「聲の形(アニメ映画)」

総合得点
88.4
感想・評価
1522
棚に入れた
7491
ランキング
115
★★★★★ 4.1 (1522)
物語
4.2
作画
4.3
声優
4.2
音楽
3.9
キャラ
4.1

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ネタバレ

Progress さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

聲の形 レビュー

どういう切り口で話したものかと、様々な視点で語られる近作品。
登場人物たちに感情移入するような作品でもあるし、聴覚障碍について知る作品でもあります。社会問題を語れる作品という向きもあります。

私もいろいろと感想を考えましたが、上記の3つの性質とアニメーションとしての感想の範疇にしか収まっていません。
そこで歯がゆさもあったのですが、上記の性質ごとに感想を残しておこうと思うに至りました。

まず、1次的な感想「感情移入」については、
石田の罪に対しては共感できるところがあったんですよね。いつ謝るんだ、許されるな、逃げるな、救われるなという視点はずっとありました。
高校時代の石田の視点は、自己への罪の視点です。西宮の視点は許しの視点。

こういった、視聴者が登場人物の誰かの立場に立てるような構造になっている事が、様々な視点での感想を生んでいるんだろうと。

それは、小学生時代の、クラスでの役、いじめっ子や、いじめられっ子、傍観者、加担者等の、どこかに当てはまる人物を出して、どこかに視聴者がはまるような構造にしています。そして人物それぞれが、罪悪感を感じていることを描くことで、重ね合わせた人物の罪が自身の罪への意識を刺激するから、良くも悪くも擁護的になったり批判的になったりするのでしょうね。
それは、西宮といういじめられっ子、という人間が感じている罪悪感に対して、否定或いは肯定によって自己を擁護・批判する感想や、石田といういじめっ子が抱いた罪悪感に対して、肯定・否定することによって自己を批判・擁護する感想など、役が持つ罪の意識に対して、視聴者自身が持つ罪への意識や理解によって、様々な感想が生まれるんでしょうね。
かつ、クラスの中での役というのは、小中高の中で大小有れど変化が3回あり、複数の役を演じた経験から、作品中の複数の役に共感するから、複雑に考えることができるのでしょう。


2次的な感想「聴覚障碍」で言えば、コミュニケーション方法の一つが失われることによる、意思疎通の遅延、人間関係への影響です。
聴覚障害によって起きる意思疎通の問題に対し、様々なアプローチの提供、例えば、ノートに書く、手話を話す、表情で伝える。それらアプローチに対する結果の提示。結果は、情報の伝達速度、習得の簡便さ、正確な伝達力など、様々な評価基準によって示されていきました。
そして、コミュニケーション方法の一つを持っていないという事荷よって起こる事象を、西宮がコミュニティから疎外されるという結果を示しました。ここでいうコミュニティは、聴覚を持っている小学生のクラスです。コミュニティの障碍の許容というのを考えるには、小学生が許容を知っているかという問題があることで、考える必要性をあまり感じません。
つまり、聴覚障害によってコミュニティへの参加へのハードルが上がっている事を知ることで、聴覚障碍者への理解が深まる作品だと思います。


3次的な感想は、人間関係の中でも社会と接続された、いじめという問題につながっていきます。ここからは、映像的に不快だと思ったものも、敵としての表現だったではなく、何故必要だったのかを理由を考えなければいけません。

この作品における小学生時代のいじめ問題から展開される、「誰が悪い論」は、視聴者を誘導する意図が感じられます。そこから得られる作品構造は、登場人物としては被害者、被疑者、共犯者、傍観者、部外者等であります。そこで行われる行為は、暴力行為、非難、謝罪、罪の擦り付け、罰の執行(私的制裁、リンチ)などです。
誰が悪い論において、行為のほとんどは相手への自分から行う行為であり、行為を受け取った側は相手を自身の解釈で理解します。「この人は自分が嫌いである」と。

そして、相手からのいじめ行為に敵意を感じない、この枠に収まらないような人物が「西宮」です。彼女の論理は「自分が悪い論」です。なぜ西宮がそういった性格になったかはわかりませんが、彼女は自身に対してコンプレックスがあり、友達の意味は自分を受け入れてくれるような素敵な存在であったわけです。それによって、石田たちから受けるいじめ行為に対して、理解しようとはしなかった。彼女が友達への理想を崩さなかったために起きた、相手への無理解。

しかしここに落とし穴が存在します。いじめられっ子となってしまった「西宮」の性格を考えないこと。いじめられっ子が全て西宮のような性格をしている、とは言えないことです。西宮の「自分が悪い論」を持っているような人間でもなく、友達という理想を抱いているわけでもない。そんな人が、西宮の事を理解せず、こんな人はいないと、西宮の存在を否定することこそ、人への理解をできない現れではないでしょうか。
それもこれも、作品中の登場人物ほどに、他者を理解するという事を、世間は考えていないのが原因だと思います。
西宮と意見者の境界があいまいである事、西宮の性格を理解するという、本作品のテーマかつ魅力の部分を丸ごと切り捨てた意見が発生するのも本作を考える上で興味深かったですね。

つまり、西宮の個性を理解することというテーマと、いじめというテーマから読み解けるのは、相手を理解することを考えるというメッセージが、この作品に込められているのだと思います。


最後にアニメーションとして、こういう風に見せるのは面白いな、と思った点に、雑感を書かせていただきます。

①目線、目の美しさ。
 冒頭のシーンで小学生の植野の目線(目の動き方)が印象的。
 京アニという事で言えばけいおんの秋山澪の「don't Lady」を使用したEDの目線の細やかな動きに代表されるように、目線が非常に重要視される。
 また、ヴァイオレットエヴァーガーデンのように、繊細な目の光彩の描きは、京アニの武器であり、最近のアニメでも意識がある。
②顔にでっかくついた×マーク。
 ①で指摘した京アニの武器、目の美しさ、細かさをあえて隠すという、演出的だと感じた。
 周囲に×がついていないときは、石田視点ではなく、視聴者視点となる。視点の切り替えによって、感情の起伏を引き出している。

③登場人物の様々な目
 ①に書こうと思ったが、一応分ける。
 石田は三白眼、女性陣は京アニ特有の美しい目、島田は死んだ目、永束は何と言えばいいか、漫画的。
 そして印象的なのが、真柴。敵かと思うようなにやついた目。信用できない目。しかし、これが最大のポイント。島田もそう。
 死んだ目であろうがにやついた目であろうが、それは印象でしかない。
 作中の登場人物が真柴や石田をどう思っていたかはあまり語られないが、視聴者に信用できない印象や、心が死んでいるような印象を与えさせた。
 しかし実際のところ、真柴はそんな人を馬鹿にした人間でもなかったし、島田も心が死んでいたわけではなかった。
 目の描写によって人間性を描いてはいるが、それが全てではないという、パーツで見る事の不完全性があった。

④石田の目線、下向き
 石田視点でみた人物の脚の描写が多い。これは石田の塞ぎこんだ状況下での目線を示している。だから何だというわけでもないが、一応石田という人物の理解になる。

⑤心理的距離の表現
 印象的なのは、飛び降り前の西宮、石田の花火を見る河川敷のシーン。
 この時の石田と西宮の、実際の距離以上に距離を感じる、心理的な距離の表現が描かれている。
 ほかにも、そのシーンの対比として近づいたりするシーンや、登場人物のパーソナルスペースの距離を感じる描写がいくつかある。
 人が理解している物かどうかによって、またはその人の元々持つ性格によって、パーソナルスペースはその距離が変わる。


⑥聴覚と視覚の関係 
 石田の耳の塞ぎこみ。耳をふさぐという表現について。高校生になっても周りの声が自分の悪口を言っているかもしれないという理由で耳をふさいだ。
 この時の周りの描写に注目した。描かれるのは口元であり、目線は描かれない。
 目線はもしあってしまったら、怖いのだ。自分の悪口を言っているかもしれない人の方向は怖くて見れない。聞き耳を立ててしまう。
 しかし、実際は石田と関係のない話を周りはしている。それに気づかないのは目を見ていない、視覚を使っていないからだ。
 つまり、石田が聞き耳を立てている事によって感じる被害妄想は、聴覚だけわかる物事の不完全さや受け手側の心の持ちようを示している。

⑦ アニメーションの嘘 
人が好意を示したりであったりとか、そういった微妙な表情は実際の顔だと受け取りにくい。
裏で何を考えているかわからないような顔もしばしば。
今作では目と目を合わせて西宮と石田が話す機会が多い。逆に目を合わせないときは本音を話していないという描写もある。
その中で表情から相手の好意を自然と読み取るということを意識的に映像で見せている。ここが嘘というか、誇張だ。意識的に強く表情が焼き付けられるように絵を作っている。
表情という視覚情報をコミュニケーションのアプローチとして提示していた。

⑧石田のリハビリ
石田の目線が下向きである事、耳をふさいでいる事は前述した。この行為の意味は視覚による表情情報と、聴覚による会話情報を得る事を拒否していることを意味している。
この事実から得られることは、彼の視点から見える×は、石田にとって情報を遮断している対象のマークであるという事だ。
ラストシーンで耳をふさぐことをやめた事からも、彼の心のケアが描かれている事は間違いない。

⑨聴覚の代替方法としての手話
 本作では手話によって会話が進行するシーンがある。
 石田がいちいち手話を言葉にするところがリアルでないという考えもあるが、手話を分からない視聴者を物語から置いてけぼりにしないために、やむを得なかった部分がある。
 手話を見せることによって発生するのは、手の描写である。
 手を移しつつ、顔を見せておかねばならない。顔の表情が重要だ。
 印象的なのは、西宮の母、基本無口に近いが怒るときはもっと無口である。
 無口でも状況や表情で怒りは伝わるのものであることがよくわかる。
 聴覚障碍である西宮とのコミュニケーションは手話であるが、実際のところ、表情によって手話に含まれる意味を補完している。
 アニメーションや漫画であるがゆえに、意識的に表情が強調されている。現実はもっとよくわからない顔の方が多い。
 公共放送の手話を見るとかなり表情豊かに表現している。
 西宮の顔の表現によって物語の進行を悟らせるシーンもある(告白の前、飛び降りなど)。

⑩それでも自分の声で伝えたい西宮
非常にショッキングなのは、西宮の声。
言葉を発するときに音程がばらばらであったり、言葉の伸びがおかしかったりする。

小学校の音楽の授業で歌わせるのは流石に配慮が足りなすぎるのではないのか。
西宮の告白シーン「好きです」が「月です」に聞こえてしまうのも難しい。
耳が聞こえないのに言葉で思いを伝えたいと思う西宮のその時の考えには非常に興味が湧く。なぜ、適切に伝えられる手話であったり、ノートであったりを使わなかったのか。割と私はサイコパスなのでわからない。わからないからこそ、難易度の高い方法で伝えようとした西宮が魅力的であると言い訳しておく。


まとめ
この作品でシビアでセンシティブな感想が沢山生まれてきたわけですが、人それぞれの過去の経験に基づく個性を引き出すような作品であった事、登場人物に感情移入をすることで深く強い感情を込めた感想が生まれる事。いじめ問題を通して人の理解することとその手法を考えさせる事、そのような意味で、私は非常に意義の深い作品だったと感じています。






【思考メモ】

いくつかの試行錯誤した感想の名残です。
{netabare}
【西宮を通してみた、他人への理解】
西宮視点から作品構造を見ると、西宮自身と他人があり、他人には友達というカテゴリがあります。ここで「誰が悪い論」と比較を考えながら、西宮と他人、友人の中でどういう行為が行われるかを考えます。西宮から他人へは、友達になりたいという努力行為(一方的な自分を理解してほしいという行為、後述する)、西宮から友達というのは、願望はありはすれども、何をすべきか、西宮自身もわかってはいません。(西宮には友達がいなかったため)
一方で、他人から西宮に行われる行為はどうでしょう。他人は「誰が悪い論」の世界のみからきていると仮定し、他人から受ける行為は被疑者によるいじめ行為だけに限定し、人の理解度、というパラメータを設定します。西宮は他人への理解度が低くても、人を信用している。そのため、相手がどんな人間か理解しなくとも、友達になろうとする。
小学生時代の石田などは、他人への理解度が低いと、信用していない。信用が低い相手(西宮)から優しくされたりすると、不信感により攻撃性が発現する。相手がどんな人間か理解しなくては、友達になれない。

そこから推定するに、他人から西宮に行われるいじめ行為は、反応を見たい理解をしようとする行為となる。
自分がやられて痛いと分かる、嫌だと思う言葉を投げつけるなど、自分の中で理解している感情を西宮の中に見つけるために行っている。彼らはアプローチに対する反応を待っており、暴力に対しては暴力を望んでいる。

つまり二次的なアプローチ論に戻るけど、いじめ行為が相手を理解するアプローチの一種として、子供たちは手法の倫理性を無視して暴走してしまうのかと考えてしまいましたね。

しかし、その暴力的アプローチは、西宮にとってどう映っていたか。
石田が自分で黒板に書いたひどい言葉を、黒板から消した行為に西宮は、ありがとうと書いたわけですから、ひどい物に対して酷いという感情を持っているわけです。暴力的アプローチによって、彼女の他人への理解はどうなったか?
世の中の人がこういう事をするひどい奴ら、ではなく、世の中の人に嫌われてしまっている自分という、他人に理解されない自分が嫌いだというのです。これが彼女の問題であり、自殺願望となる原因。(植野の西宮が私を理解してくれないという発言は、こういった文脈の中にあると考える)西宮にとって他人への理解はどうでもよく、自分を理解してくれる人が友達という、他人を見ていないという問題が浮き上がってきます。
しかし西宮の問題は、石田らが行ったいじめ行為の悪質さから増幅される、「誰が悪い論」で西宮は悪くないという考えに潰されがちなのですが、植野のセリフの文脈や西宮の自殺問題から考えるとどうしても作品が示しています。

【雑感的メモ~なぜ普通の学校に西宮を通わせたか?】
私が感じた疑問は、なぜ西宮は聲の高校に通わなかったか。という事。
西宮が普通の高校に通う事で、あまりに聴覚障害に理解のない子供たちと接しなければいけないこととなった。同じように聴覚障碍を持つ人の中で過ごせば、同じ悩みを持つ理解ある人々と出会ったはずである。片親である母親の経済状況なのだろうか?いずれにしても、この設定の謎は本筋を語るには必要のない謎だと思う。しかし、この転校がなければ、本作品の物語は始まってすらいない。

【メモ内での1次評価】
物語の評価としては
・石田と西宮は似た感情を持っていたという二重性。
・小学校の中で起きるいじめを扱い、登場人物に役割を与えたことによる、幅広い人々に受ける物語の没入感
・聴覚障碍を扱ったことによる意義

映像的な評価としては、
・登場人物の心理を表現する視点、表情、演出などのアニメーション。
・美しい表現をあえて隠す演出。
・映像のイメージで作られた情報を疑わせる問題提起。



【メモ】
作品構造を考える初期メモです。

・物語は小学生時代と高校生時代がある。
 小学校時代は最初の10分程度で、高校生時代における登場人物達の物語が主になる。
・小学校には、いじめられっ子(西宮硝子)といじめっ子(石田将也、およびその他クラスメイト)がいる。その他に傍観者(川井)がいる。
 後に高校生活に登場するクラスメイト達は、全員が自分が変われることを願っている。
 ここでいじめ問題に話題を持っていかれ、変わる必要があったのは誰かという話になってしまうことが多い。

・転校してきた西宮は聴覚障碍が理由でいじめられている。
 ここから聴覚障碍者についての話題に持っていかれることが多い。
 が、声と耳というコミュニケーション方法の問題となっている。
 
・西宮に対するいじめ発覚後、いじめっ子である石田はいじめられっ子になる。
 西宮が小学校を転校できたのは親の力によるものである。
  西宮のいじめ発覚と転校の時間にズレがあることが、西宮へのいじめ発覚が転校の直接的トリガーでないことを示す。(この時転校のトリガーを持つのは親である)
   石田がいじめられ始めた事に気づいた西宮が、自分のせいであると考えたために、母と妹に「死にたい」といったことが、母親に転校により環境を変える事を決断させたトリガーとなっている。
    西宮について、強烈な自己批判によって自殺願望が生まれている。
     強い自己批判性についてを、西宮が「ごめん」と伝えるたびに、植野は批判している。
      ラストシーンで植野が西宮の「ごめん」を理解することによって、西宮の自己批判性を個性として作品が落とし込んでいる。


・西宮が死にたくなった時に、妹は自身の素晴らしいと思った写真を家じゅうに張り付けている。
 しかし、西宮にとっては世界が美しいかどうかは問題ではなかったため、石田の交友関係の崩壊による二度目の自殺願望が発生してしまう。
    
・高校生になり、石田は周囲に対し塞ぎこむ。
  周囲が自分の事を批判しているという意識からである。
   これは世界が美しいかどうかではなく、自分が受け入れられない存在であるという意識が生まれたためである。
    西宮の自殺願望と動機が一致しており、石田も自殺をしようとしてしまう。
   西宮飛び降り時に石田は、全ての自分の特殊な行動を逃げと自己評価しており、自殺は逃げであるという事である。
    つまり、西宮の飛び降りをまた逃げであり、彼女には逃げたい罪悪感を感じるものが存在した。
     しかし、石田に助けられることによって、石田のこわれてしまった交友関係を再構築する方向に変わる。
      石田が死んでしまうと思わせる夢を見た西宮は思い出の橋に駆けていく。(身を案じるならなぜ病室ではなく橋なのか?)    

・石田は手話を習うために手話教室を訪ねようとしたところ、高校生の西宮と出会う。
 ここで石田からの友達になってほしいで涙を流す西宮。
  小学生時代に友達が欲しかったという願望が叶ったためである。
   石田が永束に打ち明ける友達とはという悩みからも、友達についての意識が向けられている。
    西宮の飛び降り、ひいては石田の交友関係崩壊への罪悪感は彼女の友達への意識が強い所から来ている。

・その後石田と西宮は交友関係を持つことになるが、植野によって心を乱された石田は、塞ぎこみによって友人を傷つけて、独りぼっちをえらんでしまう。  

{/netabare}   

投稿 : 2019/09/11
閲覧 : 383
サンキュー:

40

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