カンタダ さんの感想・評価
3.4
物語 : 4.0
作画 : 3.0
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
ヒロイズムを満たしてくれる良作
実はこの作品、以前は登場人物の絵がどうしても受け付けず、長い間敬遠していたのだ。が、いろいろなアニメに触れるうちに、ついに気にならないほどに私も成長したその暁に、満を持して本作に挑んだ。
私は何事にも過大な期待は抱かないように心掛けている。期待は絶望の母という言葉もあるくらいだからだ。しかし、結論から言えば、なかなか楽しませてもらった。次回が気になる作品は多くないが、本作は最後まで先が気になってしまう良作だと言っていい。すくなくとも、次の朝が辛くなるくらいには。
さて、この作品の批評だが、SFのダークヒーロー作品、といったところか。悲劇を基調としているが、ときどき学園モノの展開もあって、重苦しくはない。全体にアニメ特有のご都合主義が散りばめられているが、それが主人公と周囲の登場人物との不幸を更に深める形で作品自体を面白くしているという、ご都合主義の良い手本を示している。
主人公はルルーシュだが、もうひとりの主人公として元親友のスザクがいる。二人はそれぞれの宿命から対極的敵対関係にある。スザクは贖罪意識から穏健な方法でもって日本の独立を目指す。対して、ルルーシュは復讐と妹の幸せのために急進的な方法でもって目的を遂げようとする。
どうせ最後には打ち解けて、仲間になるんだろうと思っていたが、なかなかそうはならないのが憎い展開だ。むしろ信念の相違や、事故による誤解から、どんどん拗れて憎悪にまで発展していく様子は楽しめる。
特筆すべきは、悲劇が降りかかるのがヒーローが死守すべきヒロイン的存在ばかりで、それが本作の悲劇性をますます深めている点だ。スザクはユーフェミアを失い、ルルーシュはシャーリーを失う。ヒロインはC.C.かカレンだろうと反論されるだろうが、シャーリーが間違いなくヒロインだ。
C.C.やカレンはヒロインたり得ない理由は、ルルーシュにとっての真の理解者ではないということだ。C.C.はルルーシュを理解し「共犯関係」ではあるが、同時に利害関係でもあるからだ。愛に利害を挟んではいけない。さらに彼女はルルーシュから一歩引いており、ある意味傍観者ですらある。そのためヒロインではない。
カレンはルルーシュに憧れ、理解しようと努めてはいるが、最後の最後までは踏み込めていない。それに対してシャーリーは自分の父親がルルーシュによって命を落としている。ルルーシュは仇敵であるはずだが、それすら乗り越えて彼のそばに駆け寄ろうとする。この時、彼女はヒロインたる資格を得ている。よって彼女がヒロインだ。
話を戻そう。
幸福や理想を求める切なる願いが、これでもかというほど裏切られ、打ちひしがれる二人のヒーロー。英雄にとって悲劇は必須の試練だということが脚本家はわかっているのだ。英雄らよ、存分にその身を焼く業火を味わうがいい!
そして最後にはすべての精算を、スザクと、特にルルーシュの二人が担う形で達成される。一方は自らの命を犠牲に捧げることで。他方はこれからの人生を捧げることで。拗れきった二人の関係の和解が、悲劇でもって為されるところもヒロイズムをくすぐってくれる。
そしてルルーシュは世界中の不幸と憎悪を一身に背負って死ぬ。彼のささやかな理想、すなわち、「より良き明日」、「未来」のために、冷たすぎるほどの鉄の意志でもってその身を犠牲にする。
世界中の無知な大衆は彼を「独裁者」「暴君」「魔王」と罵り、その死を喜び、歴史に彼の暴虐を、虚実取り混ぜ、これでもかというほど刻むだろう。そして嬉々として新たにゼロ(スザク)を英雄に祭り上げる。しかし、一握りの彼を知るものは、真の英雄の死とその思いに、熱い涙を零す。
ヒーローとして理想の死に方だと思うが、いかがだろう。英雄譚は英雄、その死でもって完成する。逆に、死ななければ真の英雄ではないと言っても過言ではない。私はこういうヒーロー劇が大好物だ。ヒロイズムを満たしたいのであれば、一見の価値ありだ。
おまけ
{netabare}
本作品ではリアリティーを演出するためだろうが、現実でもいまだ果たされていない「日本の独立」を物語の主軸に置いている。それをもって一部では『コードギアス』が人気を博したことを根拠に、日本の若者のナショナリズムが高まってきていると嘆いていたそうだ。が、話からは特にナショナリズムは感じることはなかった。
一例をあげると、ルルーシュがスザクに「日本人とは、民族とはなんだ?」と問う場面がある。さらにルルーシュは「言語か?土地か?血の繋がりか?」と問い詰める。が、スザクは日本人とは「心」だと答え、ルルーシュも同意する。
はたしてそうか。自分が日本人だという意識さえあれば、日本人だという理屈はわかる。が、その意識はなにから育まれるのかと言えば、言語であり、土地であり、血の繋がりからだ。さらには、文化、歴史、慣習、気候など、様々な要素から日本人の「心」は成り立っている。
作中では日本の国土、つまり故郷を捨てて、中華連邦の一部を租借した島へ移住し、日本の存続を図るわけだが、よくこれで黒の騎士団は納得できたものだ。国土を捨てて自治領へ移住する、と言われれば、真っ先に反対の声があがるはずだが、誰も異を唱えないところをみると、ナショナリズムなど皆無だと断言できる。
そもそもナショナルはNationの形容詞で、NationはNatio(ナティオ)を語源とする。Natioは「出産」や「生まれ」を意味する。つまり、ナショナリズムは生まれた土地、あるいは国によって育まれるもので、生まれた母なる国をあっさり捨てられるものにはナショナリズムは存在しない。
したがって、本作の人気から若者の右傾化などと心配する必要は、まったくない。脚本家が明確な国家観を持っていないことくらい、作品を通して理解できる。むしろ本作から窺われるのはユートピアニズムだ。
それを証明するまえに、まず本作で提示されている国家観を見てみよう。それは以下の5つだ。
①V.V.、シャルルとマリアンヌが画策した「嘘のない世界」の創生、別世界の建設
②シュナイゼルの、圧倒的破壊力を持つ天空要塞ダモクレスによる、世界秩序の構築
③暴君ルルーシュの世界征服による統一と、そこからの開放によるその後の世界平和の実現
④黒の騎士団という超国家的軍隊による、世界秩序の構築
⑤ユーフィリアが目指した、日本の独立を伴わない融和的統治
まず⑤から見ていこう。これはユーフィリアをアメリカに置き換えれば、すでに現実に実現している。たいへんリアリティーのある話だ。②は半ば現実でも実現している。シュナイゼルを連合国に、ダモクレスを核ミサイルに置き換えればわかるだろう。
④は現実で言えば国連軍に相当するのだろう。が、実際には各国、各人の利害や思惑が複雑に絡まりすぎて、まともに機能するとは考えられないし、現実にも、国連の理念通りに機能していない。これによって戦争が減ったという、確たる証拠もない。むしろ国連が介入することで紛争が長引き、余計な血が流れているという批判もあるくらいだ。
①は空想だから、論じるまでもない。そもそも「嘘のない世界」が平和だという保証はない。むしろ嘘がないせいで、争いが絶えなくなることだってありえる。国を持ち出すまでもなく、人が本音だけで話し合えばあっという間に喧嘩になることくらい、容易に想像できる。
最後に③だが、自然が真空を嫌うように、力も真空を嫌う。世界最強の国家ブリタニアが突然消えれば、その空いた穴を埋めようとEUと中華連邦が即座に戦争状態に入るだろう。さらに残存したブリタニアの兵力がそこに加わり、世界大戦の勃発は不可避だろう。
どうしても世界を統合したいのであれば、火星人にでも侵略してもらうほか手はないだろう。そうすれば、あるいは世界は一つにまとまるかもしれない。それでも血が流れることには変わりないが。
いずれにせよ、②と⑤以外は、実現が難しい、現実を無視した理想郷(ユートピア)の話なのだ。とはいえ、夢想するのは自由なので、批判する気はさらさらない。本作の魅力は、悲劇を通して、ヒロイズムを満足させてくれるところにある。
{/netabare}