さんの感想・評価

★★★★★ 4.4
物語 : 4.5 作画 : 4.5 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

ふしぎの海のナディア レビュー

今この作品を見るという意味は、やはり、今も作品を作り続けている庵野秀明監督という人物を理解することが含まれているのは事実ですが、もちろんアニメというのは多くの人で作られているわけであり、ひとつの作品としての意識を忘れずに見ていこうと思います。

まず、作品の評価について、世界設定は、この作品を考える上では欠かせないでしょう。
「天空の城ラピュタ」と同じ企画から生まれているという本作。
超古代文明や、飛行石の代わりとなるブルーウオーターと呼ばれる宝石。
登場人物設定として男の子と女の子が一緒に冒険をする。
素人目に見てもいくつかの共通の設定を見出すことができます。

超古代文明については、SFとしての評価軸に挑戦したいと思います。
『海底二万里』及び『神秘の島』を原案としている事を一応知識として記述しておきます。
物語に出てくる言葉の元ネタは神話や伝承の中から構想を得ているようにうかがえます。
ここで、神話、伝承という物から構想が作られることによって、現実世界との繋がりが視聴者に生まれる事になり、作品を掘り下げたい人たちにとっては、元ネタの中から作品の神話性を見出すことで評価につながっています。
ただし、問題としては、今ある科学技術との連続性が、超古代文明にない事です。超古代文明は、作品中の技術とは別の独自のルーツによって科学を発展させており、現在の技術と繋がっていないサイエンスを扱っているものは、SFなんだろうか?これは、オカルトの類なんじゃないだろうかという感想は、SFとして評価するにあたり感じるところはありましたね。
しかし、例えばノーチラスなどの建造技術であったり、動力は現代技術から言えば説明できる範疇であります。(コーヒーカップがテーブルから出てくるのは、見たことがないですけどね)
視聴者視点で技術を見た場合は、現代技術との連続性がありますが、ジャンなどの登場人物が生きる世界からすれば、全く連続性がない技術に見えるんですよね。ジャンがつなぎ目のないノーチラス号をみてどうやって溶接したんだろうと言うあたり、ジャンの世界の技術的に想像のつかない領域にあることが示されています。

SFのジャンルは広く、ロボット物も、SFの中では主流といっていいでしょうが、私にとってのSFは、超古代文明などに隠されたオーパーツなどを指す、オカルトじみたものも含まれており、ふしぎの海のナディアという作品は、もしかしたら物心がつくか怪しい時期に見て私の人格形成に影響を与えたんじゃないかと思うほど不思議なくらいピンポイントな作品であります。


ここで、私は、SFとは何か、という壁にぶつかりました。つまり、作品がSFかどうかを論ずる前に、SFがどこまでをSFと呼ぶのか、何をもってSFというのか、その定義があいまいなところで思考が空転してしまいました。もちろん、その定義がレッテルやジャンル分けであるという意味で終わってもいいのですが。
サイエンスが現実的な物であるなら、フィクションは虚構であり、二つの交わらないはずの物がまじりあうジャンル、これを理解するのは、かなり難しい。

まず、SFに対しての空転した私の思考の残骸と印象を書いてみます。
・科学技術を使っている、それも、現代より発達しているというフィクション性を含む。
・その技術を判断する材料として、外界からの力に対してどのような性能を持つか。
・サイエンスフィクションにリアリティは必要なのか。つまり、外界の力を克服した未来の技術を示すからこそ、フィクション足りえるのではないか。そこに現代技術で説明できてしまうなら、フィクションではないのではないか。
・必ずしも現代技術と技術の過程が地続きである必要性はない。問題は、技術を評価する目線。性能。

ここで様々な人のSFの定義について情報を収集したのですが、何をもって作品をSFとするか、一つの回答が思い浮かびました。

鑑賞者がSFと思えばSF。

鑑賞者は、作品中の技術が超技術である事を承知で見ているのです。つまりフィクションであると。
現代技術によってそれが達成できるかどうか、という判断基準は、フィクションを見ているという前提によって的が外れている。
科学的な要素をそこに感じることが出来れば、それはもうSFなのです。
その感じる要素とは。
それは、映像的な形、潜水艦の形、飛行機の形。映像的な動き、なめらかなリアリティのある動き、超技術の性能を試験する現象の動きのリアリティ。
作品の時代における技術との性能の差。
そういった映像的視点、描写的視点によって、技術は説明できないけれども、性能が伝わるものが、サイエンスフィクションと鑑賞者に思わせることが出来るのだと、一つ回答を得ました。


その視点で見ると本作品がサイエンスフィクションとしてどうかという評価がしやすくなりました。

ノーチラス号のノット数の速さ、ガラスの強さ、形や作りの未来的形状さ、そのどれもが、今人間が克服できていないことを克服した性能を持っていると、リアリティのある現象を作品が描写し、現象に対し全く説明できない高い性能を示す、フィクションの賜物である事を感じれれば、技術的にはサイエンスフィクションにカテゴリされる作品と言っていいのではないでしょうか。

個人的な意見として、読んできてくださった方も違和感を感じてたと思いますが、私の視点はノーチラス号のガラス窓に焦点を当てていました。

深海の圧力にに耐えうるノーチラスのガラスのぞき窓。敵の攻撃にはかなりあっさり破壊されます。
このガラスがどれくらいの圧力に耐えるかという指標について、深さ10mごとに1気圧増えるとします。
ノーチラスの秘密基地がある南極の最大水深は7,236 m。
つまりその深さではおよそ724気圧かかるため、1平方センチメートルに対して724kgの水圧がかかります。
これに耐えうるガラスは相当なものです。ちなみに日本の「しんかい」(水深6500mまで潜行可能)はのぞき窓はメタクリル樹脂でできているそうで、ガラスですらない。よってガラス的な割れ方をするノーチラスののぞき窓は、相当なガラス技術によってできています。

耐圧という性能から作品を見て、深海で耐える凄い性能を持つガラスであり、現代技術は説明できないフィクションの賜物であるという事が言えます。
現実の水圧という物をリアリティをもって描写することで(まあ本当に水圧の描写ががリアリティがあったかは微妙な所ですが)、サイエンスフィクションとしての出来を評価できるのではないでしょうか。

(蛇足:なぜこんなにSFであるかをこだわるかについては、『海底二万里』及び『神秘の島』が、SF小説であり、SFの系譜である事から)



【サイエンスフィクションを思考したメモ】
{netabare}
人間は科学の発達によって外界からの力、行動的制限を克服したという、性能的目線によって、科学の連続性を感じ取り、フィクションであったとしてもサイエンスの枠に収めることが出来るのです。
たとえば、地を這う人々の時代に、空を飛ぶ人のフィクションがある。地を這う人々は、ジャンプしたら1秒くらい宙に浮くくらいの感覚しかないが、そのフィクションではいつまでも空を飛んでどこまでもいける。
滞空時間という性能に焦点を当てて、それが、オカルトであるか、サイエンスであるかを判断する。その判断基準は、周りの描写の正しさが決める。それは、超技術の技術を説明するのではなく、性能を評価するものの正しさで決まる。


では、オカルトじみた超技術について、それをオカルトではなく、サイエンスフィクションに落とし込むにはどうしたらいいか。
この作品がサイエンスフィクションであるといえるものは何か?

まず、作品中の世界の技術レベルとの比較。

さて、ジャンがノーチラスの技術が想像もつかない凄いものであると描いている事を先ほど示しましたが、SF的には、それではSFにならない。
なぜ凄いのか、というのはジャンの世界では溶接はつなぎ目があるという技術の比較を行ったからです。
では、ジャン達の世界の技術レベルを知ることがまず前提です。
1889年。飛行機がまだ発達せず、潜水艦もまだ発達していない時代。ようやく電気が使われ始めた時代となっています。
戦艦が登場したとき、艦長はノーチラス号のノット数に驚きます。最大船速108ノット。
1900年代にアメリカで最初に就役したホランドという潜水艦は最大速度5ノット。
作品世界中では如何に超技術であるかわかるかと思われます。

この技術の比較からわかるように、凄い技術であるかという事を描写するためにあるのが、性能であるとするなら、
作品中の技術がサイエンスにのっとった現実的な物であると評価基準にするものは、いったい何でしょうか?
(結局この考えはサイエンスフィクションであるという考え方によって、現実的な技術である必要性がないという理由によって必要のない評価基準であると否定された)

「しんかい」におけるメタクリル樹脂のガラス窓と、ガラス製ののぞき窓のノーチラスでは、技術が違いすぎるわけです。この場合、技術の連続性を現代技術とノーチラスの技術に見出すことが出来なくなってしまいました。(サイエンスフィクションの技術は必ずしも連続の中にある必要はなく、説明できないフィクションだからこそ、超技術を描ける。)
{/netabare}

さて、長い長い、SFとはという問いと、この作品がSFかという問いに一定の私見を出したところで、SFの示す、発達した技術を使う文明へのメッセージ性について考えてみます。
SF作品では、フィクション上の科学によって作られた機械が何らかの人間的意味、倫理観、感情、道徳であったりを問う物がありますが、本作品はどうでしょうか。
超古代文明「アトランティス」の人々が作った「ノーチラス号」、「バベルの光」、「発掘戦艦ニューノーチラス」「ブルーウオーター」などなどがあります。
印象的なのは、敵味方共に超古代文明の科学を使うという事です。
それに気づいた主人公のジャンは「ノーチラス号はと戦争をしてるんだ」と苦しそうに言います。これはジャンが科学好きであり、科学が戦争の道具に使われている事の苦しさを描いています。
ノーチラス号とネオアトランティスは戦争という行為をしている最中であり、超古代文明というSFが作り上げた科学力は戦争という道具として当てはめられています。
つまり、SFによって得られた膨大な科学が、人にどう作用するか、人が力を手に入れようとする欲深さと、それを利用して戦う業、そういった観点で見れるのではないでしょうか。
ここで一つの見方としてはナディアの「戦争が嫌い」という思想で見たとき。
ナディアは超古代文明と繋がりがあり、しかし古代文明の力は戦争に使われている。つまり、自分のルーツである文明でありながら、それが血に塗れている事を気付くことになります。
そこで彼女が故郷を探しているという話にもつながり、彼女のルーツである文明が彼女の思想的には受け入れられない物であり、その時ナディアはどこに拠り所を求めるのか、という問題に、ジャンたちがいる場所、ナディアが生きた場所に帰る場所を見つけるのです。
つまり、ここでSFでつくられた超古代文明は、元々帰る場所であったが、それを人間の意志によって否定される場所という位置づけになります。さらに言うと、科学が発達し有り余るほどの力を手に入れられたとしても、それが今生きている人たちと釣り合う価値ではないとも、とれる意味を与えたのではないでしょうか。
しかし、一応ジャンの科学好きから言える戦争に素晴らしい科学が使われることがつらいという視点から、科学技術を否定まではしない、バランス感覚に成り立っています。ジャン視点とナディア視点で見たSFとしての発達した科学技術へのメッセージは、自分の知らない技術によって与えられた力を行使する選択権は、人間にゆだねられており、使うかどうか、どう使うかは、人の心のありようによって決定するという、科学を否定せず人間の心を問うものになっていると感じました。

さて、SFという枠を抜け出して、物語としての今作品の魅力は?
まず冒険活劇として、どうか。主人公ジャンとナディアの冒険であり、この冒険を通してワクワクするような感情は、確かに私の中にあったと思います。
それは、陰謀をもつネオアトランティスという組織と戦うノーチラスという構造と、序盤のジャンがナディアをネオアトランティスのアジトから助け出すという、ヒーロー的な活躍の活劇。そしてブルーウオーターやノーチラスという、超技術の秘密、世界の秘密についての好奇心という、世界の広さを示した冒険的要素。その二つにおいて、冒険活劇として見れたと思います。
また、映像的にみても、N-ノーチラスで登場した、バリアや、ネオアトランティスが使用したバベルの光(レーザー兵器)など、未来的な兵器への好奇心、エネルギー的なスケールの大きさの高揚感、それらの感情を引き出す、物質や構造物の破壊の演出のすばらしさ。
そういった点についてはしっかり押さえておくべきでしょうね。


次に、恋愛物としての評価。
ネモ船長を中心とする、大人によって構成される、コメディとアダルトな恋愛模様。ネモと女性たちのお互いが示す愛の示し方、愛の形(ここで形とは、どういった意味で愛するか、何故愛しているかなど)。
ジャンとナディアの関係から描いた、人種が元々持つ容姿や、個人のダメなところを超えた愛、異性を愛することがいまいちわからないナディアを通して描く愛の示し方、愛の形。
そういった部分をくみ取り、恋愛というよりも、人の愛の示し方や愛の形を描いた作品だったなと振り返りました。


総合的な感想としては、使いまわしのカットがあったにせよ、それをうまく使ってストレスにもならなかったことが素晴らしかったです。無人島編における茶番も、箸休め的な意味でも良いし、ジャンとナディアの生活感を描いた、登場人物のキャラクター性を深める形になったと思います。
SFとしては、様々な技術を語ることが出来るでしょう。未来兵器としてバベルの光の光学兵器のすごさや、全面を守れるバリアなど、アイディアこそ示した人は別にせよ、現実では達成できない性能を持つ未来の技術を「アニメ」で一つの形を描いたことに、それは意味があるのではないかなと思います。のちに様々なアニメでレーザーやバリアは描かれていったのでしょうが、現実の神話と当時の未来技術を結び付けた独自性も、後世の作品に影響を与えたのではないでしょうか。

また、冒険活劇やラブロマンスとしても魅力があり、冒険によって変わる主人公たちの人間性の深さの変化、もしくは元から深い大人達の人間性、恋愛模様における人間関係の移ろいが、群像劇のような登場人物達を考察する上での面白さ、関係性の複雑さや恋愛における感情の複雑さを紐解く面白さが、そこにあったように感じます。




【書こうと思っていたことのメモ】
{netabare}
庵野秀明という人物を知る過程
ナディアという少女を肌の色を触れつつヒロインとして論じた場合、彼女とは?
ラピュタとの設定の一致。
映像的に観た、使いまわしの多さ。無人島編の作画エネルギーの節約。
SFとしての評価、世界設定は、どこまで登場人物を拘束し、そしてうごかすか。
sfにおける未知は、主人公にとってどういう存在か。敵と味方。巻き込まれる主人公
{/netabare}

投稿 : 2019/09/16
閲覧 : 476
サンキュー:

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