ossan_2014 さんの感想・評価
3.0
物語 : 3.0
作画 : 3.0
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:途中で断念した
男だったら流れ弾の1つや二つ胸にいつでも刺さってる
異世界に召喚されたオタク系少年が、なぜか異世界での社会階層を転落し、「どん底」から這い上がる「冒険」譚。
{netabare}初めて出会った女性がいきなり親密な態度ですり寄り、「わたしの知っている店に行きましょう」とくれば、ここが歌舞伎町なら即座に回れ右して逃走する場面だが、「異世界」に転生した「勇者」という立場を過信した主人公は、無警戒にまんまと引っかかってしまう。
手ひどい心の傷を負った主人公は、それでも生活のために「仕事」をこなす中、様々な「差別」に痛めつけられニヒリストの相貌を身に着けるが、次第に周囲の信頼を得て「這い上が」るにつれ、「傷」も癒え、ニヒリズムにもあっさりと別れを告げる。
上に掲げた表題は、好きだったドラマの主題歌の1節だが、金儲けにしか興味はないと広言しながら、最後には必ず儲けそこなって無料の人助けになってしまうドラマの探偵たちは、俺たちは「天使」だからこれでいいのさ、と負け惜しみを言いながら「流れ弾」の痛みを笑い飛ばしていた。
一方、生存のための「金儲け」に専心する本作の主人公は、「流れ弾」など大したことなど無いさ、と痩せ我慢を張ることはできず、周囲からの「承認」や称賛を得なければ「心の傷」を恢復し得なかったようだ。
昭和の探偵ドラマにとって「金儲け」は、汚れた探偵がガーディアン・エンジェルを演じて人助けしてしまう「照れ隠し」の言い訳の如きものであったが、現代のガーディアン=盾の勇者の主人公にとっては、金銭と同時に「承認」や「威信」を調達する、即物的に功利的な行為であるらしい。
「流れ弾」の「痛み」は、今では噛み殺す「美学」の対象ではなく、補填されるべき「損」というわけなのだろう。
(いや、女の胸に刺さっている流れ弾は1つや2つどころではない、という話はとりあえず置いておいて)
主人公が、こうした「這い上がり」の苦難を経なければならないのも、本作の「冒険」が王国という社会内でのサバイバルと一体になっているからだが、「転生もの」の異世界としてはかなり珍しい設定だろう。
「転生」が要請されるのは「世界」の存亡的危機に対決するためであり、したがって、大抵は「社会」領域を飛び越して「世界」の根幹とじかに切り結ぶ展開が多い。
ちょうど、かつて流行していた「セカイ系」のように。
そうした、一足飛びに「世界」と接触して世界をコントロールする「異世界」ものの中で、「社会」内での「冒険」を設定していることが本作の特徴であり、主題であるといえる。
が、新機軸と感心しながら、この王国という「社会」がどうにも歪んで見えるのはどうしたことだろうか。
王国という「社会」どころか「世界」そのものの存亡がかかる筈の「危機」なのに、「勇者」に対処を一任し、国家的な補助の様子がない。
それほど重要な「勇者」に、裕福と見える「王国」の国家予算とは思えぬ少額の資金と、無いに等しい人員しか提供されない。
「世界」の破滅がかかっているはずなのに、特定の「勇者」に対し、政治的な思惑で理不尽な対応をとる「余裕」がある。
「社会」の底から「這い上がる」冒険を主題としながら、「異世界」であることを考慮しても不自然感のある王国=社会の設定は、「セカイ系」に倣って「シャカイ系」とでも表記したくなる。
しかし、まるで社会について未熟な若者が適当にでっち上げたかのような本作の「社会」は、それでも既視感がある。
これは、「社会」ではなく「会社」=「株式会社」ではないだろうか。
そう、上記のような不自然な「社会」での主人公の苦闘は、「株式会社」で無理なノルマと競争に晒されるドラマとみれば無理がない。
「社会」とみるから不自然なのであって、会社内で複数のプロジェクトが競争しているとみれば、途端に不自然感が減少する。
社会経験と言えば、確かに普通は会社勤めを想像する。
が、「株式会社」は、言うまでもなく「社会」の中の「経済」の中の、そのまた一要素に過ぎない。
ごく部分的な一要素の「株式会社」で「社会」を代表させる無理が、不自然感になって現れる。
株式会社の特徴は、「潰れても構わない」仕組みであるという事だ。
言い換えれば、潰れることを前提に制度設計されている。
ごく短期の市場の評価によって経営は査定され、損害が大きければ社長を交代して継続するし、どれほどの損金を抱えて倒産しようとも、株主は出資金以上の補填責任を負わず、原理として経営者も個人としての返済義務はない。
そう、究極的な責任は誰も取らずに「いつ潰れてもいい」仕様で出来ている。
だが、「国家」のような社会制度は、出自が異なる。
国家の大前提は、決して「潰れない」ことだ。
少なくとも、絶対に「潰れない」というタテマエを掲げなければ、貨幣を流通させることもできない。
「潰れない」ことを目指して、社会制度は設計されなければならない。
何が何でも「潰さない」ために、追う必要のない責任までを進んで追って支える人間を要所に配置することも、制度設計の重要な勘所になる。
本作の王国では、「国王」を始めこのような人物配置が存在していないことは明らかだ。
上記の、「国王」としては首をかしげる数々の態度や行動は、株式会社の「社長」の行動とすれば無理がない。
世界の「崩壊」を防ごうとしている筈の「異世界」で、「潰れるのが当たり前」の「株式会社」をモデル化した「社会」が機能不全の歪みを感じさせるのは当然というものだろう。
作者については何も知らないが、あたかも社会的な設定を立ち上げるにあたって、社会経験の不足を「株式会社」をモデル化することで補おうとしたかのようだが、未熟のせいばかりとは言えない。
何かといえば「民間の活力」と、社会的な組織として「株式会社」を唯一正当なモデルとして特権化する傾向は、この何十年か続いている。
「潰れない」を最優先するために非・営利的に設計されているインフラ、福祉や厚生、教育などなどの社会資本を、「株式会社」の理屈で運用すると「社会」はどう掘り崩されていくか、特に近年の大阪の視聴者であれば目撃済みだろう。
しかし、いまだに何の反省もなく「株式会社」特権化をさらに強行しようとしていることも、大阪の視聴者は知っている。
こうした情勢の中では、株式会社以外のモデルを思いつけなくとも、作者のせいばかりとは言えないだろう。
胸に刺さる「流れ弾」の痛みは無視をする痩せ我慢を貫くのではなく、取り返すべき「損」として金銭や承認をかき集める「冒険」が描かれるのも必然だろうか。
「社会」の中で「這い上が」る奮闘は魅力的な主題だが、肝心の「社会」の構築において、「株式会社」をなぞったのは効果的ではなかったようだ。
なまじ目の前にある「株式会社」を取り入れることで、「社会」に対する考察を怠ってしまったのか。
現実に存在するものを取り入れれば「リアル」になるというものではないのだろう。
引き合いに出した昭和の探偵ドラマは、現実の模写である「リアリズム」を捨て、マンガ・アニメ的な非リアリズム演出で作劇することで、ガーディアン・エンジェルの無償奉仕というオトギバナシを「リアル」に見せていた。
21世紀のアニメが実在の「会社」システムに引きずられて「リアル」さを失うのは、ちょっと皮肉なことだと思う。
余談だが、「サラリーマンの夢」として根強い人気のあるマンガ『課長 島耕作』シリーズについて、マンガ評論の界隈では「島耕作は仕事をしない」というのが定説らしい。
派閥に属さないと自称する中間管理職の島耕作が、様々な課題や圧力に直面したとき、解決方法は主に以下の3通りに集約されるのだという。
友人の探偵が非合法に入手した情報で、非合法に取引する。
派閥抗争の力学で問題人物が失脚し、圧力が自然消滅する。
親密になった女性が、なぜかキーパーソンに直接影響力を持つパイプの持ち主。
まともに「仕事」をしなくとも「解決」して出世するところが「サラリーマンの夢」の面目躍如というものだろうか。
本作21話の裁判での、女王による主人公の名誉回復は、まさにこの「島耕作メソッド」に則っている。
本作内の「王国」が「株式会社」モデルであるとの感を強くした。
{/netabare}