fuushin さんの感想・評価
4.7
物語 : 5.0
作画 : 4.5
声優 : 5.0
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
カイイとカワイイの妖しい関係
★ はじめに。
{netabare}
夏の盛りの "黄昏どき" 。
翳(かざ)した指の隙間から、余裕綽々なカロリーを含んだ陽光が飛び込んでくる。
思わず目を細めると、屹立する入道雲の輪郭に金色の光彩が禍々しく蠢いている。
振り返ると、何本もの鉄床雲(かなとこぐも)が巨神兵のように打ち並んでいる。
膨れ上がった躯体はフレアが乱反射し、今か今かと出番を待ち焦がれている。
まるで演舞する舞踏家のパッションが舞台を支配する緊迫感に似ていようか。
どうやら、数年ぶりの舞台の設(しつら)えは準備万端に整いつつあるようだ。
ざわめく胸の鼓動を抑えながら、心がけるのはフェルマータだ。
全周に耳を聳(そばだ)てて、たった一人きりの観客となるのだ。
記憶の重い蓋を持ち上げて、ひとさしの余韻を再奏してみようか。
壮麗な神鈴の響きが、止まっていた時間を微かに震わせはじめる。
やがて純白のキャンバスに、凄まじい火焔色が燃え立ち始める。
数キロメートルにわたる巨大スクリーンに映し出されるのは "夕映え" だ。
突如として開演し、忽然として消え失せてゆく "神々の妖艶なパッション"
その姿は白装束に朱色の袴を履いた、あでやかな巫女舞の奉納にも見える。
夕映えと夕焼けが魅せるイリュージョン。
軽い眩暈さえ覚えるハレーション。
怖さ見たさのバイブレーション。
ひととせに茜さす "夕焼け" とは全く違う、夏の夕刻、わずかな時間にのみ演じられる360度の神舞台。
円形ステージの真ん中に一人佇めば、超然とした神気に気圧されてしまう。
なんなく心の扉が開放させられる。
精神の深淵まで覗きこまれているようだ。
懼れを抱かずにはいられない。
身の内に潜む疾(やま)しさに気づかずにはいられない。
やがて畏敬を深くして戒めに頭を垂れよう。
五体を慎みで包み込み、ついには涙に暮れて辞儀に至るだろう。
神々の饗宴の余韻を楽しむうちに、いつの間にか入り日陰が地面に溶け込んでいた。
ふと中空を見上げると、針金のような月が、夜の帳を静かに告げている。
ため息を長くついて、ようやく緊張を解きほぐせるタイミングだ。
非日常と恒常とが、近しく対称しあう世界に留まりすぎたのだろう。
どうやら心と体のディテールがいくらか不鮮明になっているようだ。
神々の心ばせにぼんやりとし、足元もおぼつかなくなった心情を、とりあえず、戦場ヶ原の言葉を借りて "蕩れ" としておこう。
プリミティブな体験、センシティブな感情は、たぶん "萌え" とは言わないだろうから。
心は不思議だ。
カイイに遭遇して心臓がギュッと縮んだり、カワイイを一目見て胸がキュン鳴きするのは、とても似ている。
もしかしたら、受容を司る脳の部位や、反応を引き出す領域が近いのかもしれない。
人が、心を芯柱にして、平衡(シンメトリー)を保ち、調和(ハーモニー)のバランスを取ろうとするのなら、カイイとカワイイは "相似性と対称性" があると言っていいだろうか。
人の脳と心臓、心と精神が、カイイとカワイイのそれぞれに、似通った反応を引き起こすのは、両者に共通するファクターがあるのかもしれない。
カワイイは魅力を最大限に振りまき、カイイは人の心を乗っ取ろうとする。
カイイは魔力を最大限に発揮し、カワイイは歓心で振り向かせようとする。
そう。カワイイは右手を掴み、カイイは左手を掴んで、綱引きするのだ。
全力で巻き込み、一心不乱に惹き入れ、取り込もうとするのだ。
彼らは、図々しくまかり通ることもあれば、気まずそうな顔つきで猫足立ちで歩くときもある。
数千年も前から、海千山千に生き抜いてきた強(したた)かモノであり、日本国内どころか世界中の海山川野(うみやまかわぬ)に進出してゆこうとする剛のモノでもある。
さらには、全人類の心を、まやかし、誑(たら)し込み、蕩(ほしいまま)にしていこうとするモンスターでもある。
気づけば、ピカチューが、キティちゃんが、ドラえもんが、すでに同じような振る舞いをしている。
子どもたちの心をノックアウトさせ、その両の手で抱きしめさせ、人目も憚らずに頬ずりさせているではないか。
さて、これから5人のヒロインを語ってみるとしよう。
はじめに断っておくけれど、彼女らみな一人っ子で、喪失感が半端ないのである。
{/netabare}
★ ひたぎクラブ、重シ蟹。
{netabare}
ギリシア神話のアトラスは、天の蒼穹(そうきゅう)を "支える者" である。
"耐える者"、"歯向かう者" とも言われている。
彼が地球を支える労苦と、少女が母を重荷に感じるのと、さしたる違いはないだろう。
喩え、アトラスの祖母が大地の女神ガイアだとしても。
勇者ヘラクレスも、冒険の先々で数多の怪物に出合う。
蟹を踏み潰し、ヒュドラに苦戦する。
迷える時は神々の知恵を借り、物語世界を駆け巡る。
そして誓いの約束を、ものの見事に果たすのだ。
彼はデミゴッド。半神である。父はゼウス、母はアルクメネという。
ゼウスの本妻ヘラは、嫉妬のあまり2匹の蛇を仕向け、ヘラクレスを殺そうともした。
その勇者に似た血が騒ぐのだろうか。
少年は、三歩も歩けば怪異と出会い、自ら懐へと飛び込んでいく。
その姿が神話のヒーローと重なって見えてしまう。
ヘラクレスの頭にアホ毛を探してみよう。
母親が戦場ヶ原にもたらしたもの、奪っていったものは大きい。
性への冒涜は、思春期特有のセクシュアリティーの形成を阻害させただろう。
母性の喪失は、娘気質(かたぎ)のメンタリティーの醸成に、過分の障りを生じさせただろう。
彼女が、求めずともなく何かを探し、話さずともせず何かを手離すことは、思春期を、ひとり極地で過ごすようなものだ。
いかに堅忍不抜に身を置くとしても、秘密の開陳には耐えられない乙女心である。
ツンデレと公言してツンドラと評されたなら、隠忍自重の毒舌もかたなしである。
彼女は大胆な反撃に転じ、しなやかな肢体を魅せつけて、少年の恥じらう顔を睨(ねめ)つける。
何と場違いで罰当たりな痛さだろう。
ホチキスのそれが実にカワイイものに見えるじゃないか。
メンヘラ処女の傍若無人、童貞男子を恣(ほしいまま)にして、何とも目のやり場に困る "蕩れ" ざまなのである。
躊躇なく刃(やいば)を突きだす姿も、神前で低頭し贖罪を求める姿も、間違いなく同じ戦場ヶ原である。
孤軍奮闘どころか孤立無援だった彼女の痛みは、八九、寺・・失礼。ホチキス針のそれとは比較にならないものだろう。
孤独から生じる痛みを、まるごと受け止めたのは、無頼な漢たちであった。
2人は、決して邪険に、あるいは瑣末(さまつ)に扱うことはしなかった。
阿良々木にとっては "同類相憐れむ" である。
共にカイイに出会い、関わっている者同士である。
相見たがうに、いささかの躊躇(ためら)いも必要はなかったのだろう。
戦場ヶ原の身の内で、数多の核心が混じりあっている。
普通ではいられなかった、過去の重荷と曲折。
普通であることを諦めた、昨日までの辛酸と苦渋。
普通に戻るための、今夜の覚悟と試練。
未来に向けて、普通を取り戻していく努力と試行。
たくさんの思いを、一つに束ねて結び、濃縮したウケヒを交わすのだ。
蟹は "茹で" だが、ひたぎは "蕩れ" だ。
湯に交われば "赤く" なる。
戦場ヶ原の "赤誠" は、過去のトラウマを蕩(とら)かし、母への悔恨を蕩(あら)いながし、罪の重みを蕩(うご)かすことである。
阿良々木の "善意" は、彼女の心張りを蕩(とろ)かし、文房具の武具鎧を蕩(はら)い落とし、赦しの告白を赤裸々にさせるのだ。
戦場ヶ原の心は、そんな彼に 頬をホンノリ "蕩れ" に染める。
それでいながらその口で、赤っ恥など気に留めず、赤札の付いた行き遅れと宣(のたま)う。
大安売りもへっちゃらな、メンヘラ処女と言い放つのだ。
"流行るといいな、戦場ヶ原。蕩れ" 。
斜に構えた "ツンドラな返答" ではあったけれども、"おまえの願いが叶うと良いな。" と、彼女に寄り添う温かみのある言葉であった。
"おまえの悪しき記憶と、癖のある毒舌が、早々に蕩れて、流れて消えて行けば良いな。" という彼の "熱い希(ねが)い" も秘められていたのかもしれない。
でも、ジツは、阿良々木の "萌え" の対象は八九寺なのだ。アリャリャギさん!!
夏の夜空のもと、2人は天を仰ぐ。
瞳に映るデネブとアルタイルに、自分自身を丸ごと受け止めてくれた2人の漢の姿を重ねているのだろう。
ひと際の輝きを見せるスピカは、全天の羅針盤の様だ。
戦場ヶ原と歩む道が、きっと少年には見えているのだろう。
どうやら、ひたぎクラブの物語も、麗しく化けたようである。
ところで、蟹はハサミで赤い糸も結べるらしい。潰されずにすんだ恩返しのつもり?
なかなかどうして、見かけによらず、器用で心優しい神であった。
存外にも、不器用そうな生き方をしているわりには、潰されずにすんだ初デート!
まずまずどうやら、いい線いってる阿良々木暦なのであった。
第1部、了。
{/netabare}
★ まよいマイマイ、迷ヒ牛。
{netabare}
走れメロスは、小学生の必読図書だったと思う。
肉体と精神の鬩(せめ)ぎあい。時間と距離がすれ違う軋み。
猜疑心と信義の狭間にゆれたざわめきが、未だ鮮やかに思い出される。
そして、約束を違えるコトは、良心を穢すモノだと知ったのだった。
幼い少女に理解できることは、疎遠になった母が自分のことをどう思うかではなく、自分が知っているはずの母の笑顔が、手繰り寄せられないほどに薄まって消えてしまうことへの不安だった。
彼女は、矢も楯もたまらず、家を飛び出したのだろうか。
大きなリュックをものともせず、勇気と元気を背負って母が住んでいるという場所へ。
少女は、必ず行けると心に刻んだのだ。その約束は果たされるまで続くのだ。
渡るに叶わなかった横断歩道。いきなりルートは閉ざされてしまう。
たどりたい道すじは、知らぬ間に取り外され、組み換えられていく。
時は牛の歩みの先には行けず、二本の針は錆びついたように回らない。
適(かな)う人はみな一様にカタツムリであり、行き着けぬ旅路にさまよいつづける呉越同舟である。
能(あた)う人は、みな行きつく目当てのある人であり、目の前を、目もくれずに一目散に通り過ぎていく。
だから少女も気に留めない。
声もかけない。誰にも頼まない。
それは、だれにも敵(かな)えられない願いなのだ。
左へぐるぐる。右に舞い舞い。
出口に出んでん。声は無視むし。
迷子の頭はどこを向く。
角出せ、噛みつけ、けむに巻け。
少女がカイイになったのではない。
大人が、街が、彼女をカイイにさせてしまったのだ。
彼女の持ち味は、無邪気な気どりのなかに手練れたもじりを織り伏せて繰り出す台詞回しにある。
物怖じしない口ぶりは、童女には似つかない丁々発止。
大人ぶった語りと掛け合いは、ボケを見事に演じる達人技だ。
それでも、口上の端々には、長く助けを拒んできた切ない気丈夫さが滲んでいる。
その間合いには、母の家を見つけられない口惜しさが潜んでいる。
少女をこの世に繋ぎとめていたのは、過去を取り戻すことでも、薄れていく母への憧憬でもなかっただろう。
偏(ひとえ)に、歩き終えられる場所を探し求め、只管にその場所にたどり着き、唯々「ただいま」と大きな声で終結させたかったのだ。
それこそが、唯一、メビウスの円環を切り離す決着の方法。
上がれないゲームの道筋に「上がり」を作ることが、八九寺の願いであった。
とどのつまり、小学生が「行ってまいります」と言えば、「ただいま戻りました」で終わるのがルーチンワークなのである。
さて、カワイイカイイの童女に寄り添うことは阿良々木には(彼女にも)正解らしい。カワイそうに思うなら尚更のことである。
ところが、その想いの実相は、彼のいかにも若者らしい実直な態度であった。
"義" を立てねば、正義でない。・・・妹か!
"理" を立てねば、道理に悖(もと)る。・・・羽川か!
"情" を立てねば、薄情と誹(そし)られる。・・・忍野か!
迷子の八九寺を、阿良々木は、心の外には捨ててはおけない。
孤立のひたぎは、彼を、心の中から指差ししたのだ。 I LOVE YOU.
もうどうしたって、目には見はなせない、耳には聞き捨てならない、口には黙っていられない、手はつながずにはいられない。足を合わせずにはいられない。
"愛しさ" とは、そういうものなのだろう。
そんな彼らだからかだろうか。それぞれにステキなエンディングが待っていた。
泣き落としの大団円だった。
さておき、本作では、阿良々木、戦場ヶ原、忍野の "胸に手を置くような配慮" が見られた。
が、阿良々木は "胸に手を置きたい想い" にも駆られたようだ。
小学生には全く "噴飯もの" である。
とまれかくまれ、八九寺真宵の姿が戦場ヶ原に見えなかったのは幸いである。
阿良々木の狼藉は露見せず、視聴者もホッとして撫で下ろしたことだろう。
その胸はあたたかさで・・・膨らんでいただろうか。
第2部、了。
{/netabare}
★ するがモンキー、レイニーデビル。
{netabare}
依存症と中毒性。
アルコールと麻薬は、当事者のみならず周辺の関係者をも苦しめる。
その患いは、恋煩いよりも強力なのだろうか。
そこに猿ノ手の暴力性が加わったらどうだろう。
改題しよう。するがジャンキーだ。
誰でも現実から逃れたくなるときがある。
でも、自分を負け犬と見做(な)すのもイヤだ。
喩え、暴力で他人を蹴落とすことに、なっても・・・。
最初は、神原駿河は縋(すが)ったのだ。亡き母の遺品に。
それを無下にすることは、あまりに無粋というものだ。
問題は、彼女が挿(す)げ替えたことだ。猿の手のせいにして。
心の闇を覆い隠すために、明朗快活で "いること" が彼女の選択なのだ。
自分とは、自らを分かろうと努める者ではあるけれど、ときに無理矢理に分けようとバカをしたり、問答無用に分けられてしまう不条理さもある。
それらは人の生きる性(さが)であり、やむをえない浮世の事情でもある。
でも、情念の世界というものは、幾重にも折り重なりなり、不断に連続していて、容易くは割り切れないし、無理やりでも断ち切れない。
神原が、戦場ヶ原に向ける気持ちを暴力で得ようとするなら、尚更やりきれなさを感じるのかもしれない。
同性への親愛は、ともすれば誤解され、禁忌、あるいは背徳者として扱われる。
長きに亘る歴史的、文化的背景の枠組み。
堅固なまでの宗教的、道徳的観念の縛り。
しかし、男尊女卑や、男性優位社会の国策の一部による出産奨励が、女性に "課せられていた" ことも見逃すべきではないだろう。
同性愛に近しい概念に "騎士道" がある。
英国に発祥した騎士道は、女王陛下に仕え、女性を尊ぶ気概に溢れている。
時代が下り、大英帝国時代の gentlemanship とのリンクによって、細かくコード化されるに至り、エロスからエスコートへ、ハントからナイトへ、モラリティからロイヤルティへと、さらに昇華されていく。
英国紳士たるもの、頂点たる女王陛下にかしずく者として "作られる" のだ。
ところが、特異な男性社会のダークサイドに目を移せば、漁色が秘匿され、若色が重用されていた。
いや、今も "いる" と言うべきか。
ここに、男のズルがしこいダブルスタンダードがあるのだ。
男であろうが女であろうが、限定されたセクシャリティーではなく、神に仕えようが悪魔に頼ろうが、善悪のモラルでもなく、狭く中性であり広く両性でありたいと想うのは、根源的なヒューマニティーの発露なのかもしれない。
それにつけても、レイニーデビルには、人類特有の複雑な "陰陽と表裏のダブルトーク" に順応するのは、てんから無理というものである。
所詮は能わざる猿。お山の大将になるためには、蹴落とす以外の方法を知らない "痴れモノ" である。
それゆえに、神原の "憧れ=吾焦がれ" のほむらを、煉獄に燃えあがる紅蓮の炎として支配し取り扱った。
純真な憧憬や、恋慕の祈りを、略奪愛へと挿(す)げ替え、憎悪と排除と暴力に置きかえたのである。
先輩らのストレングス(強み)は何か。
それは、"蕩れ" である。
"萌え" を超える、しなやかでたおやかな心情。
その細やかな温かさこそが、深紅の薔薇、純白の百合を蕩(とろ)けさせる花器になるのだ。
その実相は、他者の力を借りること、自力で助かる術を体得することである。
ストレングスは、阿良々木の "吸血鬼性" や、忍野の "技術・知性" にもあっただろうけれど、最適解は、戦場ヶ原の "当事者性" だった。
忍野はそれに気づいていたのであろう。
当事者にしか解決し得ない問題もあるのだ。
戦場ヶ原は言う。「待たせたわね」と。
神原への拒否は、彼女の本意ではなかったし、仕方のないことでもあったけれど、戦場ヶ原が阿良々木という器を得たからこそ、神原を受け止める器も手に入れられたのであろう。
戦場ヶ原の凍えた心は、阿良々木の抱擁によって恋に蕩れ、神原を受け入れる戦場ヶ原の抱擁も、後輩への友愛の蕩れなのだ。
ツンドラはいつのまにかジャングルとなり、粗暴な野猿も蕩(とろ)かすのである。
忍野は言う。「助けない。」と。
助けとは、"足す気" である。
"自分には足らないものがあるという気づき" であり、その "気持ちへの自覚" である。
自分が覚ることによって、「人は勝手に助かる」のだろう。
覚りとは、"差・取り" であり、その実相は "勝(すぐ)れた手による支援" と置き換えられる。
ただし、闇雲に手を振り回しても、労苦ばかりが嵩んでしまう。
だから、忍野はその気づきのためには、「力を貸す」のである。
「力」の言霊は「智・化・楽」と解義でき "智慧は生き方を楽へと変化させる" のニュアンスを持っている。
未知の世界に触れ、つまづいて俯き、怖じ気に苛まれるとき、自力に頼り我力に喘ぐだけではなく、智慧者 ≒ 専門家に力を借りることは "優れた手法≒手順" でもある。
そうした「力を貸して」くれる者との "出会いと結縁(けちえん)" が、何よりも肝要なのだ。
それを学んだ阿良々木も "先達の一人" であり、だからヴァルハラコンビを誘(いざな)ったのだろう。
「待っていたよ、阿良々木くん」
少女らは、忍野が待ち構えるフロアへ、大人への階段を上がる。
忍野のカタリは、教室では学べない "文殊の知恵" とも言えるだろう。
仏性の他力とは、他から授かる智慧と乗り越え方のことであり、それを "宝" と呼ぶのである。
神原にとっての宝とは、忍野の一報を受けた戦場ヶ原であった。
彼女は、阿良々木を突き放しながらも神原から守り、レイニーデビルを追い詰めて神原を救った。
神原は、当事者として再び受け止めてもらえたことで、人間関係の新しい立ち位置を手に入れられたのである。
人は自分で助かる(自助)。
時には、親兄弟姉妹から力を貸してもらえる(互助)。
知人や友人、世間や地域も(共助)だし、自治体や国もそうだ(公助)。
これらが世の仕組みであり、近江商人に言う「三方よし(≒ 我良し、人善し、世間義し)」である。
この仕組みがレイニーデビルには理解できないのだ。
彼の能力は「我止(よ)し≒我見」の発露に留まるのみであり、普遍的な信愛は端(はな)から排除するのである。
排除を語るモノは、LGBTの人たちや社会的少数者が求める個の価値観を受け入れないし、言葉の暴力を平気で使う。
たとえ日の光が世界をあまねく照らしても、温かい "蕩れ" を感じ取ろうとはしてくれないモノなのだろう。
片や、阿良々木は完全に当て馬だった。
彼は、悪魔と、悪魔のようなヴァルハラの業腹に付き合わされただけであった。
3人寄れば悶愁のエッチ。
げに恐ろしき色恋沙汰であった。
豈図(あにはか)らんや、レイニーデビルでさえも手玉に取られ、翻弄させられて、エテ勝手に契約を取り下げるしかなくなるのだ。
ところで、レインコートのフードに隠れていた神原は、どんな表情をしていたのだろうか。"橋姫" でとどまっていたのだろうか。ぜひ想像してみていただきたい。
第3部、了。
{/netabare}
★ なでこスネイク、蛇切縄。
{netabare}
コホン。長文お疲れ様です。ペコリ。
さて、"女性と蛇" とくれば、ギリシア神話におけるメデューサを思い出す。
彼女は恐ろしい悍(おぞ)ましさと邪悪極まる化け物として描かれているけれど、本当は "強い意志を持った女性" という象意を持っている。
逆怨みや、振られた腹癒せで当て擦りをするその所業に、睨みを利かし、悪だくみを未然に防ぐという、まるで警備会社のようなアリガタイ "女神さま" と言ったら、印象も少しは変わるだろうか。
メデューサの髪が蛇なのは、人間の淺ましい欲望(蛇の象意でもある)を戒めるためのものであって、"毒を以って毒を制す" という働きである。
即ち、情(髪の象意でもある)をもって微に入り細に入り、力を貸してくれるのがメデューサの本性であり本分なのである。
メデューサの目を見ると石にされてしまうという、まことしなやかな物語がある。
だが、この謂れには、大きな齟齬(そご)がある。
実は、見られる人間の側の意思が、端から欲望に囚われ、元々我執に縛られ、最初から竦(すく)んで固まってしまっているのである。
メデューサに言わせれば、駿河問いをするまでもなく、ひと睨みしたら、自分で勝手に石になっちゃったのよねぇ?というのが本意本筋であろう。
長きにわたり誤解され、とんでもなく世間受けがよろしくないので、ちびっと彼女を擁護してみたくなった。
今後は、メデューサ=千石のかわいさ、と見立ててもらえれば望外の喜びである。
さて、本作はとてもデリケートなテーマを扱っている。
丑三つまいりの藁人形と共通するもので、あきらかに "第三者を貶めようとするもの" である。
個人的には、本作のようなテーマは好きではない。しかし、ひと言申し述べておきたい。
千石は、とびきりカワイイ容姿である。これには論を待たないところだろう。
ところで、後述ではあるけれど、カワイイは極めて主観的に使用される言葉である。
どういうことかというと、簡単に言えば、評価する側の主観が日替わりで盛り込まれるのだ。
「あの子、昨日はなんでかちょっとカワイかったよねー」であり、
「あの子、今日はなんだかわかンないけどカワイクナーイ」である。
本作のカイイの怖さのポイントはここにある。
今般の自己承認欲求のエネルギッシュなことを鑑みれば、かつての自己中世代を突き抜けている。
中心すら蕩(とろ)けてなくなり、ディテールや見てくれを重視する偏向に寄りすぎていると感じてしまう。
自己中なら、"まだ芯がある" と言えるのかもしれないが、他人の視線や言葉、ひいては指先のポチっとに一喜一憂するなら、今や、自我の錬成など望むべくもないのかもしれぬ。
また、これらを扱う電子媒体も多く、間口も広いので、ややもするとなんとなく文化的に見えてしまうのかもしれない。
また、流行に乗り遅れたくないと思ってしまうのも致し方ないところである。
でも、だ。
その欲求をコントロールする仕組み、即ち、メデューサがどこにも存在していないので、千石のように悪意を向けられる=蛇を遣わされると、防ぐことが難しいのだ。
本作は、横恋慕から、あらぬ当て馬、恋敵にさせられた、良からぬいびりの物語である。
千石自身には何の責任があるわけでもなく、完全な言い掛りである。
"人の不幸は蜜の味" とは昔に聞いた話だが、これは今では甘すぎる。
今どきは、全く甘くはない "人の不幸には秘密の毒針" であろう。
仕込みに気づかずに口にしたなら血反吐を吐いてのたうち回ることになる。
この瞬間も、どこかの誰かが、千石と同じ苦しみを請け負わされているのだろうか。
その実相の第一は、嫉(そね)み、妬(ねた)み、やっかみであり、まとめれば "妬きもち" である。
実相の第二は、いじり、イジメ、嫌がらせの類である。
これは、すでに体感できうる暴力、虐待である。
犯罪的行為となりうるし、民事賠償の責めを負わせる判決も出ている。
妬きもちは、3~4才の発達にみられる、ささやかなふくれっ面が初発であろうけれど、今どきのエゴイズムは、臆面もなく強面(こわもて)を露わに見せているし、見せつけている。
誰もかれもが、ふくれっ面ならぬ、"般若の面" を顔につけている。
せめて、カワイイ子ぶるのは成人式くらいまでにして、その後は脇役として大人を振る舞ってみよう。
シテ(主役)は、カワイ気(げ)のある大人だ。
おとな気ない大人はカワイ気もない痛いオトナだ。
いつまでもカワイイを演じていたらカワイクナイ。
カワイイの語源には「気の毒で、痛々しくて見ていられない」があるのだから。
千石は、阿良々木の前では、精一杯カワイイ仕草で魅せようと振る舞う。
学校では見せていないのだろうが、魅せられる男子もいれば、見せつけられていると思い込む女子もいるだろう。
その子らのこころ根には、地を這う蛇の舌のようにチロチロと青白いほむらが立っている。
根底のネクラな世界には鬱屈した熾火があり、蠱惑と嫉妬を媒体にして、冷え切ったエネルギーを間断なく発生させる。
これを糧にして、想念は霊体化して次第に成長し、やがては鋭い牙さえも持つようになるのだ。
誰もが意識するともしないとも、千石の知らないところで、カイイだけが成長していく。
これが生霊の正体である。
想像するだけで冷気に中てられ、背筋が凍り、肝を冷やすのだ。
何故、そうなるのかは一目瞭然である。
熾火の鎮め方、和らげ方、治め方を、知らないから、分からないからである。
恋に未練があるうちは、心はコロコロ転がるどころか、荒ぶる阿修羅となり、三面六臂の異形を身に宿らせるのだ。
その足元で、モノノケが跋扈する。
無いもの強請(ねだ)り、得られないことの不満、失うことへの懼れ、自分の境遇への嫌悪というモノノケだ。
而してその負のエネルギーを外に向けてしまうとき、カイイを遣うのだ。
カイイの正体は身の内の阿修羅なのに。
阿修羅像をようく見てほしい。彼は泣いているはずだ。
"負" のエネルギーの出どころは、五臓六腑の "腑"である。
胃腸あたりを指す言葉で、肚とも、腹とも言う。
もともとグニャグニャしている消化管だから、変に捻(よじ)れてこんがらがってしまう前に、何度も捻(ひね)り戻し、捩(ねじ)返し、緩みがでないように固く締め上げ、括りあげるのが上策だ。ちびっと腹筋でもしてみよう。
捻(よじ)るは、「法則を無視して、本来なら曲がらない方向へ曲げる。捩(ねじ)れたものを、安直に、何の気なしに、更に複雑にしてしまう」の意であり、どちらかというと、歪みや違(たが)え、拗(こじ)れや陳(ひ)ねたモノといういささかナーバスな印象である。古語に "捩(よじ)りすぢり" を見かけた。
捩(ねじ)るは、「両方の手で力を入れたり緩めたり、手間と時間をかけて、適した状態にするために工夫を凝らす」のニュアンスである。こちらは、正す、適正化するという印象である。"ねじり鉢巻き" と言えば合点がいくだろうか。
捻(ひね)るは、頭をひねる、考えを巡らすといった意味合いを含み、解決や結果を導きだすために力を入れる、知恵を使うという感じである。"蛇口をひねる" と美味しい水が飲めるのだ。
かつて、腹切りという作法があった。
拗れた事情を、どのように捻(ひね)り返しても、どうにも捩(ねじ)返すことの叶わぬ心情ゆえに、断腸の念で無理くり思いの丈を切り離すという "ケジメ" の作法である。
恨みつらみで化け物に陥りそうになる気持ちを、自ら締め上げ、切り離すから、ケジメというのであろうか。
実を言うと、ここまでは前ふりである。(重ね重ね、ペコリペコリ)。
ポイントは、蛇は "忠犬ハチ公ではない" ことである。
依願者の心に未練がなくなり、あるいは、新しい恋を得たからといって、蛇に「戻って来い」とは言わないだろう。
そんなことはとっくに忘れてしまっているのだから。
呼ばれた蛇だって、そもそも聞く耳がない。
ましてや、忠義心なぞカケラもあるはずもない。
大義も名分も、意義や理由など、どこ吹く風である。
蛇の習性、本能のままに、執念深く、執拗に、丸呑みするまで絡みつくのだ。
忍野はいう。「人を呪わば穴二つ」と。
これがいちばん恐ろしい。
深夜、どんなに人目を避け、人知れず山奥に踏み入っても無駄である。
全ては因果応報であり、因縁はブーメランのように巡るからである。
昔むかし、老子という人がいた。たしか25世紀くらい前の人である。
その老子が、「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉を残している。
「てんもうかいかい、そにしてもらさず」と読む。
関心のある方は検索していただきたいと思う。
カイイとは、言ってみれば、バーチャルな存在である。
実体はないし、目にも映らないモノノケである。
今は、ネットがその主役を取って代わり、舞台を提供している、とも言えるだろう。
第三者の悪意は安易に書き込まれ、エテ勝手に撒き散らかされ、執拗に絡みついてくる。
さらに、第四者のその場限りの嘲笑、第五者の面白半分の冷笑をエネルギーとして吸収し巨大化する。
何度でも攻撃を仕掛けて翻弄し、嬲者(なぶりもの)にするのだ。
なでこスネイクは、これを教えている。
本作は、霊界の実相を露わにしているが、それは警鐘でもある。
カイイは人の想念に宿るものだが、言葉にもネットにも放ってはならないのだ。
心にメデューサを持とう。
第4部、了。
{/netabare}
★ つばさキャット、障リ猫。
{netabare}
羽川翼と羽川家を今風の概念で捉えると、 "ステップファミリー" といえるだろう。
ステップファミリーとは "親のどちらか、あるいはそれぞれにお子さんがいて、初婚、再婚、再々婚などして、新たに築かれる家族" を指す。
ところが、羽川の場合は、そのいずれにも当たらない。当てはまらない。当たり前ではない。
羽川には、血縁によるオリジンも、ルーツも、ベースすらもない。
辛うじて、"家" という箱モノと、 "家族" という共同体はある。
あるけれども、極めて脆弱であり、養護・養育において様々な困難を抱えているだろうことが容易に推察される。
彼女のことをどう呼べばいいのだろう。
身を寄せる人や場所が無いとき "身無し子" という。
ところが彼女には家がある。義理の両親がいる。
だから彼女は "みなしご" ではない。
では、孤児(こじ)ではどうだろう。
孤児とは、死別や離別、行方不明などで、両親と絶縁となったときにそう呼ぶ。
だから彼女のことを孤児と呼ぶことができるのかもしれない。
でも、形だけとはいえ、義理の両親が、家が "有る" ときは、孤児とは呼びにくい。
だから、彼女は "孤児" でもない。
"里親" という制度から彼女を見たらどうだろう。
子どもと養育者とのあいだに血縁関係はないから、羽川の立場に近いように見える。
しかしこの場合、子どもは "望まれて" 引き取られるし、"愛情を注がれて" 養育されるのだ。
やはり、近いようで遠い。
"居候" と言ってしまえば、あまりに他人行儀な言い方であろう。
しかし、心情的には一番近いような気もする。
ということで、羽川は "ステップファミリー" にカテゴライズされるのだろう。
羽川家のありようが、彼女の人格のなかにカイイを生み出している。
人格は "仁と核" に字解される。
仁とは愛であり、核とは心情・ハートである。
羽川は、「何でもは知らない」と言う。
「何でも」が、世間一般の、人並な幸せとか、平凡な団らんという意味合いだったなら、それを「知らない」と言えてしまえる彼女の心情は、いったいどれほどの高さの壁に囲まれ、どれほどの深い闇に閉ざされているのだろう。
声の届く近しさにあっても、心の届かない道のりを、ひとり遠回りして散歩する羽川なのだ。
羽川は、「知ってることだけ」とも言う。
もしそのことが、義理の親によって虐げられてきた受忍と我慢のプロセスを意味しているなら、いったいどれほどの艱難辛苦とストレスに身を窶(やつ)してきたのだろう。
心の拠り所とする、愛し愛されるという絆の元糸が、元から切れている羽川なのである。
羽川家は、世間向けには猫を被り、家の中で頬かむりし、懐手に暴力を肯定し、家族ごっこという閉じた戦争をしている。
つばさキャットは、親の顔をした他人からの虐待のストーリーに他ならない。
同時に、愛を知らず、幸せの作り方が分からず、恋する気持ちにも向き合えない羽川翼と、彼女の本音を代弁し、助けを求める真正の姿で現われ出たブラック羽川の自虐の物語でもあるのだ。
そんな理不尽な環境で育ってきた羽川は、知性と博愛という "思想" で武装している。
彼女は、「知ってること」の範囲内でなら、そのストレングスを発揮し体現できる。
世間体に世間ずれしないよう、凍りついた家庭の冷気が世間に漏れ出ないよう、 "委員長のなかの委員長" と評されても "普通" と称して振る舞うのだ。
哀しく思えるのは、「許し、許される」という泥くさい緩衝地帯が、羽川家には存在していないことである。
相手を許し、受容することは、愛情が無ければできることではない。
愛情が無くてもできるのは、ギブアンドテイクか、損得勘定を働かせるとき、あるいは、つかず離れずであろう。
でも、それらは、許容とは全く別物になってしまう。
今風なら "無視" 、昔風なら "義理" と言うものだろうか。
無視や義理が昂じれば、家族の絆は細まり、家庭の潤いは枯渇していく。
人を繋げたり括ったりするものは、縁である。
ステップファミリーだって一つの結縁のカタチである。
縁を太くするには、お互いに強い力で、丁寧に縒り合わさなければならないのだ。
羽川が心を許すのは阿良々木だけのように演出される。
ぎこちない素振りをする素振りは、しかしとても素直で、恋する乙女のその素振りの羽川だ。
二人の時間を過ごすとき、意味ありげに視線を投げかけ、屈託のない笑みを浮かべる羽川だ。
彼の一言一句にじっと耳を傾けて、彼への一言一言に親密以上の思いを滲ませる羽川なのだ。
その近さは、しかし、羽川の理知では届かない、届かせようのない、知らない自分の姿でもある。
その瞬間は、まるごと彼への真っ直ぐな想いに他ならないのに、それでも、彼女が被り続けてきた猫と、飼いならしてきた猫が、羽川の真心に爪を立て、その一歩めを踏みとどまらせてしまうのだ。
羽川は、知ってることだけしか阿良々木に表現できない。
猫かぶりの生き方が、彼に届かせたい想いを遠く霞ませる。
真っ直ぐすぎる理知が、伝えたい恋心を縛り付けて凍らせてしまう。
培ってきた処世術が、彼女の内面を白と黒の二つに分離させていく。
その姿が、だれよりも痛々しく見えてしまう。
羽川が進学しないのは、自身が培ってきた知性への懐疑なのかもしれない。
あるいは、忌まわしい過去を、実学をもって見直し、新たな経験 "知" を体得しようとする彼女自身へのレジスタンスなのかもしれない。
片恋煩いや横恋慕は、そんなふうに何もかも投げ出して逃避行するほどの重病なのだろう。
とは言う私も、伴侶にカワイイと言いたい素振りの素振りにトライリトライしている重病人なのである。
第5部、了。
{/netabare}
★ おまけ。
{netabare}
さて、カイイもカワイイも古式ゆかしいジャパネスク。
何やら謂れもありそうな。ここらでちびっと箸休めしよう。ハ~。
カワイイのルーツは、"顔・映(かほ・は)ゆし" である。
12世紀頃、貴人に対して顔向けしにくいという気恥ずかしさが語源となっている。
13世紀頃には、女性や子どもなど弱者への憐みの気持ちから発した情愛の念(いたいたしさ、気の毒さ)として使用され、16世紀頃には、愛らしいという現在の概念になったようだ。
もしかしたら、江戸っ子が、粋に任せて色を付けたのかもしれない。
言葉は単純化される傾向があるし、16世紀は日本が上を下への大騒ぎの時代だった。
例えば、日本橋の読み名には、"にほんばし" と "にっぽんばし" の二つがある。
無論、東京読みなら"にほんばし"。"にっぽんばし" は大阪に実在する。
どうやら江戸っ子が "にっぽんばし" を端折ったらしい。チコちゃんが言っていたヨ。
21世紀。カワイイは、使い手の主観的な親近感さえ持ち得れば、目上から、年配者、動植物、小物や車両にまで広く適用範囲が及んでいる。
この変わりよう。1000年前のカイイも、人も、大いに驚き、唖然としているかもしれない。
「月がきれい」とは言うけれど、「月がカワイイ」とは流石(さすが)に聞かれない。
ウサギやカニとは切っても切れない間柄だし、 "君" の面影を映しだす必須のアイテム。
数多の和歌にも主役級で詠まれているし、夏目漱石の逸話にも、I love you. とある。
日本人にとって、月は身近なもの。心を通わすに趣味趣向の王道だ。
それでもカワイイと言わないのは、遠い西洋から伝わってきた人狼や吸血鬼をイメージしてしまうからだろうか。
つくづく忍だって「カワイイね!」ってたくさん言われたいだろうに。
kawaii は、2009年以降、通訳は不要で、そのままで通じるようになった。
含意に敵愾心がないこと、威圧的なニュアンスを感じさせないことや、自分の心を和ませる要素があれば安易に使えるというポップでライトなフィーリングが外国の方にも便利に使えるものらしい。
また、近い言葉に、"面・映(おも・は)ゆし" がある。
こちらも初発は12世紀頃で、顔を合わせることが気恥ずかしいというのが語源である。
きまりが悪い、照れくさいという意味もある。
"顔と面の一字違い" ではあるけれど、後世の勢力図は随分と変わってしまった。
"カホ" は、化(か) 火(ほ)であり、やはり "化する熱量が強かった" と言えようか。
なお、読み方としては、かほはゆし→かはゆし→かわいいと変化したようである。
さて、カイイのルーツはどうだろう。
言霊では、"カ" は、禍・可・化など。 "イ" は、異・違・夷など。
"カイ" は、戎 (異国びと)、拐 (かどわかす)、乖 (そむく)の意味合いだろうか。
字解では、"怪" は "霊的なモノが土の下から手を伸ばすように現われ出てくる" である。
身近なところでは、逃げ水とか陽炎(かげろう)、蜃気楼や旋風(つむじかぜ)などであろうか。
"異" は "面を付けた人間" を意味する。
例えば、能面では女性の怒りを、4段怪、・・・失礼、噛みました。4段階に分ける。
ヤサシイ順に、橋姫(はしひめ)、生成(なまなり)、般若、蛇(じゃ)となるそうだ。
能の演者は、その舞い方によって橋姫の面を人にも鬼にも表現される。
妖なる舞いに圧倒されながらも、いつしか怪異の面が、情の厚いカワイイ表情にも見えてくる。
重要なのは、たぶん演者たる自分の "振る舞い" なのだろう。
ここまで、ながながと、カイイとカワイイの関係を書き連ねてきた。
ともに同じ時空に住まうものとして、ときどき人間にドキドキを与える "対称する立ち位置に居ながらも、愛されるべきは同じ" であり、"一時的な仮の姿" を意味していたのではないかと感じている。
阿良々木らは、忍野メメを「お人好し」と評したけれど、「御・霊・留・寄・止」と字解すれば、彼らの行動と働き、本作の通底を流れるテーマそのものであったと感じるのだが、どうであろうか。
シテ・阿良々木と、ワキ・忍野の "無頼の漢たちの物語" も、これにて幕を閉じよう。
第6部、了。
{/netabare}
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作品が、皆さまに愛されますように。