「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない(TVアニメ動画)」

総合得点
95.2
感想・評価
1844
棚に入れた
7813
ランキング
3
★★★★☆ 4.0 (1844)
物語
4.0
作画
4.0
声優
4.0
音楽
3.8
キャラ
4.0

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ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.6
物語 : 2.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

みんな、という病根

どこに青春「ブタ野郎」要素があるのか分からない。

第一エピソードのラストで初めて主人公が「ブタ野郎」呼ばわりされるが、いかにも唐突で無理やり感がある。
「野生のバニーガール」も同様で、設定からすれば水着姿でも着ぐるみでもよいところを、ただ単にキャッチーな言葉を使いたいだけのように見えてしまう。


{netabare}思春期症候群の「症状」は、一般的な青春の悩みを具象化したもので、主観的には同じような「症候群」を罹患している現実の若者の日常を具体化するものとして、巧みな設定だ。

「発病」の契機となるものは、自意識と周囲の評価とのギャップで、モデルやアイドルといった周囲の視線と評価にさらされる芸能人、友人とのSNSコミュニケーション、学内での評判、といったモチーフはまさしく現実世界の若者の「自意識」と「周囲」に重なり合う。

主観的な「症状」をアニメとして具体化=客観化する設定として、量子力学の観測者効果を導入しているが、むしろ「客観」とは主観の意識に映る現象の「確信体系」だとする現象学の「現実」理解の方が、ドラマを納得しやすい。

「自意識」と「現実」の摩擦によって駆動される各々のエピソードが、すべからく「自分の」ものの見方を変えて現実を「納得」して受け入れるという「解決」を見るのは、観測者効果よりも、主観的な「確信体系」の変化が「現実」を変えることになる現象学的理解に符合する。

そうした観方をすることによって、全体として、自作自演というか自己完結的というか、周囲と無関係に発生して収束する、タコツボ的な印象が鮮明になるようだ。


自意識と周囲の摩擦によって駆動されている物語であるはずのに、周囲=他者たちとの衝突が殆ど前面化せずにタコツボ的に収束する印象は、「摩擦」の解消が、周囲との対決ではなく「断絶」によって果たされることに起因しているからだ。

主人公がスマホを持たず、現代的なSNSコミュニケーションと断絶している人物であることが、それを象徴している。

登場キャラたちの年代では、周囲の他者は、おそらく「みんな」という言葉で意識されているだろう。
「みんな」の視線や評価を切断し、身近な、名前と顔を知る者たちとの関係を中心におくことで、「発症」した少女たちは「快癒」する。


本作が『俺ガイル』と比較されてしまうのは、現実=「みんな」と「戦う」のではなく、自分の見方の方を変化させて適応させてしまう方法を選択しているからだと思われる。

ネット上では「みんな」は支配的で、どのポータルサイトでも「みんなの◯◯」は溢れかえっている。
だが、「みんな」とはいったい誰のことなのだろう。

本作の各エピソードが、自閉的で微温的な印象に終始するのは、「発症」の圧力が「みんな」から押し付けられているのに、「みんな」の正体に切り込む視線が欠如しているためだ。
「みんな」を構成しているのは、「発症者」同様にいつ「発病」してもおかしくない個々の若者たちであるのに、「みんな」として集合化された瞬間に「圧力」に転換する不気味さと理不尽さ。
そこへ切り込む視線と対決への意志の不在が、「顔の見える」関係性に満足して自閉するタコツボ感を生じさせる。

いっそ「みんな」など無価値であると切り捨てるのが『俺ガイル』であるとすれば、自分を変えて「みんな」を温存する本作は、やはり比較されても仕方がないだろう。


「みんな」への同調圧力は、どことなく「国家」や「宗教」を連想させる。

生涯に一度も顔を合わせることのない、数100kmも離れた地域に住む人々を、同じ「国民」である「仲間」だと感じる意識は、人間という生物にとって自然なものではない。

国家の一員である国民として自己認識し、顔も知らない同胞とともに生きていると感じているのは、「国家」という観念を教育されているせいだ。
宗教が、見知らぬ信者を無条件で「同胞」とみなして手を差し伸べ、異教徒を無条件で「敵」とみなすのと同型的でもある。

国家や宗教には、それぞれに存在意義があると一応はみなされている。
では、名も知れぬ意見の集合である「みんな」に従属してしまう「気分」は、どんな存在意義があってのことなのか。
従わねばならないという「気分」は、どんな妥当性があるのか。

自然な感情である家族愛や郷土愛が「愛国心」という「観念」への入り口として作用するように、一見「みんな」に背を向けているように見える本作の「身近な人とのつながり」が、実は「みんな」という同調圧力の入り口になっているのではないかという反省が、本作にはない。


「みんな」は構成されるものだ。
しかし、変えることの出来ない運命のようなものとして、最初から「戦う」ことを放棄する態度は、ゼロ年代論壇を主導した著名な思想家が、一貫して「戦い」を嫌って冷笑していた影響であるかのようにみえる。

オタクカルチャーに強い影響力のあった思想家が、デモや政治闘争を徹底的に忌避する手段として、(闘争なんて)「アタマ悪いww」「ダサイww」と冷笑を浴びせた手法を真似て、なんでも冷笑すれば勝った気になれる錯覚が蔓延した。
しかし、この思想家が呼びかけた国政選挙で棄権の署名をする運動が、抵抗手段としてまったく無効であったように、ようするに「戦い」から逃げたい「気分」の表明にすぎない。

ビルドゥングスロマン=教養物語は、若者が現実社会を受け入れて適応してゆく様を描く物語だが、適応のためには規範との対決と闘争を経なければならない。
「発症者」が闘争せずに自発的に自己改造して社会適応することで、「みんな」は傷つくことなく温存する物語は、「現実」的ではあるが、フィクション的カタルシスから遠ざかるのは当然だろう。

社会適応する本作の「発症者」たちが、「自己変革」でそれを果たすのは、「みんな」との正面決戦の忌避が、反転して自分へ向かわざるを得ないとう必然なのだろうか。

敵への攻撃が反転して、自分の改造へと向かうマゾヒスティックな倒錯が「ブタ野郎」の意味するところ、というのは少しばかり気色の悪い想像かもしれない。

とりあず現代的であるとは思える。{/netabare}

投稿 : 2018/12/29
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サンキュー:

8

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