fuushin さんの感想・評価
5.0
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
バルサの微笑み。 チャグムの勇気。
1、初発
{netabare}
かつて大聖導師ナナイが、古代ヨゴ文字で印した建国の秘鍵ともいえる碑文が、地下深くに蔵されている。
皇子チャグムの父はおろか、聖祖トルガル帝でさえも足を踏み入れることが許されなかった聖域でもある。
もしも、ナナイとトルガルに、先住のヤクーの古習伝承を洞察し、わずかの敬虔さと、いささかの逡巡する姿勢があったのなら、碑文に残すべき真実を蔑(ないがし)ろにすることはなかっただろう。
また、難読と評するほどに時間を無為に過ごすこともなかったであろう。
ヤクーの古口伝が、碑文にも正史にも記されなかったのは、偏(ひとえ)に2人が、営々なる風土に順(まつろ)わず、あまつさえ侵略を正当化し、なおも神格化を図ろうとした大愚の極みであり、未だ乾きの相を解き得ぬは、まさに外来の人智(エゴ)の狭小なるところの当然の帰結でもある。
それは即ち、100年ごとに異相を表わすナユグとザクの軛の重なる実相に触れる機会を得ながらも、ひたすらに優勝劣敗の行動原理を過信する国家・政治の傲慢さと、あたかも妖の為せる態(わざ)と裁定する星読博士らの浅知偏見に他ならない。
全ての歪みの初発は、トルガルの為したる政(まつりごと)の方向性と、ナナイの星読みたる科学の志向性との、協調と融合の為さざるところ。
何ゆえに、歩みをともにしながら、新天地に国を興し、民を和合し、文化を醸すにおいて、国家経営の本流を温故知新に置かず、知見を合一せぬ愚昧を繰り返すのであろうか。
また、ヤクーも、先住民としての沽券を横に置き、不名誉を肯(がえ)んずる。
主権を剥奪され、隷属を甘受するを処世術ともいえば詮無いことだが、実をとるためには花を捨てねばならなかったのだろう。
とは言え、いにしえの先達らが拾遺見聞してきたニュンガ・ロ・イムの核心は、わずかにわらべ歌に謂れをとどめるものの、村おさの判断一つで音もなく雲散霧消していくのである。
事象の海に漂う不思議を感じながら、人間の心に宿った宝が好奇心である。
折々の死と生が、その感情を想起し、思考を深くし、学術を積み上げる。
無と有、闇と光、幽と顕の二つの世界を切り結び、やがて美しい文様を織り上げるのが好奇の生糸である。
その実、縦糸はあまりに繊細で、横糸はたやすく傷つく。
戸板の木目が、雨水に叩かれて浮き出てくるように、時代の流転によって文様は変容していく。
父の裁可が、母や兄との絆をチャグムから奪い取り、青弓川に転落させる。
あわやその一瞬をバルサの短槍が鋭く貫き、確かにつなぎとめるのである。
{/netabare}
2、宮
{netabare}
100余年を現代に置き換えれば、18世紀以前の文化風習である。
四世代も離れれば、いったいなんぴとほどの人が、かつての習俗を、そこに込められたコトバを、確信をもって他人に「信じよ」と伝えられうるものなのか。
日々の内憂、外患のままに心を委ねるだけなら、言霊に宿った命は、たやすく萎(しお)れ、終に枯れ落ちる。
万一にも地中の根まで死に絶えれば、再生は難く、再興は望めなくなるばかりである。
銅鐸を弱く強く叩くことはできようが、奏で方がわからなければ、メロディーや和音を懐かしく耳に捉えることはかなわない。
どれほどに麗しい響きがその音律に奏じられていても、いったん断たれてしまったなら、醸し出されていた余韻を再現することは望めない。
これを窺い知るのが、トロガイ師の博識への追究心と型破りな行動力である。
身近に一つ具体例を上げてみよう。伊勢神宮の式年遷宮はどうだろう。
彼の地がいかに至高の神域であっても、不可侵の領域ばかりではない。
20年ごとに人の手によってスクラップビルドするのは、温故知新の極みであり、技術の継承にも欠かせない作法である。
遷宮をソフトパワーと見れば、しきたりを見聞体感し、作法を掌握体得することは、等しく老若男女が、心の根を万古悠久の地に還(かえ)し、希望の芽を天長地久の海に孵(かえ)すのである。
伊勢をはじめ、すべての祭りは、朝な夕な、三千世界に長久の安らぎを託すことであり、見えぬ古き柱に触れる作法は、心中に新しき柱を定立することなのである。
遷宮にフェニックス(=鳳凰)の再誕を見ることができる。
その胎動に、時代性を帯びた新しいコトバが生まれ出てくる。
"どうしようもなく生きたいと思うのだ。" チャグムはバルサに伝える。
どんなに生命が未完成のように見えていても、その思いのみなもとは、誰とも、少しも変わるところはないはずである。
いつの時代になっても、感性が生み出す夢を勇気に置きかえ、心の杖、あるいは人生の灯として生きてゆく必要があるのだろう。
もしも、チャグムとタマゴに、生物の多様性と命の普遍性を見出せるなら、守り人に秘された役割の意味を、誰もが心中深く、あるいは肌感覚で、感じ取ることができるのではないだろうか。
かつて日本は、かの世界大戦で、忍耐と寛容性のならざるを徹底的に糺され、やがては奇跡の復興と言われるほどの経験を得ている。
旅する女用心棒バルサの人物の来歴はここから来ている。
彼女は、頑固一徹に短槍をふるうだけの武人ではない。
むしろ、道理と大義を基軸におきながら、忍耐と寛容性にも長じ、柔らかな発想もできる宮付き人の直系でもあるのだ。
{/netabare}
3、厄
{netabare}
本作は純然たるファンタジーではあるけれど、意外と身近に近似する風習があるものだ。ちびっと一例を上げてみよう。
やや年配の諸氏にはお馴染みだろうが、目に見えない世界を存外信じていることがある。
それは "厄" である。
厄もまた、なにかと忌み嫌われるコトバではある。
"今年は大厄だね" などと軽口を言われては、いささかなりとも気にかかるもので、我が事の不安のタネとなれば、なおのこと回避したくなる心情にも頷ける。
それゆえ近隣の神社仏閣でも、厄祓いのお取次ぎは至って普通に執り行われており、懐手にいくらか痛いくらいの真心を、玉串やお布施に込めることも吝(やぶさ)かではないものであろう。
厄とは、古来よりの風習であり、男は、25、42、61歳。女は、19、33、37、61歳。
前厄は下拵えを、後厄は後始末が必要なことを指す。
巷(ちまた)の解釈は様々ではあるが、核心は、人生の節目を厄と位置づけていることであり、社会の要請に応えうる心技体の準備と錬成が必要な潮目であることを言う。
これを裏返せば、個人においては人格の練磨への怠りを戒めており、世間においてはますます多様性を増す共生社会の仕組みへのスクラップビルド、不断のブラッシュアップの常なるを指している。
その意味では、厄とは人間自身の遷宮であり、温故知新への務めであり、それが破天荒ゆえに、神仏にもすがって乗り越えたい、少しでも楽に通り越したいと願う庶民の願いが負託されている古いしきたりなのである。
かくて厄自体に忌み嫌われる由来はどこにもないのである。
幸いなことに、私にもあと1回だけ厄が残っているので、それを脱皮するチャンスと捉えて、喜び勇んでカワイさあふれる新人類になろうかと思っている。
もちろん、玉串の積み立ても忘れない。
{/netabare}
4、共生
{netabare}
さて、かくてヨゴ皇国正史は、ヤクーの伝承に遠く及ばず、チャグムとバルサを翻弄する。
トロガイとタンダ、シュガとガカイも、彼らを支え、本義に向かって身を惜しまない。
いつの世も、異文化世界との出会いは感性に多大な刺激を与える。
その依り代は理性を柱として、先達の知性にヒントを見つけられる。
而して、如何に生きるかの判断は、常に今の心と手の中にあるのだ。
バルサが短槍に技を磨いてきたのは、8人の魂の贖いへの誓いのためであった。
チャグムがタマゴを守ってきたのは、両親と国民の欲する安寧のためであった。
2人の手は、宿命をつかんで離さない。
2人の足は、宿命から逃げずに離れない。
ナユグの謂れは、わずかにザクの地名に残される。
"青霧" はおさなごに隠されたタマゴの微かなる存在を示し、"扇の宮" は命脈の要となる奥義の隠された宮を暗示する。
侵攻する文明がどれほどに強大で、太古からの息吹を駆逐するとも、誰が名付けるとも知れず、しかしそれ以外のコトバは見つけられず、いつまでも残される。
まるで、子どもの名に親がどれほどの思いを込めたかのように残るのだ。
"精霊の守り人" を端的に言えば、タマゴを身に宿すチャグムであることは間違いない。
この設定は自然界にもある。
"托卵" である。
カッコウやホトトギスは、モズやオオヨシキリに "托卵" し、育てさせる。
いち早く孵化したカッコウのヒナは、残されたタマゴやヒナを一つ残らず巣の外に落としてしまう。
残酷に思われるかも知れないが、種の存続をかけた優れた知恵でもある。
カッコウにはカッコウの生き方と言い分があり、オオヨシキリにはオオヨシキリの立場と主張があるだろう。
もし彼らがしゃべれるのなら、「命の重みは等分のはずだ!」と言いながら、托卵することとされることに、やれ権利だ、損得だ、対立だなどとピーチクパーチクさぞかし煩(うるさ)いことだろう。
しかし、彼らはそれは言わず、言えず、自然の体で受け入れ、そして相変わらず共存している。
ここでおまけを。
{netabare}
ちびっと古いものだが「第6回自然環境保全基礎調査 鳥類繁殖分布調査報告書」(環境省)を参照したい。
見方は以下のとおり。
A=繁殖を確認。
B=繁殖の可能性がある。
C=生息を確認。繁殖は未確認。
上段=(1974~1978、実地調査)
下段=(1997~2002、アンケート調査)
●カッコウ
A=10、 B=412、 C=58
A=34、 B=541、 C=41・・・増えている?
●オオヨシキリ
A=131、 B=190、 C=24
A=87、 B=244、 C=22・・・減っている?
カッコウとオオヨシキリとの共生社会に、人間はどんな評価をすればいいのだろう。
ちなみに第7回の調査結果は、2020年の予定とのことである。
全国で調査なさっておられる方々に、頭が下がるものばかりである。
{/netabare}
ニュンガ・ロ・イム(水の守り手)とラルンガ(タマゴ食い)の関係も、弱肉強食、優勝劣敗、自然淘汰というのなら、生物界の摂理、ゴールデンルールともいえるわけで、人がたやすく触れられるものではない。
でも、サグの人間に托卵されるとなると、たとえ触れられぬ理だということが分かっていても、生態系にわずかにでも手心も加えたいのが人情だ。
悠久なる事象の法則の前に、人間の存在がいかにか細く頼りないものだとしても、真っ向から対峙し、千載一遇の可能性を信じて刻苦勉励するのが、人の性というものかも知れない。
{/netabare}
5、恩義
{netabare}
"守り人" には、さまざまな意味合いがあるけれど、まず私はバルサの "人としての矜持" に耳目する。
ジグロが全うした重責への贖い。
我が身に立てた殺さずの誓い。
盟約した妃への違えぬ黙約。
彼女の太い信念が、ときに温かいまなざし、ときに厳しい叱咤となってチャグムに注がれる。
それは、彼が皇子だからというわけではない。
"命の多様性に責任を持ち、命への価値観を継承する人" だからである。
それにしても、彼女のコトバからは、損得勘定とか、狭小偏向とかを含ませた意識やコトバは全く感じられない。
彼女の内実を形成したのはいったい何だろうかと不思議に思う。
かつて、彼女には2人の父がいた。
医師ゆえに、権力に抗えきれなかった実父。
武人ゆえに、権力の仕打ちに抗いきった養父。
2人に首尾一貫しているのは、交わされた約定の本質である。
一つは、名誉と権限をもって祖国に忠誠を誓う本義。
二つは、幼いバルサの命を託し託されることの信義。
本義は、努力して積み上げてきた社会的地位と、紛(まご)うはずのない自己アイデンティティから生じている。
しかし、バルサという一人の少女の命の重みを、信義の腕に抱き留めるのなら、本義など及ぶべくもないのだ。
かつて交わされた2人の友情の証が、バルサの命一点を選んだ覚悟に立脚していることに思いをいたせば、おのずとバルサの放つ一言一句、見定める視線、無私無欲なる一挙一動に、2人の父親の盤石さを窺い知ることができる。
バルサの矜持に心を寄せて、本作の神髄を十分に堪能していただきたいと感じている。
さて、まだ幼さの残るチャグム第二皇子は、突然に "精霊の守り人" に任命される。
それは、彼にとって、無限に落ちる不幸だったか、それとも昇天に値する僥倖だったのか。
当初は、帝たる父からは排斥と暗殺を、二の妃の母からは隠遁と聖寿を示唆される。
彼はついに、我が身の顛末をヤクーの少女の語りから知り、バルサにも刃を立てることで、守り人としての重責を背負うことを自覚する。
ひとりでは到底立ち向かえない宿命であっても、なお、苛烈な環境に身を投じ、奇縁に翻弄される運命を選ぶのだ。
常に挺身するバルサやタンダたちが見せる振る舞いから、彼は自らの天命に誠心の道を見出せたからであろう。
たった一つのタマゴの扱いが、水の恩恵を与奪し、国家百年の計を決定づける大事とするなら、チャグムの不安にも覚悟にも、痛いほどに深く共感できる。
人生を百年に設計せねばならない現代人にも、チャグムが心許なさげで幽谷深山を辿り、脆く壊れそうなタマゴを大事に抱き続けることに、いくらかの驚嘆と賛意を送り、大きな勇気を得ることができるのではないだろうか。
"どうしようもなく生きたいと思うのだ。" と語る彼。
これこそがタマゴのもつ本意でもある。
タマゴには、理屈やコトバ、あるいは、力は全くない。
ただ生きたい、生れ出たいという "想い=可能性" が備わっているだけだ。
それを、チャグムの口に語らせるのだ。
その "可能性" に寄り添う姿を体現するのが、バルサであり、タンダ、トロガイ師、シュガ、二の妃らの "大人の心根(こころね)" である。
バルサたちは、何ものにも怯むことなくチャグムを守る。
その本当の意味するところは、チャグムにも伝わったようだ。
彼は、やがて大道を全うすることの歩みを確かなものにしていくだろう。
チャグムにとっての "守り人" とは、新ヨゴ皇国にとどまらず、隣国カンバルや、サグ・ナユグを俯瞰するを能うに欠かせぬステータスであったと理解したい。
また、先々の国家運営の "可能性" において、ヤクーらの風土習俗の理解を深め、バルサら他国の人民の想いにも、確かな信義を及ばせるために必要なプロセスであったのだろうと感じる。
チャグムは求められて彼の場所へと留まり、バルサは彼女の場所を求めて流れゆくだろう。
それでも、サグは常にナユグと背中合わせであり、再びいつの日か正面から向き合うことになるのだ。
私たちの身近においても、子どもにとっての安心・安全な暮らしが、大人が守るにも難しい時代になっている現実が見えるようになってきた。
大人にとっても、不安定な自我を抱えて生きている姿が、子どもの眼にも露わになってきている現実にイヤでも気づかされる。
"あんたは、いったい何を、誰を、どんなふうに守るつもりなんだい?"
バルサが殺さずの誓いに微笑みながら、そんなまっすぐな問いかけをしてくるように私には思えてならない。
{/netabare}
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作が、皆さまに愛されますように。