たばこ さんの感想・評価
4.5
物語 : 5.0
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
「金は命より、重い。」は本当か?
本レビューは詳細なネタバレを含むので、まだ見ていない人はすぐにこのレビューを読むのを止めて、近所のレンタル屋に走って視聴してください。
さて、本作は、ジャンケンカードバトル、鉄骨渡り、そして、Eカードという3つのギャンブルパートで構成され、どれもユニークかつ緻密なプロットが用意されており、抜群に面白い。純粋なギャンブルもののストーリーとしては、他に例を見ない面白さだ。
しかし、その中でひときわ異彩を放つものがある。
中盤戦の「死の鉄骨渡り」である。
この「鉄骨渡り」はカイジの中でも取り分け異質で、本作を傑作中の傑作たらしめている由縁でもある。この鉄骨渡りに比べたら、ジャンケンカードやEカード、(あるいは、第二期の「チンチンロリン」や「パチンコ沼」)などは所詮、チャチな児戯に過ぎない。
●「金は命より、重い。」は正しい。
地上にそびえる2つの高層ビル、その22階にかけられた全長数十メートルの鉄骨。
渡りきれば、賞金数千万。しかし、踏み外せば、即、死。
この致命的な状況が、カイジを含む数名の挑戦者ら、ひいては人間の本性を丸裸にしていく。
ことの始まりは、主催者側の幹部、利根川の言葉だ。
「金は命より、重い。」
その言葉のインパクトから、カイジ未読、未視聴の人さえどこかで聞いたことがあるフレーズかもしれない。
利根川は言う、
「人は金を得るために、人生の多くの時間を費やしている。つまり、命を削って金を稼いでいる。サラリーマンにしろ、公務員にしろ、金を得るために、働き、残業し、上司にへつらい、嫌なこともやる。そうして、数十年あくせく働いてようやっと手にすることができるのが、この数千万という大金。それを、何もせず、だらだらと日々を無為に過ごし、ひたすら言い訳ばかりをしているお前らがたかだか数十分、数時間で得られるはずがない。それを得ようとすれば、これはもう、命を賭けるしかない。」と。
金を得るため、人は命を削っている、と。
つまり、「金は命より、重い」ということだ、と。
圧倒的に救いの無い言葉だし、否定したくもなるが、圧倒的に事実でもある。
どのような人も社会の中で生きていく以上は、この金がつきまとう。金をかせぐことが、大前提だ。
サラリーマンや公務員は言うまでも無く、スポーツ選手や芸術家でもそう。一見、自分が好きなことをやって生きている人がいても、その対価としての金はもらう。
いち個人に限らず、法人も同じ。どんなに崇高な理念や理想をもった会社も、利益度外視の事業などはとんでもない。利益の確保、金をかせぐこと、これから目を背けることは実質的に不可能だ。そして、その金は、人生(命)を消費することによって初めて手にできる。
その意味で、利根川の言葉はまず正しいし、否定しようが無い。
「金は命より、重い」のだ。「金は命より、価値がある」のだ。
陳腐な哲学談義をぶろうってわけじゃないけど、ちょっと切り口を変えて、そもそも「命それ自体に価値はあるのか」と考えてみても、この利根川の言葉が正しいのはわかる。
答えは、「命、それ自体に価値は無い」だ。
通常、ものの価値ってのはそこに人の「ニーズ」があるか、によって決まる。
考えずとも、これは自明だ。
人が金を払うのは、決まってそこにニーズがあるからだ。
腹が減ったら、金を出して弁当を買う。
モテたければ、高い金を出して洋服を買う。
SEXしたけりゃ、風俗に行く。
好きなアイドルを応援したけりゃ、数百万だしてCDを何千枚も買う。
とにかく、そこに価値を見出したとき、人は金を出す。
逆に言うと、価値がなければ、人は金を出さない。
そして、その究極的なものが、「人の命」だ。
人の命ってのは、それ自体、じつは何の価値もない。
例えば、今街中にでて、そこら辺を歩いている人に、「いやー、あなたは生きている。それだけで、すばらしい!お金を払います!」なんて人はまずいない。ガンジーとか、マザーテレサでさえ、無い。
もちろん、例えば両親や兄弟などの肉親が何らかの重病にかかっていて、その治療に大金が要る場合、その命を助けるためにお金を払う、といったことはある。しかしそれも結局、その命自体がもともと価値を持っているんじゃなく、その両親なり兄弟なりが自分にとって大切な命、つまり、「自分に価値を与えてくれる命」だからこそお金を払うわけだ。その命にニーズがあるから、お金を払う。
「命の価値」なんてものはハナからこの世に存在しない。
そうではなく、「何らかの価値を与える命」にこそ、価値がある。
命、それ自体は、0円だ。
よく、命は金で測れないとか言うけど、まさにそう。
金で測れないものが命だ。
もっと言うと、金で測る価値の無いもの、それが命だ。
命それ自体は、そこらじゅうにころがっている有り触れたものなのだ。
●「金は命より、重い」は正しくない
ところが、だ、唯一、命が金より価値を持つ場合がある。
それは、「自分の命」だ。
そりゃそうだ。今から、1億円やるから死んでくれと言われて、はいそうですかと簡単にクビをくくれる人はまずいない。私の場合、いくらお金を積まれてもお断りだ。
だって、死にたくないものww
一方、どこか遠くの場所で、ひっそりと死んでいく人らはたくさんいる。少しの金があれば生きられたかもしれない人は今、リアルタイムでたくさんいる。そんな人たちの命を、「寄付」などの気まぐれでたまに救うことはあるかもしれない。しかし、普段、それらの人たちを考えながら生きてはいない。そうした人たちを救うことより、高級レストランに行って、高い洋服を仕入れて、女を口説くことのほうがよっぽど重要だし、価値があると皆思っている。正しいとか、悪いとかじゃなく、それが現実なのだ。
しかし、こと自分の命になると、皆必死だ。死にたくない。根源的な恐怖がある。
人の死には鈍感だけれど、自分の死には誰よりも敏感。それが、人の本性だ。
つまり、利根川の言葉を正確に言うならばこうだ。
「金は(他人の)命より、重い。(しかし、自分の命は、もっと重い。)」
カイジらは、鉄骨を渡り始めて、ようやくそのことに気付く。
そして、命乞いをする。
お金などいらないから、助けてくれ、と。命さえあれば、いい。
生きたい、と。
自分が生きている、それ自体は紛れも無く、その本人にとってのみ、数千万の大金以上に価値があるのだということに、カイジらはようやく気付く。
しかし、残念ながら、もう手遅れ。
命を賭けてしまった後だ。
あとは、自力で生還するしか道は無い。しかし、それはほぼ絶望的だ。
死を目前にして、「たかだか数千万」のために鉄骨を渡りきるモチベーションはもう、彼ら挑戦者には残っていない。足はすくみ、視界はゆらぐ。一人、また一人と、鉄骨から脱落し、死んでいく。
この過酷な状況で、最終的には、カイジ一人のみが唯一生還する。
●カイジはなぜ生き残れたのか
主人公だから。
などという気は無いww
カイジにとっての分岐点、それは「石田」の死だった。
死ぬ間際、石田が見せた妻への思いやり。落下時に、カイジを心配させまいと、ただ無言で落ちていった彼の思いやり。石田が死ぬ間際に、つらぬいた彼の意思。矜持。
これがカイジにとっての分岐点だった。
カイジにとって、鉄骨を渡りきる動機ができた瞬間だった。
「石田さんのように、自分のプライドを貫いて死ぬ。」
数千万の金、それのために渡ること(つまり、自分の命を賭けること)はできない。しかし、自分の生き様を守りきるためには渡ることができる。カイジにとって、もはや、それは自分の命を守ることより、まして、数千万の金よりも、もっと重要なことだった。
これが、利根川の「金は命より、重い」に対する、カイジの実質的な答えだ。
つまり、
「金は他人の命より重い。自分の命はもっと重い。しかし、自分の命より、もっと重いものがある。」
●命をどう使うか
カイジのこの気付きは、視聴者にある問いを投げかける。
「自分だったら、どのような理由で鉄骨を渡るか」
初見は原作の漫画だったけれど、当時この話を読んだ後にしばらく考え込んだ記憶がある。
自分だったら、どんな理由があったら鉄骨を渡ろうとするか、と。たぶん、お金だったらいくら積まれても渡ろうとしない。けれど、それが例えば、鉄骨の向こう側に自分の両親がいて、渡らなければ殺される、ってな状況だった場合、渡るんじゃないだろうか、とか。
その場合、自分の命より、両親の命のほうが大事だってことになる。カイジの場合は、「プライド」だったけど、その動機は人それぞれによって異なる。
多分、こうした自分の命も含めた物事の重み付け、を明確に意識せずに生きている人ってのは、カイジのような借金抱えた落伍者だけでなく、大部分の人がそうだ。自分もそうだ。
普段は、別に命の価値とか生きているとか取り立てて意識せずとも、まあ、生きていける。そこそこの収入もあるし、食うには困らない。
しかし、それは取りもなおさず、人生を浪費していることに他ならない。
自分の命の価値も知らず、まして、それ以上に価値のあることを認識せず、ひたすら人生を食いつぶしている。自分の人生(命)をどう使うかを考えず、ただ、「生きながらえること」だけの人生。
そんなヌルイ現代人の生き方に、カイジの鉄骨渡りは痛烈な批判を加える。
鉄骨を渡るに足る理由、それのために人生を使っているだろうか、と。