fuushin さんの感想・評価
4.6
物語 : 4.0
作画 : 5.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 5.0
状態:観終わった
3時間と3日間。もうひとつのワンダー。
キャッチコピーが「大人が泣いた伝説の『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』 原恵一監督 最新作」というふれこみ。
その原監督ご自身のコメントも「型にはまらない新しい映画、すごい映画ができました。自信作です。」と、もひとつ押し込むふれこみです。
4月26日(金曜日)に封切りされた最新作です。
これは、観てみたいと思いました。
原作者は、柏葉幸子氏(かしわばさちこ、児童文学者)。
原作は、講談社 青い鳥文庫
「地下室からのふしぎな旅」です。
1988年初版~45刷
2006年新装版~7刷というロングラン。
累計50万部を超えるヒット作でした。
本作品は、原作に対していくらか改変がなされています。
ちなみに、宮崎駿氏・スタジオジブリは、柏葉氏の「霧の向こうの不思議な町」の映画化に取り組みましたが実現ならず。
しかし、「千と千尋の神隠しに影響を与える作品となった」と宮崎氏は語っているそうです。
(千ちひのファンの方、もしよければ手に取ってみてくださいね。講談社青い鳥文庫、216ページ、本体680円(税別)です。)
さて、全体的な印象です。
ストーリーラインのコアな対象年齢は、10~12歳の女子。
でも、映像の美しさ、造形の面白さなら、5歳~でも全く大丈夫。
シアターに、そうと見える女の子がいらっしゃって、彼女はすごく集中して観ていましたから、よほど面白く感じられていたのでしょう。
絵本をよく読む子どもさんだったのかな。
大人の方には、ちびっとこそばゆく、また眩しく感じられるかもしれません。
萌え要素ゼロの清廉さと上質さで、私的には直球ストライクでした。
本作は、すこぶるフェミニンな作品だと "断言" しておきましょう。
★ 終幕まで目が離せなかったのは、作画のデザイン性。
ロシア人のイリヤ・クブシノブ氏が手がけるのは、キャラクター、メカニック、プロップ、イメージボード、美術設定、作画監修です。
個人的には、99%文句なしでした。
全編にわたってフレッシュで、既視感を感じさせないオリジナル性を強く感じました。
ロシア児童文学界に見られる独特な印象の挿絵が、日本人の感性に合うようにうまくアレンジされているように思います。
イリヤ氏のデザインは、非常に緻密に計算された印象。
そこに面白さと遊び心を絡ませています。
初見では、その手合いや、味わいのぜんぶを捉えることはちびっと難しく、氏から「分かるかな~?」という謎かけをされているようです。
私も、「あれ?これって何か、ストーリーに関わる意味がありそうな気がするんだけど・・・」と思えるシーンが何度となくあったように感じました。
そのあたりを楽しむのも、本作の魅力だと思います。
ちなみに、残りの1%は、遠目に見える人物の造形に、ちびっとだけ "薄さ" を感じられたことです。
(まあ、些細なことです。)
★ 次に、物語性です。
近似作品は、ふるたたるひ氏の「おしいれのぼうけん」、ルイス・キャロル氏の「不思議の国のアリス」、C・S・ルイス氏の「ナルニア国物語」といったところでしょうか。
もっと身近には、映画ドラえもん大長編シリーズに必須の "どこでもドア" も、モチーフの一つです。
主人公は、明日がバースデーというアカネさん。
冒頭、この子いくつ?と戸惑いますが、やがて学校でのリアルな日常シーンを見せながら、もう一人のキーマンである母親のミドリとの会話+アルファの中に、伏線を馴染ませています。
(ようくアンテナを立てて観てくださいね。)
中盤では、たっぷりと時間を使って、エキゾチックなシーンの雰囲気のなかに絵コンテのテンポを自在に変えつつ、アカネの心情を遠くに近くに揺さぶりながら、テーマの中心に向けて誘導していきます。
また、ファンタジー感もモリモリ満載で、少しずつ昇華していくアカネの情緒性を、非常にうまく引き出すお手伝いをしていると感じました。
終盤では、 {netabare} 新しい世界に触れること、違いを感じながらも同じであることにも気づくこと、自分にとっての大切なものが分かること、自我の中に他者を受け止める勇気を示すことなどを {/netabare} アカネが体得していくシーンをひとつひとつ見せています。
アカネの心の変化が、とても繊細に、そしてどこか楽し気であるように描かれていることが、やがてこちら側にもじんわりと伝わってきます。
というのも、彼女の初々しい仕草のなかに、いつしか自分もそうだった懐かしさを垣間見て、奥の奥まで気持ちが絆されていくのが実感できたからです。
本作品は、親が子どもに語りたい想いを、かわりに優しく伝えてくれます。
同時に、大人も、子どものころに持っていた、やわらかな感性をしみじみと思い出せるような配慮が織り込まれているような気がしました。
あと、ギャングエイジの定番ではありますが、親ではない第三者がアカネをサポートします。
彼ら、彼女らの行動は、視聴する子どもたちに多くのサジェッションを与えることになると思います。
もちろん、大人にも、です。
★ 音楽です。
作風、作画に合わせたかのように、あまり耳慣れないサウンドに触れました。
印象としては、キャラクターの心情をしっかりと支え、スクリーンの前後左右の見えない空間にも、アカネの瑞々しい息遣いを感じさせてくれるかのようです。
それがとても心地よく、最後まで、安心感に浸って視聴することができました。
★ 声優さん。
画には合っていたと思います。
特に、アカネ役の松岡茉優さんの演技は、「できっこない」雰囲気から「自分を信じる」雰囲気まで、心を配らせる繊細なものだったと思います。
市村正親さんの演じるヒポクラテスは、大錬金術師というなんだか尊大な雰囲気の設定ですが、アカネを持ちあげつつ、観客の中心になるだろう小学生の皆さんにも親近感を振りまくという、そんな不可思議な課題を、愉快な演技で提供してくださっていると感じます。
★ まとめです。
{netabare}
アカネは、ギャングエイジ世代のただ中にいる子どもです。
彼女は、学校や教室の中で、日々さまざまに目まぐるしく変化する友だちの姿に戸惑いを感じながら、自らの自我のスタンスにも迷いを抱え込んでいるようです。
彼女の想いの中心には、心を通じ合わせる態度をどう表現すればいいのか分からないことや、気持ちを照らし合わせる言葉を見つけられないことで、もやっとした霧がかかっているかのようです。
たとえどんなに仲良しのグループであったとしても、友だちが大人の階段を上がる速さは、身体的なそれ以上に "精神的な差" を大きく感じるものです。
なぜなら、発達の具合とその差が大きいこの時期の子どもたちには、その感情や振る舞いそれ自体を "持っている子" と "持っていない子" がいるからです。
言い換えれば、0か1の差であり、有るか無いかという違いです。
また、最高学年というステージに立つことは、11年というプロセスが土台になっていますが、同時に校内にお手本がいなくなるという環境を生みだします。
そんな時に感じるのは、小さなプライドを持った個人と、大きなダイナミズムを生み出す集団という関係性におけるパワーバランスのアンバランスさです。
子どもとはいえ、初めて直面することは、その子の人生における "破天荒" なのです。
となればこそ、自分にも他者にも、実直であろうとすればするほどに感じる "訳わかんなさ" に、ますますあっぷあっぷして、気持ちは塞ぐし、胸は苦しくなるし、頭は重くなるし、体も動かなくなるものです。
本当は、自分の内面に見え隠れする心情の揺れに "弱さ" を感じ、ナーバスな感覚を持つことはとても自然なこと。
反面、新しい社会性を付加していくことが、大人びてゆくためのステップとして必要な "強さ" なのだとすれば、大切に守ってきた幼さを切り離してゆく淋しさや、置き残してゆく不安感を、身の内に生じさせることもあるはずです。
私は、12歳のバースデイを迎えるにあふれる期待感があったことを思い返し、同時に、11年という時間と空間に、不確かな不安感を抱えていた記憶も胸をよぎりました。
自我の形成というのは、すこぶる個人的な領域であるとともに、同時に、コミュニティに強く影響される社会的、文化的なプロセスも大きいだろうと思います。
本作は、これから思春期に向かう子どもたちの道筋に、ファンタジー作品が持ち合わせているゆたかな色合いを潤滑材として埋め込むことで、多彩であったり、多様であったり、差異が生じることそのものが、実はとっても文化的な魅力が溢れていることを教えてくれているように感じました。
また、アカネが感じている "訳わかんなさ" は、大人になるにしたがって、いつまでもスルーできるものではなくて、"なぜ?どうして?" と直面しなければならない時期が、いつかは誰にでも訪れることを教えてくれます。
ですから、新しいできごとや環境に、一時的にも {netabare} "前のめり" {/netabare} になることは、彼女が自尊心を高めるためのきっかけとなるし、はじめの一歩目をそっとエンパワメントするキーワードになると思います。
先達たる大人にも、そのためのさり気ない配慮が、必要な役割であることと感じさせる演出がなされています。
アカネをサポートするチィ叔母さんがその立ち位置にいるのがその証左です。
それにしましても、チィさんが、つかず離れず、手を変え品を変え、おまけに自由闊達に振る舞う様子が、なんとも新しくて微笑ましく思えます。
もし、アカネが感じるだろうこれからのたくさんの気づきを予感し、思い出し、想像することができるのであれば、大人にも、彼女と同じ視点で人生をいくらか振り返り、見通すことにつながるのではないかと思います。
バースデーは、いくつになっても、ワンダーランドへの扉を開けるカギを手にする機会になりえます。
その先に、一歩足を踏み入れるなら、まるごと子どもと同じようなドキドキする想いで、発達の道筋を辿れることになるでしょう。
当然のようにさまざまな違いがあっていいことは容易に理解できるでしょうし、同時に、子どものときに共有できていたほんわかした感覚に、代えがたい価値があることにも気づけることでしょう。
そのうえで、生きることの証を欲し、それを示す勇気を持っていることに気づけば、すばらしいアニバーサリーを創ることができる能力とチャンスがあることを感じ取れるのではないだろうかと思います。
もちろん、もっともっと気軽に、その機微たる歴史と未来とを、それぞれの立ち位置と観点で感じていただける作品です。
回顧に懐古する郷愁感という言葉にまとまるのかもしれないですし、時代に踏み出す勇気と知恵を獲得しようとする行動につながるのかもしれません。
終幕で、母親のミドリが、ある "パーツ" を見て、アカネの身に起きたことを "思い出したかのような表情" をします。
私は、視聴後になって、この物語には {netabare} 時間軸が、母と娘の間にリンクしていること {/netabare} に気づきました。
それが、冒頭の "もうひとつのワンダー" です。
アカネは、チィさんと過ごした3日間は実感できるでしょう。
でも、母のミドリがかつて過ごした時間を {netabare} "追体験している" {/netabare} とは思いもよらないでしょう。
ミドリにとっても、我が子に限ってそんなことが起きるとは思ってもいないでしょうし、それを意図してチィさんのお店へアカネを行かせているわけではないと思います。
それどころか一片の記憶すら、いつしか忘却していたとしても不思議ではありません。
大人になるにしたがって、色や水に困ることなど、一つもなくなってしまうからです。
それでもミドリは、アカネの心の世界をずうっと支えてきていたと思うのです。
例えば、ミドリが、色とりどりの草花を庭に植えたり、かわいらしい調度品を揃えたり、チィさんとの交流を大事にしてきたのは、彼女のかつての体験が、大人としての記憶ではなく、子どもの感性のまにまに深く身体に刻まれていたからだろうと思うのです。
ですから、ミドリは理屈抜きにアカネと同じ立ち位置にいられたのだろうし、アカネの表情や言葉に見え隠れしている不安定な心情を普通のこととして受け止められたのだろうと思うのです。
そして、アカネの鮮やかな感受性や瑞々しい情緒性が失われないように、アカネのテンポに合わせて、気長に見守り、おだやかに育んで、時にはまったりと癒やしながら、支えてきたのだと思うのです。
観るたびごとに、母と娘の不思議な絆と、アカネとミドリの言霊の響きとを、しみじみ感じることのできる作品です。
あまり目に付かなかった作品かもしれませんが、秀作だと思いました。
児童文学が好きな方には、なかなかの人気作のようです。
興味を持たれましたら、ぜひご覧になってみてください。
{/netabare}
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作が、皆さまに愛されますように。