MLK さんの感想・評価
3.9
物語 : 3.0
作画 : 4.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
無題
グローリー氏のエピソードまでは本当に素晴らしい映画だと思えた。各キャラクターの立ち方、細部まで行き届いた画面の面白さ、おどけたやりとりと子供向けとしてはギリギリと思えるPTSD描写の話の落差、どれをとっても驚くようなレベルの高さだった。
それだけに、最後のエピソードが残念でならない。受け入れがたい現実に直面した時、最後におっこが選んだのは、神との合一だった。映画の最後が上手に踊れるようになった神楽で締められていることからもそれは明らかだろう。
もちろん、自分を俯瞰する視点を手に入れることは成熟への第一歩である。映画の中でも、一人の少女おっことしてよりも、神と生きる春の屋の若女将としての関織子を選ぶというのは人格の成長であると描かれている。
だがしかし。今回の件は本当におっこの成長だったのだろうか。私には、子どもが皆に期待される役割をこなすための方便として神が利用されたに過ぎないように見えた。
簡単に言えば、私は人が神を必要とする場面は大きく分けて2パターンであると思う。
⓵自分の意思による行動を正当化するとき(制御された計算の一部)
⓶湧き上がる感情を鎮めるとき(制御不能なものへの対処)
本作で言えば、おっこは⓵の意味で神を使ったように思える。つまり、加害者へ湧き上がる感情を抑えるためというよりも、春の屋の若女将を演じるために神との合一を行った。
もちろん、おっこは劇中で加害者へ湧き上がる感情に対処している。しかしその激情に対する制御装置として機能したのは、「すべてを受け入れる」神の思想ではなく「自分は若女将である」という義務感だったのではないだろうか。だからこそ、真月は去り際に「馬鹿女将は返上ね」といったのだろう。
つまりおっこは、感情に対し若女将としての義務をぶつけ、若女将であることを無理矢理正当化させるために神の思想を語っている。要するに、自分の騙し方のレパートリーが増えたということだ。
これが良いことか悪いことかは分からない。しかし、騙し方が増えただけでは、人はいつか破綻するかもしれない。そのときおっこは何を思うのか。