「ブギーポップは笑わない(TVアニメ動画)」

総合得点
71.1
感想・評価
414
棚に入れた
1737
ランキング
1388
★★★★☆ 3.4 (414)
物語
3.3
作画
3.4
声優
3.5
音楽
3.6
キャラ
3.3

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 4.4
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

バブルクライシス vs. ブギーポップ

ちびっと難解な作品でしたね。

私は、キャッチさんの「ブギーポップは笑わない Boogiepop Phantom」のレビューを拝読させていただいたことをきっかけに、原作シリーズを読了、新旧アニメ作品の視聴を終えました。

個人的な印象ですが、私は本作に類する作品をほかに知りません。
それは、とても面白いということと、ちびっと怖いことと思います。
評価が定めにくいということもありますし、レビューするに日本人の負のアイデンティティに触れるということでもあります。

近しくは、日本近代文学の黎明期に傑出した、夏目漱石の心(1914)、井伏鱒二の蟹工船(1929)、島崎藤村の夜明け前(1929~35)、太宰治の人間失格(1948)など、日常のなかの人間の実存の価値や内面性の葛藤を鋭く問うた作品群に似ていると思います。

さて、このレビューでは、ブギーポップとは何か、ということと、彼が生みだされた時代背景を探ってみることで、本作品の理解が深まることを柱に位置付けてみたいと思います。よろしくお願いします。
相変わらずの長文ですので畳んでおきます。
もしよろしければ、お時間のあります時に開いてみてください。ペコリ。

{netabare}
ではまず、ブギーポップの印象を、私なりに述べてみたいと思います。

彼は「ボク」と名乗るように男性的な人格を思わせる意識性をもっていて、しかし、宮下藤花という女性の容姿を見せています。これは "性差に関わらない人間性それ自体" へのテーマ性を予感させていると感じます。
また、一定の道徳的な価値観を身につけている存在で、本質的には実体のないエネルギーの様態のように感じます。これは、肉体的・物質的なものばかりに幸福感や真諦を追求するのではなくて、精神的・教養的な方向性への訴求を示しているように思います。
くだいて言えば "生きがいの探索とその定着" ですね。

彼は、自身を「宮下の二重人格に近いもの」と評していますが、そうとも言えるしそうとも言えない感じです。
ちびっと鵜吞みにはできないのは、2人のパフォーマンスの差が大きすぎるからです。
でも、ブギーポップは、宮下にけがをさせたことを告白しています。
このあたりの演出で、視聴者は煙に巻かれそうですね。

宮下自身は、あくまでも学園のモブの1人として描かれ、特異な内面性をもつ人物でもなさそうです。
言ってみれば、宮下という実体(肉体)のバーターとして、つまり容姿を借り、似せて造形された別の存在、とでも表現すれば良いのでしょうか。
一時的な憑依によるディテールの擬似同化、まあ、焼き直しというか化身像といっても差し支えないでしょう。
しかも宮下の記憶を感知・把握したうえで他者との会話を自由自在に成り立たせており、かつ自身の正体を公言することで相手に認知させつつ、同時に宮下の記憶の補正操作も自動的に処理するというなかなか手の込んだ懐の深さを持っています。

ここで唐突に一例を出しますが、例えば、ウルトラマンです。
彼は普段はハヤタ隊員の陰の存在です。ベーターカプセルを天に掲げることで顕現します。ハヤタとウルトラマンの間には事前に意思疎通があり、かつ認め合っています。
一定の交換条件の下で両者の存在がバーターされ、それぞれの力が最大限に発揮されます。
これは、カプセルという分かりやすいアイテムを媒体にして成り立つ契約的な関係性とも言えます。
スイッチを押すことは、ヒーローという特異な立ち位置を場面場面で保証し、決定づけるために必要なお作法ということですね。

少し観点を変えれば、このお作法、サラリーマンの労働契約のようなものです。
タイムカードをレコーダーに差し込んでピカピカって光って認証されたら、人生の内のなんと8時間という時間をウルトラマンのように "大活躍する" わけです。
私も彼のようにできたらいいなって願うのですが、大活躍=労働力の提供という現実的な見方をすると、契約書の信用保証の重さ、労働法の遵守が当たり前であるし、憲法における基本的人権の尊重が大前提にあることが当然で、その上での協働(試行錯誤や切磋琢磨=内面性)と成果(課題達成と収入の歓び=外面性)が "大活躍" の実感と実相なのだろうと思います。

もう少し角度を変えれば、ヒーロー・ヒロインものは、お互いに助け合うことで努力はおおかた報われ、課題の全ては無理だけど少しずつ克服することはできるという "ウインウインの価値観" を、日本人のマインドに深く磨(す)りこみ、望ましいものとして一般化させることに一役も二役も買ったわけです。
ミクロ的には正しいことだと思います。

でもブギーポップはウルトラマンの立ち位置とは違いますね。
作風が違うことは当然のことですが、ではブギーポップの作品性とは何かということが気になりますね。ここがポイントの一つ目です。

さて、お話はさらに脱線しますが、「ジキル博士とハイド氏」という古典的な作品があります。二重人格をテーマにした作品で、ジキル博士は社会進歩の先鋭的研究者、ハイド氏は底辺社会に蠢く隠者という設定です。
同一人物でありながら、全く違う人格を持つことの精神性の異様さと苦悩するさまが丁寧に描かれています。
もう一つに、彼ら二人に翻弄される "社会のさま" が興味深いのです。

これに比べると、宮下とブギーポップは少し異質です。
ジキル博士とハイド氏の肉体的存在は同一、社会性価値観や目的意識性は全く別。
ハヤタ隊員とウルトラマンの目的意識性は同一性があり、実存性は全く別です。
宮下藤花とブギーポップは、目的意識性も、肉体的存在も同一性はありません。
ブギーポップは都市伝説の中心人物、宮下はそこから最も縁遠い場所にいる普通の女子高生という設定です。

この三者の設定の違いを一言で言えば "時代性" です。
でも、その前に、ブギーポップの人となりからアプローチをかけてみたいと思います。
それでは作品を眺めてみます。


★ ブギーポップは、"世界の危機" に対応するべく "自動的" に現われ、さまざまな人の運命に関わってきます。

{netabare}
"世界"、"危機" という言葉は、ケースバイケースで幅広く解釈ができる曖昧さを含んでいますので、それを視聴者が受け取った瞬間に、すっかり委ねられ、如何ようにも加工され、再構築されていきます。

"世界の危機" を連発する彼の意図に意識を注意深く向けてみると気がつくことなのですが、敵の属性や立場性がようとして知れず、これっぽっちも明らかにされないことに愕然とします。
しかも、対決の構図や内容が謎めいたままにお話がどんどん進んでいくし、時間軸の奇妙な交錯や重複の不思議さに巻き込まれるし、辻褄を合わそうとしても不可解な平衡性や乖離性を感じます。
分からないままに物語の解釈に自由度が持ち込まれ、同時に、齟齬と混沌も生まれます。
こんな曖昧なままのカオス感は、今どきのアニメとしてはちびっと珍しい。

さて、彼のいう "世界" ですが、身の回りのことから別次元界まで、かなり幅があるようです。
ところが、彼が関知している範囲や、関与する対象人数はかなり限定的のようです。
危機を感知しない人、気にしていない人たちは、目鼻のないひと固まりのモブ、魂のないマネキン像のように没個性化されています。
このビジュアルが一体誰からの視点で見られているものなのか、そのあたりの "複数の視点と意識のスライド" も興味深いですね。

彼は、直接、怒りを口にしてぶつけることもあれば、解決を先延ばししたり、課題を放置することもあります。
また、すべての人に平等に対処するわけでもないようです。

彼は、さまざまな次元世界に、忽然と現われます。
気がつけば、最初からそこにいたかのように佇んでいます。
それは自動的で、彼の意思とは関係なく、誰かの意志で決められてしまうようです。

彼は、身の周りの状況をいくらかは理解しているように振る舞っています。
でも、自問自答することもあるし、周りの人に「どういうことなんだい?」と尋ねることもあります。
実は、その場その時に初めて気づくことも多いみたいです。

誰とも語らないときもあるし、そこにいる誰とも忌憚なく語れるのです。
ときに親交を楽しむときもあれば、無関心を装い、一瞥することもなく姿を消すこともあるのです。

ブギーポップの人となりを、いくらか抽出してみました。

やはり、ヒーローやヒロインとは言えない微妙な立ち位置。
むしろ、主体性が乏しく、ひどく世俗的で、一過性な存在です。

もう一度、確認しますね。
彼の主体性は、"世界の危機" です。つまり "環境要因" ですね。
とある特定の事象に関わる、とある特定の人物の周辺に、彼は出現するのですね。
この "とある" がポイントなような気がいたします。
なぜなら、"とある" と同じような立ち位置の方が、日本には大勢いらっしゃると、私は感じているからです。(後述いたします。)

そのあたりを、三つの側面から申し述べてみます。
{/netabare}

★ 一つめは、フィクションとしての作品性です。
{netabare}
私は、本作は、単純に娯楽的に読むものとか、どこかのセカイのダレカの物語として視聴するものではないだろうと捉えています。

原作は、"ライトノベルの世界を変えた作品" として評価されていますが、では、いったいぜんたい、どういう理由でそのように評価されているのか、ストーリーやシナリオに含まれている要素をどのように捉えれば自分なりに深く理解したり楽しめるのか、この作品っていったいどういう作品なの?っていう素朴な疑問について、少し明るくなっておくことは、案外大切なことのように思えます。

それほどにブギーポップという作品には、ライトノベルにしてもアニメ作品にしても、特異な作品性があるような気がしています。


本作はもとより、原作シリーズでは、出口の見えない閉塞された世界が描かれています。
誰もが、喘ぎながら抗い、もがきながら彷徨い、それぞれに生きてきた歴史と文化を支えにして、それぞれの価値観で望ましい未来を創ろうとします。
でも、誰にでも頼れない世界があることを知り、その歪みがどこから来ているのか分からないし、正すこともできないし、応えられないでいます。
誰かに質(ただ)しても、だれも正しい答えが出せないで、ジリジリと灼けるような鬱屈した精神世界が描かれています。
読み進めていくうちに、一度の失敗だけで、あるいは一方的な理不尽さで、人生が台無しになってしまうような救われようのないホラー的な状況が重々しく敷かれていることが少しずつ理解できるのです。

もう一つ、原作の特徴として感じたのは、その筆致の飄々とした表現性です。
まるで水面をなでるような風のように軽さをもった文章であり、それゆえに物語は淡々と進行していくように体になじむのです。
それだから、といっていいのかどうか、一話ごとのエピソードは寓話的で、象徴的です。
テーマの設定の垣根はとても低くて、なんだかありきたりのような、陳腐とも思えるような手合いなのです。
そのストーリーの解釈を読者の自由な思考に委ねていて、教示性を避け、教訓性も薄めています。
本質的には、共時性(読者との同時代性)を感じさせるのですが、しかし同時に、共感性はそれほどには求めていないのです。

むしろ、作品の雰囲気を肌で感じさせながら、同時にチクチクとする違和感を与え、その集積によってリアルな現実を突破する力を脳の中に囁こうとするかのように感じます。
読者が知るべきは、形がはっきりと見える既成の価値観=模範解答ではなく、形になる前の未知のイメージを重ね合わせ、縒り合わせていく作業が必要なことでしょう。
ダメですね。上手く書けません。
どなたか助けてくださいませ。ペコリペコリ。


原作の挿絵については、線描写が主で、止め絵的です。
ブギーポップら登場するキャラは表情を落とし、まるで存在自体が儚げです。
その印象はアニメ以上に淡くて朧げなイメージを醸し出しています。
セカイ系の作品に必要不可欠なヒーローやヒロインはあたかも不要といわんばかりに、敢えて前面に打ち出さない造形で、またそのように見せている絵師の素晴らしいデザインなのです。

旧アニメ作品については、ネット配信がありましたから、ご覧になられた方もいらっしゃるかと思います。
アニメ画は、煮詰めて煮しめたようなコテコテの映像表現でした。
人物の描写も陰影が深くて、どことなく排他的で刹那的な雰囲気です。
ストーリーもゲンナリするほどに気の滅入る作品、というのが正直な感想です。

原作の持つ雰囲気と、旧アニメ作品のそれにあるギャップ感が凄くて、この作品のコアには、いったいどんな共通点が存在しているのかな、と考え込んでしまいました。
そんな不思議な感覚があったものですから、本作にちびっと入れ込んだ、と言えるのかもしれません。

私は、今回の放送作品は、旧作品よりはいくらか分かりやすいと思いました。
ときに時系列が飛んだり、物語が唐突に繋がったりするのはなかなか厄介ですが、原作を読んでいれば、ある程度は補正できます。
(未読の方には非常に分かりにくかったと思うと少し残念です。)

画が古くさく感じられたり、キャラクター像が似通っていたり、放送回が不定期であったことに評価をつけていらっしゃる方もみえます。
確かに、唐突な始まりと、意味不明な展開と結末は、今風な説明を尽くす作品ではなかったし、合理的配慮などへったくれもないと言えるかもしれません。
その意味や観点では、ほかのアニメ作品と比べると?マークがいくつ付いても仕方のないことなのかもしれません。

無理もないことと思います。
ブギーポップの描く世界観は、ほかの作品には見られないと思います。
目で観ようとしても見えにくい世界を描いています。
心眼で読み取ろうとしても理解しにくい世界を描いています。
まるでそれを意図したかのような作品性です。
敢えてそうした、そうする必要性のある作品だったということでしょうか。
私は、これらの要素は、原作と制作と製作との意図的な演出だと思っています。

敢えて申し上げれば「よく分からなかったけど、良いんじゃないの、たかだかアニメなんだし。」と納得してほしくはありません。
納得してはいけない必然が織り込まれている作品性だと思えるのです。
もしできましたら、ブギーポップを気取って「いったいどうしたんだい?」と "あなた自身の世界の危機" に問いかけてみていただきたいと思います。

とは言いましても、危機を感じることに必要性のない方は、ちびっと難しいかもしれません。
そのときは、本作の物語のメッセージ性、面白さは、それぞれの感性の受け止めで構わないと私は思います。
ただ、考察の手がかりがなければ、苛立ちさえも感じられたのではないかとも感じます。
なので、もう少し広げてみます。
{/netabare}

★ 二つめは、もう少しリアルな現実に寄せてみてレビューしてみます。
{netabare}
"ブギーポップは笑わない" が出版された時代(1998年より発刊)、もっとリアルに言えば、バブル崩壊後の社会(1991~1993年)ということなのですが、私は、ここを境にして、世代が違うとか、時代が変わったとか、そんなのものでは言い表わせないような社会・経済・文化の構造そのものが劇的に変化した、というよりも悪化したと感じています。

この作品性にシンクロする一番の世代は、約20年前の思春期の入口〜青年期にいた方々だろうと思います。
今の年齢でしたら、おおよそ41〜52歳あたりでしょうか。
この世代の人口は、約2178万人ほど。(平成29年度総務省統計局調査)
全世代の約17%ほどを占めています。

この年代の方は、就職の超氷河期という難局に直面し、翻弄され、物理的にも精神的にも、人生観そのもの=世界観が720度くらいぐるぐる回ってしまった世代だと感じます。
もっと言えば、日本国の経済政策、特に雇用政策に対する信頼性が保てなくなったのではないかと思います。
譬(たと)えるなら、100メートル走のスタート位置が、50メートルくらい下げられて、ゴールの位置も50メートルくらい先まで延ばされて、しかも評価は正規の100メートルと同じ。
そんな無茶苦茶な競技に、2000万人を超える方々が参加した、参加せざるを得なかったという受け止めです。

バブル経済以前は、国民の誰もが、いわゆる、正社員で、月給制で、福利厚生もあって、ボーナスもそれなりにあって、マイカーとかを買って、恋愛して、結婚して、家庭を持って、夢と希望と責任を背負って、社会人としても地域の行事に参加して、人生を着実に作り上げていこうとするイメージが、疑いようのない人生のシナリオとして存在していたと思います。

それが当たり前で、普通で、横並びで、中流で、何十年先も変わらない人生なんだという漠然とした考え方であったような気がしますし、ほぼ全ての日本人の人生観の根底を成していたと思うのです。
なぜなら、国策としてそういう日本を目指して、国造り、人作りをしてきたし、平和と自由と安心を享受することのあるべき原則的な姿だったからです。

バブル期は異常でした。
「24時間働けますか?ジャパニーズビジネスマン!」とか、「奴隷のように働き、王様のように遊ぶ!」などというキャッチコピーがコマーシャルのなかに氾濫し、それがさも当たり前のように宣伝され、喧伝されまくりました。
でも、そのファンファーレの響きは、当時の膨らみすぎた実体の伴わない経済活動で成り立っていた日本の産業構造が、崩壊しないことが大前提でした。

そんな異常事態ともいえるバブルの景気が弾け飛んで、日本人の経済観念と人生観がガラリと変わりました。
喩えて言えば、現実の世界のなかに異質なセカイ系が一夜にして生み出されたようなものです。
バブルという似非(えせ)リアルに隠されていたクライシスがマジリアルとなって牙を剥き、特異で歴史的ともいえる相転移の節目に爪を立てたのです。

経済活動というものは、人間の体にたとえると "血液の循環" です。
その流れ自体が、バブルと称されるほどに呆気なく目の前から消失したことは、大動脈を噛みちぎられ失血死するほどになってしまったということと同じです。
バブルに沸いていた経済は、血管に空気を混ぜたことと同じです。
血管が破られれば血しぶきをあげて血泡だけが残るのも必定です。

まだ出血が小さなうちは瘡蓋(かさぶた)ができて止血することはできます。
ブギーポップが "自動的" と語る由縁の一つですね。

バブルの崩壊によって消失したのは何かというと、雇用の機会が狭まり(経済活動の縮小、就職氷河期)、労働者性が変容し(非正規雇用、派遣業の推進、短時間雇用の拡大、短期間での成果主義の導入・強化)、賃金制度が見直され(年功序列性の弱体化、月給制から日給月給制への移行)、身分保障の空洞化が進みました(有期雇用化、買い手市場の理論)。
そのほかにもあまたの変化が生まれ、日本政府もその対応に追われながら、弱肉強食と弱者切り捨ての道理が大手を振ってまかり通るようになりました。

その結果の一つとして、バブル崩壊後10年くらいたってから出所の分からない流言が跋扈しだしました。
「勝ち組、負け組」という言葉です。
実は、太平洋戦争の終戦後も、似たような状況は生まれていました。でも、国土の再生や社会インフラの再構築に邁進する志向が国民の意識の根底にありましたし、まだ道徳的な規範性が強かったことや、平和護憲や民主的教育と呼称される動きもあって、労働内容に対する平等意識と、等しく努力することへの誇りを持ち合わせていたのではないかと思います。

ところが「勝ち組、負け組」という言葉は「労働に貴賤はない」という不文律をひっくり返し、労働者性の属性でもある平等性の概念を著しく損ねたと思います。
この影響は、当時の若年層に労働に対する見方を変えたと思います。
学校間格差や学年内の学力差のランキングは受忍していたとしても、卒業し就職したとしても "負け組と言われかねないレッテル" を40年以上にわたって貼られたり言われたりすることは心外なことだと思うのです。

何時しか仕事や労働という人間の属性そのものへの疎外や圧力が、タガが外れたように公然と語られ、流行り病のような時代性で全国に広まり、うたかたのように一世を風靡した時期が、ブギーポップが生み出された時代背景とぴったり重なっていたと感じます。
(ちなみに、うたかたとは "泡沫" と書きます)

私は、労働者性に勝ち負けをつけるような言い方は嫌いです。
表面をなぞるだけでも決して手放しでは笑えないし、また心の底から睥睨して笑いとばすしかありません。
ブギーポップは笑わないようですが、それはなぜでしょう。

原作者は上遠野浩平氏です。"かどの" と読みます。

本作が生まれる時代背景には、上遠野氏の生い立ちが強く反映されているように感じます。
氏は50歳になられますが、大学卒業時に、バブル崩壊という経済的ダメージの直撃弾を受けた世代になると思います。

戦争の直撃は国土を荒廃させましたが、終戦によって故郷の山河に安堵が残り、産業の復興に希望が生まれました。
戦争は、鍋や釜が供出されれば武器などの部品になります。爆撃機が通り過ぎれば空襲は避けられます。戦争終結の詔(みことのり)はラジオ放送されましたし、日米講和条約の手順も公開されていました。
従軍が終われば労働者が生み出され、社会復興の道筋がそれなりに理解しやすかったです。
こうした現象は、視覚可能で、直接的な変化があり、1945年8月15日以降、平和な暮らしが手の届く身近さとして実感できました。つまり原因と結果の関係が明瞭でした。

しかし、バブル崩壊は人心を荒廃させ、土地と国土に不信感を、産業構造に猜疑心を生み出してしまったのです。
一旦生み出された負の想念は、消しても消しても次々に泡のように浮かび上がってきます。その実相は "後悔と怨嗟" の思いです。

事実、若者は大学に進学して知識や技術を身につけても、就職口がありません。
現役社会世代の雇用も極めて不安定で、常にリストラクチャリングによる人員整理=解雇の心配がありました。
雇止めにされれば住居の喪失の不安さえも現実のものとなり、衣食住全般と生存権への強迫すら突き付けられるようになりました。
何よりもその因果律が非常に分かりにくかったのです。
これがまさにバブルと言われる所以です。

そんな時代背景があっての前作(2000年~、12話)なのです。
アニメとは言え "世界の危機" を謳い、ましてや "世界を救う" とかの設定は、流石に "セカイ系" の作品とはいえ、いわゆる右肩上がりの "やればできる、やってみたらできちゃった" みたいなイケイケなシナリオは創りにくいものだったと思います。

いつも脱線して申し訳のないことですが、例えば、ほぼ同時期の "もののけ姫" (1997年)も、生き方の多様性を謳った作品として有名です。
"生きろ。" というキャッチコピーにも、身の周りの全方位を見やりながら自分の足で踏みしめて歩いて行くことや、各地のお国柄の "価値観の多様性" にじかに触れたり人と語り合うことや、シシ神やタタリ神という存在のなかに "生死" を身近に感じることが、どれほどに大事なことかが、各シーンに落とし込まれています。
さらに "曇りなき眼(まなこ)で見定め、決める。" とアシタカに言わしめたことは、バイアスのかかった古い価値観に縛られることなく、地球全体を俯瞰した多角的で広範囲な視点を持って対応していくことが、人間にとっての責務であることの "萌芽" を示そうとした時代性のある言霊だったと思います。
アシタカやサンからのメッセージは、バブルに塗れ、弾けて飛び散ってしまった日本人の心に、なお懸命に "世界の再生" に目を向けさせようとしています。
その強烈な教示性の大なるがゆえに、大ヒットに至る評価が与えられたのではないかと思うのです。

しかし、そうは言っても当時の日本国の総力をあげても対処しきれない古今未曾有の不況の只中でした。
多くの若い人たちの現実に、激烈な血泡を吹かせ、泡沫の夢となる醜い後遺症を残したのも確かです。
それ故に、せめてもののこととして、精神的な内向世界に向かうトレンドが文化芸術に芽生えたのも確かです。
苦々しい現実から一時的にでも逃れ、"セカイ" の内側で、泡沫のように漂う浮遊感に身を委ねることで癒しを求め、自らの閉ざされた内面セカイで安寧を追った結果としての "心から笑うことのできない怪しげな泡" のような存在としての営みが、一人一人の心になかに励起したのではないだろうかと思うのです。

本作の作品性には、こうしたリアル世界の翳が深く反映されています。
ですから、"世界の危機" に対応するブギーポップが、解決策のシナリオを鮮やかに見いだすことは難しいのです。
彼が自動的に浮き上がるのは、そうしたリアルな翳を反映している個々人の内面の精神世界の危機に対しての範疇がせいぜいなのです。
現実世界の苦さをそのままを取り込んだ精神世界は、対人関係も危うげで混沌として、敵味方の属性もよく分からないまま、シナリオの因果関係も見通せず、時間軸さえ不確かなままに、右往左往するしかないのです。

"ブギーポップ" には重々しいニヒリズムが見られます。
旧態の家父長制を規定してきた道徳的な観念と、外来の新自由主義の理念とが激しくぶつかり合い、旧知・衆知 VS 未知・無知とがシノギを削りあった時代がそれを生み出したと感じます。
グローバルな競争原理に少しずつ屈し、日本人の精神性が緩やかに崩されていくこと (=セカイの危機) への "嘆息と諦観" とが作品の中に表現されていたようにも思います。
ニヒリズムは、歴史に裏打ちされた普遍的な真理や真諦、既存の人間性の価値観を、受け止めることなく否定する哲学的な立場性を意味するものです。
虚無主義ともいわれ、冷笑と皮肉をもって、セカイを斜めに眺める態度ともいえるでしょう。

上遠野氏のリアルな時代性が、そのままにブギーポップのセカイ観を生み出しています。
そこにはかつて日本近代文学に登場していたあまたの主人公らの呻吟する息遣いに潜むニヒリズムが、密かに、しかし揺るぎなく再生産されて描き出されているように思えてなりません。
その直接的な理由は、バブル崩壊後の労働環境の変化に蹂躙されたリアルな生活実態から生まれる喘ぎであり、その間接的な背景には、政治への関心の低さや暮らしへの主体性の弱さが招いてしまった社会の閉塞性への痛烈な批判があるような気がしてなりません。
{/netabare}

★ 三つめは、いつも通りのファンタジーなレビューです。
(ここからはオカシナ話なのでスルーしていただいて結構です)
{netabare}
アニマについて、少しだけ申し述べてみたいと思います。
西洋ではフェアリーとか妖精、東洋では精気とか魂魄と言われています。
(アニマについての背景は、拙レビュー "モンスター娘のいる日常" を参照してネ)

薔薇の花には、薔薇のアニマが宿っています。
薔薇の妖精はピーマンに宿ることはありません。
ピーマンの精気はリンゴには宿りません。(味が変わっちゃう!)
アニマも十人十色。それぞれ特有の個性があります。
ですから、花の色や形、香りや味、サイズや開花の時期や種の保存の仕方にも違いが現われます。

アニマは、DNAに書き込まれた設計図(=シナリオ、指示書) を具体化、具現化する働きをする者たちです。
そうと見立てれば、アニマは自然の摂理に組み込まれ、人間とともに進化の道を辿ってきた、同じ地球の子どもたちと理解することができます。
幼く、健気で、不完全で、そして自動的で能動的であり、永い時間を生き延びてきた歴史がそのまま詰まって、今の姿かたちができあがっているものだと言えるでしょう。

人間の目には見えないミクロの世界には、アニマが司る膨大な記憶と記録が厳然とあって、それぞれのタイミングで人と関わることで、絆を結び、縁(えにし)をつなげることで、具象化、実体化の現実の世界に姿を見せるに至るわけですね。
四季の移り変わりは太陽と地球と月にも依拠し、生産は大地と水を頼りとし、生活文化は人の智慧と技術で高められてきました。
こちらはいずれもマクロの世界の働きと言ってもいいでしょう。

ブギーポップは、宇宙や地球に常駐しているエネルギー体のようなものだと見立てれば、彼もまたアニマの一つと理解してもよさそうなものです。
彼は、とある人間の生きている世界の危機=生命の存在と精神の価値が損なわれるタイミングで、便宜上、宮下の姿かたちで顕現する存在です。
この仮説で進めれば、彼が人間の姿を取るのは、いずれの人間にも内在する精神性に、いくらかでも関与し、その人が幸福な人生を構築するプロセスの守り人の役割を持って働いているものと理解してもいいのではないでしょうか。

彼は自らを「ボクは実体がないんだ」と称しています。
これを偶像崇拝のない神道の側面から見立てれば、どうでしょうか。
神道では、直毘(なおび)という概念があり、御魂の宣(の)り直しというお作法があります。
直毘とは、心身の悪い状態、尋常でない状態などを、元の良い状態にもどすという意味があります。
御魂の宣り直しとは、平易簡便に言えば反省ということです。
仏の顔も三度までと言われるように、ある程度失敗を繰り返すことで乗り越え方を習得すると捉えれば、一度の過ちも許せないということではないと思います。

自分も他の人も、三度と言わず、五度、十度と誤るかもしれませんが、成果主義一辺倒に偏ることなく、忍耐と寛容によって受け止める必要もあると思います。
この世に初めて生を得て、全てが初めての体験で、人生において失敗や誤りが一度もないということは、それこそブギー(奇妙)なことです。
ポップ(泡)に過ぎる人生かもしれませんが、ブギーポップの言霊のように、いかにもブギウギウキウキとして、ライトでポップな楽し気さで過ごし、柔軟に変化(へんげ)し、中庸を取りつつ、少し謙虚で、少し勇気をもって生きていければ幸せなことだと思うです。

そんな視点で、古神道と明治と平成とをミックスさせて、令和を迎えるに意義のある作品として捉えてみようかなと思いながら筆を置きたいと思います。
間もなくの令和が、皆さまにとって良い時代になること心から願うばかりです。
{/netabare}

★ おまけ。
{netabare}
前述のブギーポップの人となりですが、派遣労働に勤しむ方の労働の実態に似ていると思いますが、いかがでしょうか。
{/netabare}
{/netabare}

長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作品が、皆さまに愛されますように。

投稿 : 2019/04/15
閲覧 : 310
サンキュー:

22

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