ossan_2014 さんの感想・評価
4.2
物語 : 3.5
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
青春は屍を越えて
同期の他作品で大藪春彦を思い出させられたせいか、こんな表題が思い浮かぶ(笑)
開始2分での超展開や、続く「叙事詩=SAGA」ではなく「佐賀」だった、というネタばらしで一気に出オチ感の漂うスタートだが、アイドルものに程よくゾンビネタを挟むギャグ演出は秀逸で、最後まで笑いながら視聴することができる。
が、なんとなく納まりの悪いモヤモヤが付きまとってもいるようで、しばらく考えてようやく思い至った。
{netabare}死んでも諦め切れないほどの想いや執着は、通常は「妄執」と呼ばれ、伝統的な日本仏教的な死生観では、捨て去るべき悪しき業であるとされてきた。
EDテーマ曲が、卒業式ソングのようでありながら、実は亡霊が成仏してゆく様を歌っているとも聞こえるように、ゾンビは「成仏」できない、「過程」の中に閉じ込められた存在であるともいえる。
そうした「悪」を、ゾンビや幽霊が「夢」や「日常の愉しさ」を追っていると変換することで異化効果を狙った物語が、本作のほかにも、近年はちらほらと見受けられる。
が、こうした「異化」は、単にちょっと変わった物語作りだけにはとどまらないようだ。
アニメやライトノベルでは、「生きることは素晴らしい」「人生にはかけがえのない価値がある」「青春という季節の特権的な美しさ」などなどの価値観を、自明な真実として疑わずに称揚する物語が数多い。
しかし、自我を持ったまま=自意識と感情を生前から継続したまま、自由に主体的に欲望を追い求める「ゾンビ」や「幽霊」は、そうした物語の全てを一気に無意味化してしまうものだ。
「死」んだ後でも「夢を追い求め」る「自由意思」を持った存在の前では、人「生」に何の意味付けをすることもできないだろう。
生の一回性という絶対的な制約を取り除いてしまえば、「夢」を追う「人生」の素晴らしさなど描き出すことは到底不可能だ。
一見「前向き」に「夢」を追うゾンビや、「自由意思」を持った「幽霊」は、こうした「生きることの素晴らしさ」を疑わない物語たちに(自覚的ではないにせよ)唾を吐きかけるものでもある。
「ゾンビもの」というジャンルの開始を告げたとされるジョージ・ロメロの代表作は、意志を失いショッピングモールに蝟集するゾンビによって消費社会にとりこまれた人間を表現したのだと言われているが、本作の、死んでいるのに「夢」を追い「続ける」アイドルたちは何を表現しているのだろうか。
こうした物語の狂言回しが、またしても「プロデューサー」であるのは示唆的かもしれない。
命令し、指示をすることが「仕事」とうそぶき、実行は他人に任せてタッチしない「プロデューサー」は、若者の仕事観に大きく影響しているばかりでなく、死んだ後まで「働かされる」事態を、「夢を応援してもらって」いると了解して歌い続けるアイドルを補完するものでもある。
「死ぬまで働かされた」アイドルが報道される現実を風刺しているとは思わないが、こうした「プロデューサー」と「アイドル」の関係が自然であると判断されて制作されているとしたら、視聴者の現実を見る「世界観」に何かが浸透している反映ではあるのかもしれない。
終幕の主人公が、「持っている」とか「持っていない」とか、バラエティ番組内の「専門用語」に過ぎない言葉で思考を支配されていることと無関係ではないだろう。
どうやら続きがありそうなラストを迎えたが、死という区切りもなく「夢」をかなえようとするゾンビたちが、ED曲のような「成仏」を迎える日は来るのだろうか。{/netabare}