たばこ さんの感想・評価
4.3
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
テーマの深さでは化物語よりおもしろい
すっきりとした終わり方をしないぶん、第1作目の化物語に比べて評価が分かれるアニメだろうな、と見終わった後感じた。
●化物語 vs 偽物語
化物語は例えるならば、ハリウッド映画だ。わかりやすい筋書きで、予定調和的なハッピーエンド。気持ちいカタルシスが用意されている。
それに対して、この偽物語はどちらかというフランス映画に近い。どうもじめっとしていて、釈然としてない。何らかのテーマを投げかけているようではあるけど、それをはっきりと提示しないから、観る人によっては後味の悪さみたいなものを引きずる。
そういう意味で、化物語的な「気持ちの良さ」、「すっきり感」は、この偽物語にはない。
例えば、前半の「火憐ビー」。
ここで登場する悪役キャラは「貝木」だ。彼が登場した瞬間、視聴者は、最後はこの貝木がぼっこぼこにされて、めでたしめでたし、という流れをどこかで期待していたはずである。なぜならそれが、「ハリウッド的には」お約束だからだ。だし、それが「気持ちいい流れ」だと大抵の人は考えているからだ。
ところが、この火憐ビーの結話である第7話。
主人公と対峙した貝木、彼はぼこぼこにされるどころか、傷ひとつ負わない。むしろ、饒舌に彼の思想を語ってぬるりと逃げおおせてしまう。
釈然としない、主人公。
もちろん、視聴者も釈然としない。
同じく、後半部の「月火フェニックス]。
こちらも火憐ビー同様、どうも釈然としない。妹の月火が実は「怪異」だと明かされた終盤、それを始末しようとする京都弁の女陰陽師、影縫 余弦と、それを阻止しようとするアララギの対決なのだが、ここでもハリウッド的なお約束は通じない。アララギが一方的にぼこられるのは毎度のこととしても、どうにも余弦の最後の引き際が符に落ちない。あっさりと踵を返して、去ってしまうのだ。結局、月火が「怪異」であることは変わらないし、何も解決していない。にも関わらず、いとも簡単に引き下がってしまう。ここでも視聴者は拍子抜けを食らう。
●本物(正義) vs. 偽者(悪)
じゃあ、いったい、この偽物語、どこに楽しめる要素があるのだろうか。なぜ、こんなに釈然としないのだろうか。
結論から言うと、「まさにこの釈然としないのが面白い」んだと個人的に思う。この作品が扱うテーマ的に、むしろ、釈然としてなくて当たり前とさえ思う。
まず本作のテーマである「本物vs偽者」の構図だが、これはたぶん、「正義vs悪」に置き換えることができる。
そして、その「正義と悪」に実は明確な境界線は無いよね、っていうのが、この作品のテーマだw
いやまじでww(たぶんww)
例えば、火憐ビーだと、一見、火憐が正義、貝木が悪、として描かれているけど、よくよく考えてみると、貝木は貝木で彼なりの信念とか信じることのために行動しているだけだ。いくら火憐に「悪者」だ、とののしられようが、貝木としては知ったこっちゃないのである。「オマエのその金にもならん青臭い正義を押し付けるな」とでも思ったに違いない。
実際、火憐みたいに自分の思想を正義と信じて疑わず、しかもそれを他人に(貝木に)傲慢に押し付ける、その暴力性だけを取ってみても、それは悪なんである。
つまり、正義も悪も表裏一体ですよ、と。
火憐も、貝木も、自分のことは正義で、他人は悪だと思っている。見方を変えれば、どちらも正義で、どちらも悪になりうるにも関わらず。
そして、まさに見方を変えたのが、月火フェニックス。
今度は妹の月火が、なんと「怪異」だ。つまり、今度は身内の、自分側が「悪者」になる番だ。
そして、それを退治する「影縫 余弦」、敵方が「正義」に入れ替わる。
いざ、自分側(アララギ側)が「悪者」になってみると、「影縫 余弦」の正義は悪にしか見えないのである。しかし、影縫 余弦は彼女でそれなりの信念と思想によって行動しているだけだ。
火憐も、貝木も、月火も、余弦も、自分が正しいと思うことをする。それを正義(本物)だとか、悪(偽者)だとか、境界線を引くことは誰にもできないし、誰もすべきじゃない。なぜなら、立場、見方を変えれば、誰しも正義であり、悪にもなるからだ。立場の違いに過ぎない。
それがぶつかる。
そのときどういう解決策があるのだろうか。本作で提示されたそれは、「話し合い」だ。
そりゃそうだ。人間は馬鹿じゃないのだから、話合って解決すべきだ。バトルだの、戦争だの、そんな非現実的なエンターテイメントはハリウッドに任せておけばいいのである。
だから、釈然としてなくて当然なのだ。
「偽物(悪)」と、「本物(正義)」を明確に区別して、断罪し、偽者(悪)を一方的に叩きのめすのは、ハリウッドにやらせておけばいいのである。
しかし、本作はそうじゃない。偽者(悪)だって、見方を変えれば本物(正義)なのである。
だから、「偽物語」なのだ。偽者(悪)の、物語なのだ。
シニカルなタイトルなのである。
●余談
まあ、正義とか、悪だとかを一方的に断罪できないっていのは、別に目新しいテーマではないけど、じゃあ実際にそれをちゃんと分かっているかどうかとなると実に怪しいものだ。
例えば、最近(ネットで?)はやりの「韓国人たたき」だけど、日本人は韓国人を物の怪とか、異質なもの(つまり、怪異)として、排除しようとしているわけだ。一方で、韓国人は韓国人で、日本人のことを怪異として捕らえているんだろうな、とw
例えば、イスラエルとアラブでも同じような(というか、比較にならないくらい酷い)対立構造があるわけだけど、他人のことになると比較的冷静に見れるわけだ。どちらにもそれぞれ言い分があるし、一方的に断罪できないよね、と。それが、こと自分のことになると、冷静さを失って、顔を真っ赤にして韓国をたたいたりする。
別に、国に限ったことじゃなくて、日常生活のどこでも似たようなことって存在する。嫌いな人を無視したり、嫌がらせをしたり。そして、無視されたり、嫌がらせをされたり、と。
この偽物語が、日本と韓国の冷戦状態とかをテーマにしたとか言うつもりはさらさらないけれどwwそれにしても、翻って自分の実生活考えてみると、身に詰まらされるというか、貝木ってそんなに悪者じゃないのに、悪者扱いしちゃってごめんね、的なことを感じて、反省してしまったw
●作画について
あらためて、1シーンの見せ方というか、演出の仕方が上手だな、と思った。
例えば、放映されたばかりの最終話、アララギが、月火にキスした後に自転車で余弦のもとに向かうシーンがある。
吸血鬼の忍と一緒に、二人乗りしているシーンだ。
やっていることといえば、本当、二人乗りした二人がしゃべっている、それだけのシーンだww
しかし、このシーンに約10枚以上のカットを入れてくるのだw自転車の車輪のカットであったり、二人の影のカットであったり、とにかく、やってることは退屈なのに、見せ方が上手いから退屈しない。ここら辺、ほんとにそこらへんのアニメではないクオリティの高さを改めて感じた。