カンタダ さんの感想・評価
3.7
物語 : 4.0
作画 : 4.0
声優 : 3.0
音楽 : 4.0
キャラ : 3.5
状態:観終わった
日常、その最強性 *長文注意
フリクリの優れた考察をされているあるブログによれば、この作品には多くの裏設定があるらしく、この物語の理解を深めたければ小説と漫画を読むことをおすすめする。
じつはこのレビューはそのブログを読んで書こうと思ったのだが、そのブログによれば、主人公がなにもしないでモテてしまうギャルアニメに対するアンチテーゼであり、なにもしない直太はなにも手に入れず、成長もしないで終わる物語だと結論づけている。なるほどそういう解釈もできるし、なかなかおもしろい考察だ。「凄いことなんか無い。ただ当たり前のことしか起こらない」と独りごちる直太のこのセリフが、作品を終始一貫するテーマだというわけだ。
上の直太のセリフを一言で表せば「日常性」だろう。直太は常に常識的に振る舞うことを旨としており、非常識な大人をたいへんに嫌っている。非常識は「非日常性」であり、これにこだわる直太にとって常識とは自分を守る殻でもあり、また足かせともなっている。小学生にしては大人びているように感じるのも、こういったところに原因があるのだろう。
さて、そんな直太の常識をぶち壊すのが作中三人の女性なのだが、彼女たちはそれぞれ克服すべき問題と課題を各々抱えている年上の女性ばかりだ。一人だけ同級生がいるのだが、世の少女の成長は少年のそれより早い。彼女はすでに大人の女性としての階段に足をかけている。直太は大人ぶってはいても年相応に心も体も未熟な少年で、誰一人として救ってやれない。
それならそれで付け焼き刃でもいいから全身でぶつかって行けばいい。が、直太は自分の底が知れることを恐れてなかなか本気を見せない。ここぞというときでも、直太にとっての大人の象徴であり、憧れであり、劣等感の原因でもあるところの、ここにはいない兄に救いを求めてしまう。
一見直太が解決したような場面でも、実はそうではなく、大人が助けた結果であったりするので観ていて非常にもどかしい気分にさせられる。が、これも男として一皮むけるための試練だと思って、共に耐えるような気持ちで観させられる。
しかし、最後まで彼は誰も救わず、そして誰とも結ばれずに物語の幕が降ろされる。上記のブログ筆者の解釈の根拠もここにある。なにもしない・できない奴がモテるはずがないと言いたいのだ。なるほど、たしかにそうだろう。なにもしない・できない者がなにかを得られるはずはない。彼の言うことは正しい。
だが私はこの作品を通して直太は、まったくなにもしなかったようには見えなかった。実際、時に女の子を身を挺して守ってもいるし、大人の手を借りながらも難関に挑んでもいる。
ところで、少年は、少女が初潮を迎えることで「女」になれるようには「男」にはなれない。男は女や子供を養い守れなければ「男」になったとは言えない。古い考えと言われればその通り。しかし女、子供を守れない男が魅力的な大人の男だと言えないのも事実だ。実際尊敬できないような男と一夜は過ごせても、心から愛せる女はいない。だから少年は成長しなければいけない。そして大人は少年の成長を助けてやらなければいけない。
だから直太が伸びようとするとき、必ず大人が手を貸している。それはカンチであり、ハル子なのだ。それを直太は自分の力だと自惚れて痛い目に遭うが、若気の至り、若者が陥りがちな失敗だ。大いに反省すればそれでよろしい。そろそろ結論を急ごう。
すでに触れたが、この話は直太の「凄いことなんか無い。ただ当たり前のことしか起こらない」というセリフに象徴されるように、常識と「日常の力」を隠されたテーマに選んでいると私は考える。メディカルメカニカの工場が街の中心に居座っているのも同様の意味だ。その工場はアイロンの形を模している。アイロンはシワを伸ばし平らにするものだが、非日常をシワ、もしくは山や谷だと考えれば、それを平坦にするということは日常化を意味する。アイロンはその隠喩なのだ。世界の平坦化、完全なる日常化、それはつまり生活の死であり、精神の死である。
人は日常を生きているが、それを生きていられるのは非日常があるからだ。日常という平坦な生活は常に忍耐を強制するもので、非日常、つまり恋、競争、祭などがなければ、いずれ心は摩耗して生きながら死んでしまうものだ。話の冒頭の直太のセリフは、この日常性を表すものなのだ。しかし彼を取り巻く環境はハル子をきっかけに非日常的なものに急展開する。
そして物語の最後、直太は再びつぶやく。「凄いことなんか無い。ただ当たり前のことしか起こらない」。これまでの人生をひっくり返すほどの大事件に遭いながらのこのセリフは、日常性の最強性を示すものなのだ。どんな凄いことであっても、非日常であれば終わらなければならず、日常に戻らなければならない。なぜなら非日常はいずれかならず飽きるからだ。飽きられた非日常は日常と同じものだ。だから精神を溌剌とさせ生命力を取り戻す非日常は終わらなければならない。どれほど強烈な喜怒哀楽も愛憎も持続させられず、永遠とも思える日常が徐々にそれらを屈服させてしまうからだ。
ゆえに直太のセリフは最初と最後でまったく意味が異なっている。最初は日常に疲れきった諦めと無関心。最後は生命力を取り戻し、日常を生きる覚悟として。彼は一歩成長したのだ。日常に慣れきって疲れ切った、無感動無関心な大人としてではなく、心を殺そうとする最強の「日常」に耐えて生きていこうとする大人として。
成長しない者に未来はないわけで、そんなことを言いたいためにわざわざアニメにする理由はない。厭世主義なら哲学だけで充分だ。
このOVAは六話構成で手軽に見られるとおもう。近々劇場版も出るそうだ。これをきっかけに一八年前に作られた作品も観てみるのもいいだろう。4:3の画面だが、まったく古びてないのはすごい。