Progress さんの感想・評価
5.0
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:今観てる
どろろ レビュー
今期はそのハイクオリティな殺陣やアクション映像とダークな世界観から評価を集め、
来期は手塚治虫の未完の原作をどうオリジナル展開していくか注目が集まっているこの作品。
私は恐らく実写映画のタイトルを聞いたことがある程度の認識の為、原作と比較せずに視聴できました。
あらすじ(公式サイトより)
時は戦国。
醍醐の国の主である景光は、
ある寺のお堂で十二体の鬼神像に領土の繁栄を願い出た。
それと引き換えに生まれた景光の世継ぎは身体のあちこちが欠けており、
忌み子としてそのまま川に流され、捨てられてしまう。
時は流れ、鬼神は景光との約定を果たし、国には平安が訪れた。
そんなある日〝どろろ〟という幼い盗賊は、ある男に出会う。
それは、鬼か人か
両腕に刀を仕込む全身作り物の男〝百鬼丸〟は、
その見えない瞳で襲い来る化け物を見据えていた。
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さて、私が作品に感じた事をあげて見ます。今回はストーリー寄りの感想です。
①舞台が日本だから成立する、「鬼神」の違和感のなさ
②五感を取り戻すことによって生まれる、感覚の再認識、どろろと百鬼丸の、言葉を持たないコミュニケーション
③百鬼丸の定めから来る、思想と道徳観の対立構造
では①「舞台が日本だから成立する、「鬼神」の違和感のなさ」について。
ここまで視聴してきて、すんなりと主人公の敵である「鬼神」という非現実的存在を、受け入れている事を考えてみました。
まずは、「鬼神」とはなにか。主人公と対峙する姿を捉えると、巨大な人食いの化け物(鬼だか蜘蛛だか)、怪魚、怪鳥など、自然界に存在する動物の延長線上の姿をしていますね。
私の宗教観、というか、自然の捉え方として、万物の全てに神が宿る。そういう物事の捉え方を教育された方は一定数いると思います。そういった宗教観から、動物の分類学的な物が発展していない時代で、得体の知れない動物の中でも奇奇怪怪とした生き物は、神としてあがめられる。そういう文化の描写があるのが私の文化的背景の肯定をしてくれているので、好みですね。
そこからこの作品の世界観を紐解くと、日本が無宗教ではなく、自然宗教(アミニズム)と仏教の混合という何となく意識できる宗教観を、しっかりと描いていると感じます。
「天変地異の原因は、鬼神のせい」「この大吾の地は呪われていた」等と、
飢饉や日照りの原因を、信仰の対象となる「神」と関連付ける日本独自のその宗教観及び精神性が、舞台の中によく現われています。
こういった日本の宗教の状況を、多神教という言葉で表現されることがありますが、海外、キリスト教やイスラム教といった1神教の宗教が存在している状況では、キリスト教なら「鬼神」は「悪魔」などといわれるかもしれません。
そういった多神教の中で、災害を静める為に神の御業として奉る、そういった日本人の精神性の一面を描写したからこそ、「鬼神」に違和感を抱かなかったのかもしれません。
そして、災害を受け入れつつも、五穀豊穣を願う人達、百鬼丸とどろろが足りないものがありながらも、懸命に生きることによって(そして様々な宗教や人間の倫理が交錯しながら)、人間の生命の価値に煌きを与えるような作品になっています。
①が長くなりましたが②五感を取り戻すことによって生まれる、感覚の再認識について、考えていきましょう。
話数の一部、もしくはストーリーの一部は、百鬼丸が鬼神から奪われたものを取り戻しそれを描いていくお話があり、特にその五感については、1話ごとのストーリーの大枠を形づくっています。
鬼神との戦闘の時に、五感を利用する、もしくは体感することもあり、創意工夫の百鬼丸の戦いを演出することになっています。
また、平時に五感を様々な切り口で描写し、五感を獲得することによって、百鬼丸の反応から感情を描くことに腐心していることが感じられます。
特に聴覚を取り戻した後の百鬼丸の描写は目を見張る所が多く、聞きなれない煩い周囲の音と、その人が歌う歌だけは聴いていられるという、「拒否」と「承認」、その反応の差によって百鬼丸の意志を感じさせてくれるという、言葉を持たないコミュニケーションを描いてくれています。
その中で私は、五感に対する再認識、生きるために物事を感じる五感はどう働くかということと、五感で人を感じることによって、人の人との関わり方がどう変化していくかを、百鬼丸の変化を見て感じることが出来る、そういうところまで描写がなされているのではないかと感じました。
③百鬼丸の定めから来る、思想と道徳観の対立構造については、この作品の登場人物達の業を描くのに必要な作品全体の肝です。
まずあらすじの通り、「醍醐の国の主である景光は、ある寺のお堂で十二体の鬼神像に領土の繁栄を願い出た。」わけです。
その結果百鬼丸は、体の色々な部分を失って生まれることになるのですが、
百鬼丸が成長し、鬼神を倒すと、鬼神によってもたらされた醍醐の国の実りと繁栄が失われていきます。
1人の犠牲によって多くの人間が救われるという景光の行いと、多数のために犠牲にされた赤子の悲しさ、政治的な思想と道徳の対立、そのことが登場人物達をどう動いていくかの軸になっています。
景光は自分の行いを信じて疑わず、その息子や母は道徳との対立に悩まされながらも、答えを出していきます。その中に、「犠牲」と「繁栄」、実の子や兄弟でありながら、犠牲を強いてしまったことの人間の業、その業に焼かれ苦しむ人間の姿、自分の物を純粋なまでに取り戻すことで戦乱が周りに起きる百鬼丸の心と業など、様々な描写に関わっているのではないかなと感じています。
さていかがでしょうか、どろろ。このレビューを書いている時は、ちょうど折り返し地点で、これから原作がない所も描いていかなければならないと聞いています。どんなラストになるのか、楽しみですね。