たばこ さんの感想・評価
2.4
物語 : 1.5
作画 : 2.5
声優 : 3.5
音楽 : 3.5
キャラ : 1.0
状態:観終わった
モウロクじじいの、胡散臭いお説教映画 (レビュー紹介追加)
この映画を見るのは、(今回のテレビ放映で)合計3度目なんだけど、見るたびに評価が変わる。
で結論から言うと、タイトルどおりだ。
「宮崎のクドイお説教映画」
この一言につきる。
●宮崎のお説教その1: 欲にまみれた現代人
物語序盤、ちひろの両親は醜悪なブタに変貌してしまう。なぜだろうか。答えは簡単。
食「欲」に溺れたからだ。
金さえ払えばよいだろうと、目の前にあるご馳走にむさぼりつく、その異常なまでの食「欲」。これが為に、彼らはブタに変えられるハメに陥った。必要以上にグルメを追い求める、あくなき食欲の追求。
生レバーが規制されると分かった瞬間に、焼肉屋にこぞってかけこむ皆様、現代人。そのいびつに歪んだ食「欲」。それを、なんとも「ブタ」という分かりやすい代名詞を用いて、痛烈に批判しているのだ。(もちろん、この映画は生レバー規制前の映画だけどw)
つまり、宮崎はこう言っているのだ。
「お前ら現代人はブタだ。」
とww
また、物語中盤に登場するキーの登場人物の一人
「顔無し」
彼は、人に物「欲」を与えては、その欲を食らう。
番頭のカエルに砂金を与え、そのスキを狙って、丸飲み、という具合にだ。
番頭のカエルだけではない。湯屋の全員がこぞって「顔なし」につめよる。
「金をくれ!金をくれ!」
と。それはまるで、常に金を求める現代人の姿そのものではないか、と。
その醜い物「欲」。それを食い続けた「顔無し」は、最後、ゲロを吐くwwwゲロと一緒に、飲み込んだものたちも吐き出す。
つまり、宮崎はこう言っている。
「お前らは、物欲まみれのゲロだ。」
とww
では、「顔無し」自身はどうだろうか。
彼の最初の「与える行為」。
それは、実は純粋な行為、見返りを求めない愛情から「与える」行為だった。
自分を気遣ってくれたちひろにお返しをしたい、という純粋な行為。善意。
それが、「薬湯の板」を渡す、という行為だった。
そして、それに対してちひろが「ありがとう」と、お礼をする。
喜んだ「顔無し」は、もっとちひろを喜ばせようと頑張る。
ここらへんから徐々に「顔無し」の様子がおかしくなる。
かつてのちひろへの純粋な愛情は影を薄め、次第に
「ちひろを独占したい」
という我欲に姿を変えていく(文字通り、姿を変えていくw)。薬湯の板を与えても、砂金を与えても、美味しい料理を与えても、ちひろは一向にこっちを向いてくれない。満たされない、独占「欲」。
そして、最後は、ヒステリーを起こす。
「なぜ私のことを見てくれないの!なぜ、こんなに尽くしている私のことを好きになってくれないの!」
と。ヒステリーを起こしてちひろを追いかける、欲望が肥大化した「顔無し」。その姿の醜悪さ。
これはまるで、独占「欲」や所有「欲」を恋愛によって満たそうとし、叶わないならヒステリックに発狂する、という現代人の姿そのままじゃないか、と。
つまり、宮崎はこう言っているのだ。
「お前らは、グロテスクな恋愛モンスターだ。」
と。
このように、あらゆる「欲」がぐるぐると回り続ける現代社会という名の沼、そして、そのドロのなかでうごめく現代人。
宮崎は、周到に、何度も何度も、色々な登場人物を使って、それを伝える。
お前らは、欲望の奴隷だ。と。
●宮崎の説教その2: 現代社会の構造批判
今度は、欲にまみれる現代人が生きる、「現代社会」そのものに対しての「お説教」だ。
まず、湯屋にいるものは全員ユバーバと契約をすることになっている。
そして、ユバーバは彼らを
「名前を奪って、支配する」
この構造。比喩になっているけど、ひとつひとつ読み解いていくと、何のことかすぐ分かる。
名前を奪うと、なぜ支配できるのだろうか?
それは、名前がいったい何なのかを考えると分かる。
名前とは、実は、個性そのものだ。
人は生を受けたとき、同時に名を与えられる。
つまり、個の誕生は、名の誕生と同じなのだ。 (「名は体を表す」と諺にも言う。)
この名を奪われることは、すなわち、個が奪われることとイコールなのである。(あるいは、その比喩だ。)
つまり、湯屋で働く面々は、個を奪われたものたち、ということだ。(もちろん、ハクやちひろも、名を奪われた。)
そして、あくせく働かされる。湯屋で、馬車馬のように働き続けるのだ。
もうお分かりだろうが、これこそ、まさに現代社会の縮図だ。
現代人の多くは、会社勤めのサラリーマン。いくらでも代わりの利く、社会の歯車。
それが現代人。
その歯車にガッチリと組み込まれ、個性をなくしたサラリーマン。
その姿は、名を奪われ、個をなくした湯屋で働く面々そのものではないか。
そして、彼ら湯屋の面々は、先述したように、「顔無し」の与える砂金に欲望を掻き立てられる。
現代人が、欲望を満たすために、仕事をして金を稼ぐのと全く同じ構造だ。
そういう意味で、ユバーバーはさしずめ
「資本主義社会」の権化のような存在で、その資本主義と契約し、個をなくして働き続ける現代人。
これを宮崎は揶揄しているわけだ。
「(ユバーバーが湯屋の人の)名前を奪って、支配する(働かせる)」
つまり、
「(資本主義が現代人の)個性を奪って、支配する(働かせる)」
ということだ。
現代人は、金を稼ぎ、欲望を満たすため、消費する。
金を使って、クルマを買い、物を買い、美味い飯を食い、そうして欲望を、金を使って消費し続ける。
結果、しわ寄せを受けるのは、「自然」、だ。
中盤に登場する、腐れ神の姿をした「川の主」。
彼は、自然の代表だ。環境の代表。
彼は人間の捨てたゴミ(消費された欲望)によって、異臭を放つ姿に変貌する。
その「腐れ神」(自然)が、湯屋(現代社会)にしっぺ返しを食らわせに戻ってくる。
こうした、欲・金・消費の一連のサイクルに閉じ込められた現代人、そして、その土台となる現代社会を、ありとあらゆる手を使って、説教しにかかる。
それが、宮崎のおなじみの手法だ。
●ちひろが成長したのか。それとも、周りが成長したのか。
そして、この湯屋の世界で、唯一と言っていい例外が存在する。
「ちひろ」
だ。
彼女だけが唯一、この欲望の世界に浸かっていない。
彼女の行動のモチベーションは全て、私利私欲ではなく、もっと純粋な「見返りを求めない、善意や好意、愛情」だ。
このアニメ、よく「ちひろの成長物語」と誤解されがちだけど、実は全く逆。
「無償の行為」を貫くちひろに感化されることによって、実は周りの大人たちが成長する物語なのだ。
基本的に、ちひろは終始一貫して、変わっていないのだ。
もちろん、最初は臆病で、ドジで、閉じこもりがちだったちひろが、確かに、最後には、大胆で、勇敢で、自分の意思を貫くことができるちひろになった、という成長物語として捉えられなくもない。
が、それは表面的なことに過ぎない。ちひろは、最初っから最後まで、その根底にあるものはなんら変化していないのだ。
ちひろは、見返りを求めない無償の行為によって、両親を救い、ハクを救う。そんなひたむきなちひろの姿に感化され、最初は人間嫌いだった湯屋の面々もちひろは一変させてしまう。
最後などは、「ブタの中から両親を選ぼうクイズ」の正解後に、もろ手を挙げて喜ぶ始末だ。
ちひろが成長したのではない。周りの者が成長したのだ。ちひろによって、成長させられたのだ。
そしてこれは、こういう宮崎の説教でもある。
この「無償の行為」こそが、欲望渦巻く現代社会の連鎖を断ち切る唯一の答えだ、と。
●現実を見ない独善。
さて、随分前置きが長くなったけど、ここからが本番だwww(といっても、短くまとめるけど。)
結論から言うと、この映画、もうね、実に説教臭くてかなわんのだwww
臭いwこう、ぷんぷんと臭うのだ。
一方的で、独善的な押し付けがましい宮崎の勘違いお説教が。
現実ってのは、こんな映画のような馬鹿な話じゃない。
現代に生きる我々現代人が、いつもこぞって我欲のみを追い求めているかというと、全くそんなことはない。もちろん、欲望はある。が、それだけではない。
欲に溺れれば、反省もする。自省する力がある。時には無償の行為もする。
人ってのは、いつの時代も、こうしたアンバランスな中で、皆必死にバランスを取って生きているのだ。欲望に走る自分と、それを抑える自分。その狭間で、日々を必死に紡ぎながら生活している。仮に会社勤めのサラリーマンだとして、それが何だろう。その人が、社会の中で仕事をしながら、必死に生きている姿を、一体誰が「歯車」などと批判できるのだろうか。「食」を日々の楽しみにして、一体何が悪いというのだ。恋愛に夢中になって、何がいけないのだ。
こうした欲を抱えながら、皆それを暴走させないよう、バランスをとりながら生きている。そうして、社会生活を営んでいる。
この映画のように、ちひろのような「妖精」みたいな人がいて、一方で、私利私欲にのみまみれた人がいる。そんな、極端でナイーブな二元論なぞ糞くらえだ。それこそ、そこらへんのドブ川にでも捨ててこい、と。
現実ってのは、そんなバカな話じゃないのだ。
それを、この宮崎は、圧倒的な高所から、あたかも、神が人を諭すかのように、こうした映画を作り、現代人を「啓蒙」しようとする。
お前は何様だ?とww
宮崎作品はいつもそうだ。
トトロは心の清い子供にしか見えませんww
森林は、人間によって「腐海」に変えられましたww心の清い、ナウシカ様がそれを救いますww
いつもお決まりの、常套手段だ。
うんざりする、毎度毎度の胡散臭いお説教。
随分長々レビューしたけど、結局次の一言で全て片付く。
●もうお説教はこりごりだ
●レビュー紹介
とりあえず、四の五の言わずにこのレビューを読んで欲しいんだけど
みみかき氏「世界に対する、子供の不安さ」
http://www.anikore.jp/review/46511
千と千尋に関しては、全体のレビュ-数が少ないこともあって、全部のレビューに目を通したんだけど、このレビューが一番面白い。
多分だけど、ちひろの母親がトンネルをくぐるシーンには誰しもが少なからず違和感を持ったはずだ。
「あんまりくっつかないでよ歩きにくいから」
というセリフ。
ここに違和感を持つ人ってのは、まあ、結構な数いる。
けれど、それを「なぜ違和感があるのか?」までつきつめる人は中々いない。このワンシーンひとつから何を感じて、何を考えるか、そこにこそ、アニメや映画の面白さがある。
多くの人が深く考えずにスルーしてしまうシーンを、必要以上に掘り下げて考えてみる。ここにこそ、他の人のレビューを読む楽しさがある。新しい発見がある。
正しいかどうかじゃない。「なるほど、そう考える人もいるんだ」と思わせるレビューってのは、それだけで面白い。
是非、一読をお勧めする。
●レビュー紹介2
さて、またも面白いレビューを発見したので、紹介。
宗助氏「今は、これが精一杯」
http://www.anikore.jp/review/303187
もし今私が書いたレビューを読んでいないのであれば、簡単でいいので是非目を通していただいた後に、この宗助氏のレビューを読むのを進める。
結論から言うと、このレビューは、おそらく、というか十中八九、私の書いたレビューへのアンチテーゼとして書かれている。
で、さらに結論を言うと、面白い。
この方は、まず高校時代にこういう感想を抱いた。
『二度目(にこの映画を見たの)は高校にあがってからだったように記憶している。映画とは、「監督が社会に対して自己のメッセージを打ち出す手段である」との妄執に取り付かれていた時分であるから、やはりこの映画にも、現実の社会構造を当てはめ、裏に宿した作者のメッセージを必死で読み解こうとした。カエルや番頭や顔ナシの醜態は、あれは我欲に溺れる現代人を痛烈に批判したのだ! なんたる痛快! と一人ごちって溜飲を下していた。その人がその人であることを約束する「名前」を奪い、馬車馬のように働かされる「千」の姿に、部分となって全体を支える、入れ替え可能で空虚な現代サラリーマンの姿を見た。三島由紀夫の言を借りれば、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、ということになるだろうか。宮崎駿に共産党崩れのレッテルを貼っていたのだからなおさらであった。つまり、あの「湯屋」に現代社会批判のメッセージを読み取った。』(引用終)
お分かりだろうが、まさしく私のレビューで書かれていることそのものである。宗助氏が高校時代にこうした感想を抱かれたことは間違いないだろうけれど、それと同時に、私のレビューをある程度意識されたのではないかと思う。
そして、以下に続く。
『(3度めの視聴を終えて、改めて思い返したとき)二度目に抱いた感想などは、映画にとって重要な「描写」を無視し、頭だけでこねくりまわしたいかにも「厨二病」的感想で、今思い返すと赤面である。』(引用終)
つまり、上で私が書いたレビューは、
●中二病丸出しの、赤面もののくだらんレビューだ
と。(自身の高校時代の感想を引き合いに出しながら、おそらく私のレビューを想定しておられる。)
まあ、はじめは
●なんだこれ?
と思ったんだけど、読み進めていくうちに、なるほどそういう見方があるのかと思わず納得してしまった。
なぜ、宗助氏が高校時代の(私のレビューに酷似した)感想に対して、「赤面もの」と考えたかについては、ここでくどくど説明する必要はなくて、実際に読んでみれば分かる。
●このレビューを受けて
さて、ここからが本題だ。このレビューを受けての自分の率直な感想としては、
●宗助氏の言いたいことはわかる。一方で、自分がこの映画を見て「胡散臭いお説教映画だ」と思ったこともまた、それはそれで事実だし、揺るがないな。
ということだ。
宗助氏がいみじくも指摘している通り、多分この映画で宮崎は
『監督自身、「Aがいいのだ」と言った2年後のインタビューで、Aについて怒るような人だ。しかもその矛盾だって本人はわかってるようで、単純な社会批判なんてしない。Aを渇望しているが、Aの不可能性を理解している。』
っていう側面が大なり小なりあったんだと思う。
つまり、この映画を「構造批判を主軸とした映画」として見るのか、あるいは、「古きよき共同体の中における、ちひろの成長の過程」として見るのかは、完全に視聴者にゆだねられているのだと理解している。
もっと言うと、仮に、宮崎が「こういう意図でした」と説明したところで、最終的に視聴者がそれをどう受け止めるかは、完全に、文字通り、視聴者にゆだねられているのだ。
そして、ここがめちゃくちゃ面白いポイントでもある。
これは当たり前のように思えて、実は意外と見落としがちなポイントでもある。
例えば、あるアニメや映画(に限らず、小説でも、マンガでも)について、私がそれを
●ゲロレベルの下らないアニメだ
と評価したとする。
これは何を意味しているかというと、このアニメそのものが客観的な事実としてゲロアニメだ、ということではなくて、実は「私がこのアニメをゲロアニメだと評価するような、脳みその作りになっている」ということだ。
つまり、ある作品へのレビューというのは、そっくりそのまま、私自身の考え方、価値感をまるごと反映しているのである。
もっというと、レビューは、私自身の生き写しであり、私自身がどういう人間かを如実に物語っているのである。
話は少しそれるけど、私が他人のレビューを読んで面白いと思うのは、大抵、こういう、「その人の価値感が丸ごと反映されている」ものが多い。(そうじゃないのもあるが。)
そこにアニメのレビューのみならず、そのレビュアー自身をも垣間見ることができる。
ここに、面白さを覚える。だし、こういうあにこれのようなレビューサイトの利用価値を再発見したりする。
自分が世界をどう捉えているか。
それと同時に、他の人が世界をどう捉えているか。
それが、ひとつのアニメなり映画なりのレビューで展開される。
このダイナミックな人の思考の流れだったり、価値感の違い(まさに、価値感の違い)を直に感じることが非常におもしろかったりする。
宗助氏は、千と千尋を見て、いくつかの変遷の後、
「千尋の成長の物語」として、暖かい、人情味のあるストーリーとして、再認識した。
一方で、私は千と千尋を見て、いくつかの変遷の後、
「宮崎の胡散臭い構造批判的で独善的なお説教映画」として再認識した。
その根底にある認識の違いは、私と宗助氏の世界に対する向き合い方の違いでもある。
ゆえに、繰り返しになるが、
●宗助氏の言いたいことはわかる。一方で、自分がこの映画を見て「胡散臭いお説教映画だ」と思ったこともまた、それはそれで事実だし、揺るがないな。
という結論に落ち着く。
これは、よくある
●「意見の違いを価値感の相違に帰着させて、単に問題を解消
せているだけ」
ということではない。
価値感の違いってのは便利な言葉で、人と意見が食い違ったと気は、このキラーワードが、批判をかわすためだけに使われたりするんだけど、ことアニメや映画などのレビューに関しては、まさにこの違いってのがあるし、そこに正しいや間違っている、というものはない。
そこにあるのは、その作品を評価する人間、がいる、ということだけだ。
まあ、とはいえ、贔屓目に見ても私自身、結構ひねくれている性格なので、宗助氏のような考えのほうが、「よりできた人間」である気がしないでもないが、まあ、それもご愛嬌ってな感じだ。笑
というわけで、長くなったけど、時間が有る人は、是非、私のレビューと、宗助氏のレビューを見比べてみて、わたしと宗助氏の違いとか、ひいては、どちらの考えにより近いのかとか、この二人とは全く違う感想を持ったとか、そういう「あなた自身の価値感を見直す作業」をしてみると面白いかもしれない。
●余談
最後に、「機能改善要望」の掲示板でも書いたけど、是非運営の方には、
●各レビューごとにコメントをつけれる機能
をつけていただきたい。
例えば、上のようなやり取りを宗助氏のメッセージボードでやろうもんなら
●「新着コメントが150件あります」
なんてことにもなりかねないw
しかも、全て「たばこさんから」ww
とんだストーカーもいいとこであるw
幸い、雛四季さんにキャッチされているようなので、もしこの糞長いレビューを拝見されているのであれば、是非次の会議か何かで、上記の改善案を提案いただきたいものだ。
あと、わたしを「これはすごい」のランキングから外してくださいwww