fuushin さんの感想・評価
3.3
物語 : 3.0
作画 : 4.5
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
アニメ文化へのリスペクトが感じられないけれど・・・。
まだ、見終わって間もないのですが、一言で言うと、タイトルのとおりです。
本作品を視聴するにあたって、先行レビューを参考にさせていただきながら、自分なりにアンテナを立てて臨んでみました。
そして、視聴後の印象が、そのレビューのとおりだったのは、残念でもありました。
新しい発見がないままで、最後の最後まで、何も引っかからないままに終わってしまったのです。
もしかしたら、自分劣化が原因かとも思い、ならばこのまま、そっとしておきたいとも思ったのですが、つい先日放送されたラピュタと同じファンタジー枠の作品として見るならば、30余年を経過していてなお、このクオリティで劇場興行に足ると考えるクリエイターさんがいらっしゃることに、一視聴者として、もどかしさを通りこして、いたたまれない気持ちになりました。
こんなことを言うのも何ですが、制作の骨子案の段階、さらに言えば、アイディアの段階のままに、製作に入ってしまったのではないかと、そんないぶかしささえ感じてしまったほどです。
骨子だと思えば、当然のこと、脚本に滑らかな繋がりが見られなかったのも仕方ありません。
結果的に、感動が押し寄せてくるだろう終盤に至るほどに、突拍子感というか、拍子抜けというか、そんなちぐはぐさばかりが積み重なってきました。
その都度、脳内補正を懸命に試みたのですが、その燃料になる肝心のエモーションも補給されないので、脳下垂体が停止しそうだったんです。
ありていに言えば、早く終わってくれないかなって、そればかり。
最後の最後に、ワンモーションが演出されます。
おそらく、本作のキモなんだと思います。
伏線の回収としては、構成的には "アリ" なのかも知れません。
でも、物語としては、取ってつけたかのような終わり方で、個人的には余韻を惹き起こされるわけでもなく、何とも腑に落ちない終わり方になってしまいました。
でも、それだけでは悔しいので、もう少し深掘りしてみます。
ハルの意識には、ニノ国は、実体のない夢の世界=メルヘンという認識があって、それは、一の国とは関連性のない、切り離された世界としての認識です。
これに対して、ユウの意識には、もう一つの現存する世界=ファンタジーという認識があって、それは、一ノ国とは密接に関連し、命さえもつながっている世界としての認識です。
この認識のズレが、二人の行動や意思決定にことごとく差異を生み出し、ゆえに物語の展開に齟齬と軋轢が生じます。
その原因は、二人の性格とか、生い立ちとか、発達の差ではなく、普段の日常生活での自己肯定感の差から来ているものだと感じます。特に、二人の身体能力の差は一目瞭然ですからね。
いきおい想像世界への向き合い方にも違いが出てくるでしょう。
まず、ここを押さえておかないと、物語そのものに乖離と不統一性を感じてしまい、シナリオ自体に一貫性がないように見えてしまいます。
二人の認識の違いそのものが、作品の性格を決定付けているのです。
二ノ国と一ノ国は、たしかに表裏いったいとしての関係性があるのかも知れないけれど、ハルとユウの認識そのものの違いを大前提にして、物語を読みとかなければならないのです。
コトナとアーシャ姫に対する評価も、ハルとユウとでは、全く違ってしまっていて、会話自体がチグハグに聴こえてしまいます。
ハルにとっては、コトナはシンプルにリア充な彼女なのですが、アーシャ姫は夢の中の登場人物として、殺しても構わないとする対象。"そもそも実在の人ではない" のです。
でも、ユウにとっては、どちらも命がつながっているので、殺すなどもってのほかです。どちらも救わなければならない "かけがえのない人" なのです。
二ノ国がパラレルワールドだとして、その世界へのアプローチが、メルヘンかファンタジーかという捉え方の違いが、命の尊厳への評価に、こんなにも大きな差をつけてしまうことに、正直、私は驚きました。
私が戸惑い、批判をしていたのは、私自身の無知さ加減から来ているものだったのかもしれないと、振り返りました。
それで、なぜ、そんなキャラ設定にしたのかを考えてみました。
メルヘンとファンタジーの概念の違いについて学ぶ機会は、そうそうあるものではないと思います。
ならば、この三つ巴(現実、メルヘン、ファンタジー)の関係性を、正確にひもとき、また説明して、腹に落ちるような丁寧な演出がどうしたって必要になってくると感じます。
ところが、ハルとユウの会話だけではそれを推し量ることはできないと思います。はっきり言えば視聴者をおいてけぼりにしています。もっと言えば手抜きだと思います。
私は、メルヘンとファンタジーの視点の違いが物語の核心だと思うのですが、それを伝えようとする演出が完全に抜け落ちているように思います。
そのために "命を選べ" というキャッチコピーが、薄っぺらで中身の無いようになってしまっています。もったいないことです。
社会文化が成熟を見せ、高次化、複雑化しているなかで、新しいアイディアを世に出すことは、意義あるチャレンジングだと思います。
ただ、そういう作品も、視聴する方への合理的な配慮が欠けてしまうと、単なる駄作に終わってしまいます。
せっかく、お金と時間と労力をかけて製作するわけですから、作品に込めた愛情や努力が報われてほしいと思うのです。同時に、お客さんにも愛され、評価されてほしいと思うのです。
私の妄想が許されるのなら、本作を以下のように考えます。
戦後70余年をかけて作り上げてきたこの世界を、ごく普通の世界、マジョリティの世界、 "一ノ国" と見立てられるのであれば、
その文化、経済、制度、政治に参加する機会が保障されてこなかった、普通とは縁遠い世界、マイノリティの世界、閉じられた世界を、"二ノ国" とは見立てることは可能だろうかと。
大方の人は、自分のことをマジョリティ側の人間だと信じているはずです。
では、マイノリティの人たちの時間をどれだけ知り得ているのでしょうか。
ユウのような身体障がいだけではなく、知的、精神、難病、発達障がいなどのハンディをお持ちの方々の生活の実態のことです。
また、誰でもがいつか行き着く高齢期の生活の実態のことでもあります。
彼らは、決してメルヘンの国の住人ではないし、また、ファンタジーの国の国民でもないはずです。
アーシャ姫や国王は、ハルとユウに、一緒に一ノ国に戻るように諭しますが、ユウは、一ノ国には戻らず、二ノ国に残ることを選びます。
一ノ国に戻ったハルは、{netabare}ユウのことを、二ノ国の住人だったと断じ、しかし、自分自身の写し鏡でもあったのだろう{/netabare}と、ひとりごちます。
アーシャ姫のセリフの意図は、マイノリティはマイノリティの世界のままで、というマイノリティ側の "マジョリティになりえぬ哀しみの気持ち" を表わす演出として捉えました。
ハルのコトバは、マイノリティに対するマジョリティの無意識の壁の存在が、厳として存在していることを暗に示しているようにも思えます。
それを敢えて明示するなら、マイノリティに対して合理的配慮に適う内実を、作品のなかに優しさとして視聴者に提示できえぬ "制作陣の意識の低さ=マジョリティのエゴ" であるように聞こえました。
非常にセンシティブな課題があることを踏まえたうえでの評価はとても難しくて、かつ、制作側の意図もさっぱり分からない私ですが、懸命にテーマを探そうとした結果のレビューがこれでした。
なお、星三つに留めたのは、エンドロールに流れた、本作に関わられた多くのクリエイターの皆さんへのリスペクトです。
これ以上下げることは、今の心境ではできませんでした。
ここから追記です。
{netabare}
レビューの文脈に不足を感じましたので、いくらか書き足しておきたいと思います。
ユウは、電動車いすを使用し、ベッドへの移乗が自力で出来ているので、第5~7頚髄節に神経損傷があり、上腕筋や上半身の体幹周りの筋肉はリハビリなどで維持できているようです。
そんな彼が二ノ国でいきなり歩行できたのは、一ノ国での物理的抑制・身体的制限から解放されたからとも解釈できそうですが、この展開は "アバター(2009年)" にも相似形として描かれていました。
ユウもジェイク(アバターの主人公)も身体的マイノリティであり、物理的、経済的要素において、社会環境的バリアを常に感じながら生きています。
ユウは、もしかしたら、どちらの国の社会的環境(自己肯定感の強さや、人間性の尊厳の保障)が、自分にとって相応しいのかといった自問自答を重ねていたのかもしれません。
また、コトナへの感情が、アーシャ姫に投影されていくのも理解はできます。
ユウにとっては、二ノ国には一ノ国では決して得られない "フリーダム" があるのです。
マイノリティを甘受せねばならない様々な事情からも解放され、何の遠慮もなくマジョリティになれるのです。
そう思うと、本作の "命を選べ" というテーゼ(命題)は、"自分の運命を、より強く輝かせるための居場所の選択" という意味を内包していたのだろうかとも思います。
結果、ユウはそれを選択するわけですが、ここだけに絞ってみれば、いわゆる "扱う素材の難しさ" ということになるのでしょう。
と言うのも、夏アニメの大本命が「天気の子」であるなら、"選択" というテーマは、どうあっても比較対象になります。
その対象は、片や天候であり、片や障がいです。
間違っても、"命を選べ" がテーマになることはあり得ません。
本作に、そんな大それたことを描写するなんてことを、1ミリも期待してはいけません。
なぜなら、最後は {netabare} 二ノ国そのものを切り捨てて {/netabare}しまうのですから。
"命を選べ"、なんてキャッチコピー、誰がひねり出したのか分かりませんが、フェイクというのにも甚だしく、お客さんにお金を落としてもらうための誇大広告のようなものです。
本作の視聴対象が小学生だったら、なおのこと許しがたく思います。
ぷんぷん!
・・・すみません。ちびっと興奮してしまいました。
さて、もちろん、天候と障がいを、同次元、同系列で議論できるものではありません。
ただ、押さえておきたいのは、帆高は陽菜を選び、狂った天候に対しても「大丈夫だ」と宣言し、ユウはアーシャ姫を選び、矛盾と制約の多い一ノ国に対して、「絶縁」を宣言したことです。
私は、ここまでのシナリオだったら受け入れることができます。
一つには、前者はファンタジーとして。後者はメルヘンとしてです。
二つには、狂った天候も、矛盾に満ちた社会も、みな、大人が創り上げてきた文明の表象であり実相なのですから。
そして三つめには、それら現実への批判と、それを受け止めたうえでの、彼らの生き方の覚悟を示しているからです。
私がなんとも困惑したのは、本作の核心部の見せ方です。
ハルが、ユウのことを、もともと二ノ国の住人だったと認知・判断することで、周辺の人の記憶からもユウの存在が消失し、まるで何事もなかったかのような印象を視聴者に与えたシナリオの "設定" です。
なぜなら、そこには、時勢を捉え、文化を発信する側にいらっしゃる制作陣に、冒してはならない大きな間違い・勘違いがあるように感じたからです。
ハルにその "結語" を語らせることは、結局のところ、マジョリティの側の都合や理屈で、世界(社会の文化性)が決定されていくことを追認し、肯定していることになります。
つまり、制作陣が示している立場性は、ユウの立場、つまりマイノリティの立場にいらっしゃる方々の、言葉に出しにくい息苦しさに対して、誠実に向き合い、協同しようとする姿勢があるようには見えないのです。
むしろ、マイノリティの扱いに困ってしまい、どうにも仕方がなくなったので、ユウをメルヘンの国に退場させてしまったとも言えるわけで、どんなにユルク見たとしても、障がい者、ひいては社会的弱者への深い理解と愛情があるようには思えないのです。
そして、なお悪いことには、あえて夏休みの時期に公開するという商行為が、子どもたちに対して、マイノリティの問題に、目を背けていても構わないとする意志を、あからさまに表明していることにほかならないと感じます。
さらに言えば、アーシャ姫への恋ごころという、きわめて個人的な心情を動機にしてキャラを動かしているわけで、こうなると、制作陣に、キャラへの愛情、人としての善意があるのだろうかとも感じてしまいます。
極論を申し上げているつもりは毛頭ありませんが、そこには、車いすを使って生活をしている方や、社会的弱者の皆さんへの合理的配慮や新しい文化価値の提起、もっと言えば、応援するコトバが、露ほどにも語られていないと思うのです。
その意味において、私は、ユウの自己選択と自己決定であるかのように見せかけたシナリオを、全く評価することができません。
マイノリティとは、身体的なそれだけではなく、性別、年齢はもとより、人種、言語、宗教、思想信条などを含んでいます。
日本が、国際的に開かれたダイバーシティ国家を目指している以上、アニメの表現性についても、何を軸にするべきか、どんな合理的配慮が必要なのかという命題が付いて回るのは必然だと思います。
本作を、マジョリティとマイノリティとの関係性、特に、相互理解、社会参加、共同といった言葉でアセスメントすると、その課題を把握・分析・提案する能力において、どうしても物足らなさを感じてしまうのです。
たかがゲームやアニメではありません。むしろ、されどなんです。
それらがサブカルの重要な立ち位置を担っていること、影響力の大なるところは、多くの日本人に、はたまた世界中の視聴者に、広く知られるところになっています。
それらを踏まえたうえで、実際に、車いすで生活なさっていらっしゃる方や、パラリンピックに参加される選手や、その支援者の方々にも、本作を観ていただいて、その感想を聞いてみたいとも思います。
その瞬間は、監督こそが "マジョリティ" から "マイノリティ" になるのですから。
ところで、「天気の子」の帆高の場合はどうだったかというと、彼は、ハルと同じマジョリティであっても、自分(人間)の都合や理屈で、世界(天気)をコントロールするなんてことは決してできえないことを理解しているし、むしろ、どんどん変わりつつある地球環境から逃げ出すことなく、その中心に身を置いたうえで、より柔軟に順化・適応していくことを語っています。
もっと言えば、陽菜の小さな肩に世界の運命がかかっているような盛大な勘違い?でもって、「君の大丈夫になりたい!」とも謳いあげてさえいます。
そんな帆高の有り余る大きな夢は、新海氏をして、狂った?天気の前には、誰でもが等しく一介の社会的弱者になりうるという視野の広さや、そんな状況であっても、相互に助け合う温かな気持ちを持ち合うことの必要なることを高らかに宣誓しているようにも感じ取ることができるのです。
選んだ素材、それを活かすアイディア、視聴者へのメッセージの力強さなど、よほど秀でた演出のように思えるのですが、いかがでしょうか。
これらの違いにおいて、テーマへの咀嚼力、作品の描き方、落としどころなどが、明確に分かれてしまったのではないかと思います。
どんなに創作のことであっても、地球温暖化の課題も、障がい者問題も、扱う以上は、リアルさにおいてはどちらもセンシティブで、喫緊のものです。
難しいテーマへのチャレンジは大歓迎ですが、作品として世に出し、お客さんからお金をいただこうとなさるなら、アニメ文化の発信者、クリエイターとしての矜持の錬成度が、極めて重要だと思います。
その意味において、本作品への評価が厳しくなることは、その表面的な要素だけに留まらず、通底に流れる社会全体に関与している姿勢、言わば、人間をどう見ているのかという思想性に対しての視聴者側からのアピールが表明されているのだろうと、私は捉えていますし、そう期待しています。
そう理解しておくほうが、よほど世の中が健全であることの証左であるだろうと思うのです。
それゆえに、制作関係者の皆さんには、深い反省を必要とするクオリティーだったと理解していただければ幸いに思います。
次回作へのチャレンジに強く期待するものです。
追記は以上です。
{/netabare}
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作が、皆さまに愛されますように。