fuushin さんの感想・評価
4.5
物語 : 5.0
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
桜島麻衣センパイって。
この作品、キービジュアルにパワー感があって視聴し始めたのですが、観終わってからのレビューがなかなか書けず、その理由もわからず、ずっとモヤモヤしっぱなしでした。
そうこうしているうちに劇場版が封切られ、おまけに子どもがそのラノベを購入して、「読む?」という経緯もあり、そちらを先にレビューするというシマツ。
その劇場版では、翔子さんと咲太くんのつむいできた時間軸の太い絆のさまに愕然とし、それを量子力学や相対性理論などのワードで解析し、解釈し、魅せきろうとする作風にほだされて・・・。いつしかハンカチはしっとり重くなっていました。
若者のこうした心情さえも、量子もつれの一つだと理解してみよう・・・。
その "気づき" を発見した瞬間に、本作への視点ががらりと変わってしまいました。
その感想を一つ、述べてみたいと思います。
麻衣さんにとっては、咲太くんの恋人としては "2番手" だった。
そういう視点で、13話を振り返りました。
そういう視点というのは、麻衣さんの立場や心情に沿って全13話を解釈してみたということです。
当初、私は、咲太くんの視点でストーリーを追っていましたが、それだと捉えどころのない違和感があって、どうにもレビューが書きづらく、彼への同調や共感どころか、酷評もできませんでした。
でも、"今どきの若い者は。" なんて蔑(さげす)むコトバは、プラトンの時代から言われていますからね。
そんな自分劣化だけは避けたかったのです。
本作を、麻衣さんの視点、心情の変化、感情の高揚、恋ごころへの気づきという流れで俯瞰してみると、彼女は確かに "自分を見つけてほしかった" と思うのです。
まるで、量子のような心細さに薄れていってしまう自分に、咲太くんだけが見つけてくれた、寄り添ってくれた、徹夜で頑張ってくれた、全校生徒の前で告白してくれた・・・。
そんな彼なのに、いえ、そんな彼だからこそ、麻衣さんのラブストーリーにとっては、「自分は2番手だった。」「咲太くんの2番目のファイルだった。」と気づくわけです。
女性心理で言えば、「本当はファイルを上書きしてほしい」「翔子さんのファイルは手にしないでほしい」と思うのかもしれません。
ところが、"咲太の大好きな人だったはずの年上の翔子さん" が、年下の姿で2人の目の前に現われ、しかも麻衣さんが彼を想うよりもずっと身近にいて支えている・・・。
それは、麻衣さんにとっては驚異であり、脅威でもあったと思うのです。
そして、もどかしい悩ましさで、心が騒ぐことでもあったと思うのです。
ところが、咲太くんが「麻衣さんはオトナの女性だから」とか言っては持ち上げてくるので、姉さん女房的、できた女優さん的な振る舞いを、プライベートでも我が身に強いる、演じるというのも、麻衣さんには何かと落ち着かないことだったでしょう。
値の付けのようのない初恋を、高根の花のように粉飾させられるものですから、本当は身震いするような乙女心の吐露もすんなりとは叶いません。
本心では初々しい好意を見せたくても、出すに出せない身の縛り。
咲太くんの茫漠とした懐の深さに、やきもきするやらそわそわするやら、いつの頃からか、気を揉む側に立たされていたのでは?と微笑ましく思えるのです。
そんなこんなで、麻衣さんには、気丈夫な振る舞いに秘め置いた乙女心の恥じらいの弱みがあり、加えて、翔子さんという存在にも "2番目" という気おくれの弱みを肌で感じながら、それでも咲太くんに真摯に向かおうとする一途な娘気質の姿が見え隠れして、どうにも私の中で、その存在感を増してきたのです。
拙い私見ですが、麻衣さんの立ち位置を量子力学的に解釈すれば、翔子さんのほうがずっと前から咲太くんに発見され、"初恋の相手として、実存性を確定させている" わけですから、麻衣さんの想いとしては、"私は、未だ決定的には確定しておらず、状態として常に揺らいでいる存在" のように思えていたのかもしれません。
私はいつ、咲太の1番めとして確定されるの。
私はいつ、咲太の恋人としての実存を得るの。
麻衣さんにとっては、翔子さんと咲太くんとのあいだに紡がれた "絆" の実相は、ようとして知れず、不確定要素のまま、心中の虫、心配の澱(おり)になっています。
シュレディンガーの猫から始まったさまざまな物理学的な解釈を頼りにして、咲太くんたちが取り組み、挑んでいく中で、ぎゅうっとつねったり、足を踏みつけたりして、彼との量子もつれを重ね、同期していく麻衣さん。
そのプロセスの全てが、咲太くんと縒り合わせる "思春期の絆" のすべてです。
その決定的な結び目が、{netabare} 劇場版の " あの行為 " {/netabare} だったのでしょう。
私が本作品にモヤモヤしっぱなしだったのは、翔子さんと咲太くんとのあいだに結ばれている "絆 =手の触れようのない空気" に、戸惑いながらも実直に対峙しようとしていた麻衣さんの "ひたむきな覚悟" に気づけなかったからでした。
でも、今になって、本作の13話を麻衣さんだけの視点で観かえしてみると、モニターに表現される彼女の仕草、表情、声音のすべてにおいて、馴れ初めからの淡い片恋のそれが、十二分に描かれていたように思うのです。
真っさらな気持ちで育みたい "最初の恋" なのに。
はからずも "2番目" の恋だと気づいてしまった。
麻衣さんの揺れる心情を細やかに描いていたと観るならば、味わいのあるいい作品だったとしみじみ感じるのです。
追記です。
{netabare}
咲太くんが、校庭で絶叫告白して自爆するのは、彼の麻衣さんへの純粋な "利己の描写" でもありますが、もう一つ感じたのは、麻衣さんの存在を校内に確定させ、実存させようとする "利他の描写" でもあっただろうと思うのです。
空気を自ら換えるということは、ムーブメントをゼロから作り出すエネルギーが必要です。
それをすることは、自分が他者からどのように思われるか、どのように見られるか、評価されるかという "リスクを抱え" なければなりません。
もし、そこに自分可愛さの利己を優先させていたら、他者からは、エゴイストともナルシストとも受け取られかねませんし、そうなれば何よりも足が竦(すく)んでしまうことでしょう。
咲太くんが、あれほどまでに麻衣さんだけのことを想って、でも麻衣さんのことをサラリと忘れてしまう "ただのブタ野郎" なら、あんなことをする必要はなかったはずです。
でも、彼が青春を生きる実相は、校内に、家庭に、地域にあります。
そのストーリーを、親友、友人、妹とのエピソードに描き、その都度、"さすがブタ野郎だね。" となじられても、なお実直に立ち向かっていく彼の漢気と行動力にこそ、表題に掲げられた "青春ブタ野郎" というコトバが、実は、"最高の褒め言葉" なのだろうとして受け止めておきたい。そう思いました。
劇場版における麻衣さんの "あの行為" も、咲太くんとの優しい時間を共有し、彼の利他愛の心情に共鳴し、育みあってきた結果として、いえ、必然として、咲太くんの "実存を確定させるため" に、自らの "実存を放棄" してまで(最大にして最高の量子もつれ、そして唯一無二の恋人としての想いから)、咄嗟に出たものとして受け止めておきたい。そう思います。
咲太くんと麻衣さん。
二人をして "利他愛に基づく、止むに止まれぬ行動" を描こうとした本作。
爽やかでありながら、悔しいほどに胸の奥深くまで抉られてしまいました。
{/netabare}
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作が、皆さまに愛されますように。