Progress さんの感想・評価
4.6
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
天気の子 レビュー
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私は悩みながら、映画館に足を運びました。晴れない気持ちを抱えて、今、見てもいいんだろうかと思いながら上映時間を待ちました。
最初に感じたのは、重苦しい雨の日でも、人は生活をしていて、何かに笑ったり怒ったり普通にしているんだな、という当たり前の事を感じさせてくれることでした。
物憂げであったり、悲しげであったりと、そういった人がいるのも事実だけど、普通に生活をしている人がいる、それを描写することで、雨の日が、決して悲しい日だという意味ではないのかもしれないと感じます。
そんな社会の中で、主人公の森嶋帆高は、天気の子、天野陽菜と出会います。
雨続きだった東京に晴れの日が現れ、それによって喜ぶ人たちが出てくる。
晴れの日について、人が喜び、世界が鮮やかになる力があると、モノローグで嬉しそうに語る森嶋君。序盤の語り口調と、晴れの日を語るときの語り口調でスピード感の差があって、モノローグなのに、喜びという感情を伝えてきました。
転となるのは、森嶋の状況と、陽菜の天気の力から、不穏な影が忍び寄ります。
森嶋君の状況は、家出の捜索願いと銃の所持疑惑による警察の捜査、陽菜は、天気の力による悲しい運命の訪れ。
ここで、天気の子は晴れさせるだけでなく、東京の今の雨続きの天気が繋がっているのかもしれないという不安めいた考えが、二人に襲い掛かってくるのです。
陽菜の悲しい運命とは、力を使い続けると、体が透明になるという事象と、その結果、陽菜が天気の生贄となることで東京の異常気象が収まり晴れるかもしれないという不安があります。
「君の名は。」で主人公だった瀧君の祖母が、お彼岸の迎え盆の煙を頼りに、あの世である彼岸(そして雲の上)から亡くなった人の魂が帰ってくるという言葉を覚えていてか、森嶋君は廃ビルの上の神社を見上げ、「あそこから彼岸に行けるんだ」と、そこへ行こうとするのを止める大人たちに叫んでいました。なので、陽菜の存在は彼岸に行っており、死んでしまったけど大切だった人に会いたい。という感情にも繋がってくるのだと思います。
少しストーリーから離れて、ご飯の描写の話。
須賀圭介の事務所にいる夏美という女性と、陽菜の料理が非常に印象的だったのは自分だけでしょうか。
夏美の料理の中でも印象的なのは、作る工程を一瞬見せていた、唐揚げ。そして、パーティ料理。あの日がお祝いの日だったという前置きがあったとしても、この人は真面目に料理が作れる人なのでは?という印象、ギャップを感じさせてくれました。
一方で、陽菜。こちらも、料理の腕はあるが、料理の性質が夏美とはまた違う感じがしました。
ポテトチップスや、ベビースターラーメンを細かく砕き、ご飯と一緒に炒めた料理。
それが美味しいと分かってなのか料理するときに迷いがなく、それが普段の料理でやっていることなのかもと、思わせてくれるシーンでした。夏美と陽菜の料理には、どこか華やかさと、日常さに違いがありますが、どちらにも、二人の生活感というのが、感じられたシーンだと感じました。
さて、物語は陽菜が消えることで急速にエンディングへと向かっていきます。
クライマックスシーンで考えてしまう事は、今という時間に生きる人たちを強く後押しているように感じました。未来に対する不安でもなく、過去に対する後悔でもない。そもそも今回は過去というものをあまりに感じさせない、今生きている人の想いを強く描き切るものだと感じました。
そして、エンディングでは、森嶋は自分たちのせいで東京がこうなってしまったかもという事を振り返ります。東京の天気と自分たちが繋がっていたかもしれないと。
上映後の帰り道、私はふとこの感情に思い当たる節がありました。
まるで世界が自分の行動と繋がっているような感覚。自分がこうしてしまったから、世界のどこかのあの人はああなってしまったんじゃないか。
そんな罪悪感からくる、ひどく自己中心的な意識を持っていた私には、ファンタジーによって本当にそんなことがあったらどうなるかという話に見えるんじゃないかと。
その結末がハッピーエンドであることで、私の高校時代の自意識過剰な感情が、救いようのない孤独ではない気がして、少し気が楽になったような気がしました。
この世界と個人の繋がりについて、森嶋にそんなわけあるわけないだろという須賀の言葉も救いであり、森嶋が世界を変えても陽菜を選んだという確信も、そういうことを感じているという誰にも話せない、わかってもらえない若者の孤独の感情の救済だと感じました。
上映終了後、私の心は晴れていませんでした。まだその悩みも解消されていません。それでも、前に進もうと思わせてくれたことに私はこの作品に感謝をしたいと思います。
ありがとうございました。
【世界観】
{netabare}
この作品の世界の外側、つまり現実では、この作品は現実のこういうことを感じてこういう事を描きたかったとか、視聴者がこの作品は現実のどういう世界を描いていると言っています。
現実の世界で何が起こっているか、視聴者が何を求めているか、そういう事を感じ取って、現実の世界によく似た世界で描写するのは、真面目な作品なんだ、と思います。
そういう真面目な世界にファンタジーを入れるという、そのファンタジーがなぜ真面目な世界に必要だったのでしょうか。
雲の上に、別の生態系が広がっているかもしれない。雲をみて妄想する人が多い事なのかもしれません。
雲を見る。この行為はいつ発生するでしょうか?人を外で待っているとき、電車からふと空を見るとき、何かのきっかけ、感情の変化で雲を見るときがあるのだと思います。その時に、雲の上に別の世界があるかもしれないという妄想をするのは、いったいどんな心持ちの人たちでしょうか?
純粋に大きな雲をすごいと思い妄想する子供たち、雲の中に見えない物があるかもしれないと思う人たち、何かの物語を見て影響を受けた人たち。
そこには、彼らの夢があり、真面目な世界に夢があるという構造になるのです。雲の上の、草原があるように見える世界。この場所に対して、私はなんとなく、行ってみたい、見てみたいと思う気持ちがあったはずです。
しかし、視聴後に考えたとき、その気持ちがあったことを思い出すのは難しかったように感じます。なぜ?それは、その場所が彼岸であり、陽菜とほだかの関係を引き裂こうとした、天気に属するからです。
よって、この雲は、夢のような世界でありながら、関係を引き裂こうとした恐ろしいものにも見える。だから、あそこにはいきたいと思う気持ちがあまり沸かないのかもしれません。
夢でありながら、恐ろしいもの。陽菜が寂しくて泣いたところ。彼岸。そこに行ってまで陽菜と会いたいと言ったほだか。
真面目な世界に、夢のような世界があると思ったけど、そこは行ったらもう戻れない、寂しい世界だった。
夢というものが夢に過ぎなかったことを示した、世界の冷たさを表しているのかもしれません。
そんな世界だからこそ少年と少女のお互いに会いたいという温かい気持ちが冷たい世界で懐炉のような存在に感じるのかもしれませんね。二人の関係は温かい。
ファンタジーは世界をより冷たい世界にするために作用したけど、冷たい世界に抗う温かさが、見る人の夢になってほしいと願います。
{/netabare}
【迎え盆】
{netabare}
この作品で一番身近に感じた文化のシーンは、やはり迎え盆です。
瀧君の祖母が迎え盆で迎え火を焚いている。彼岸とをつなぐビル上の神社には、精霊牛と精霊馬という、牛をかたどった茄子と、馬をかたどった胡瓜が飾られています。(神社に仏教的アイテムがあるという、日本の神仏習合、ごちゃ混ぜの信仰観を表していて好きですよ。)
精霊馬は、迎え盆の時、早くご先祖様が返ってこられるように、精霊牛は、送り盆の時、なるべく長く此の世にいられるように、そういう願いを込めています。
迎え火については、瀧君の祖母が言った通り、ご先祖様が帰ってくるときの目印です。
私の住む地域も茄子ときゅうりの動物飾りはするのですが、迎え火の文化はない。お墓に行って、提灯に火をつけ、その提灯の火を消さずに家まで運ぶ。ご先祖様はその提灯の光を目印に、家に帰ってくるのです。
こういった文化的な部分を描いているのは、私は好みです。ストーリーにも関わっていましたし(私が見落としているだけで陽菜の迎え火となる存在が描かれていたかもしれませんが)、こういう文化が受け継がれていってほしいと、田舎者の私は思ってしまうのです。
{/netabare}