とーとろじい さんの感想・評価
3.7
物語 : 4.0
作画 : 3.5
声優 : 3.5
音楽 : 3.5
キャラ : 4.0
状態:観終わった
<現実>を忘れよう
結構一話目から惹かれて期待していた作品でしたが、まぁこうなるかという感じで。
簡単に言うと、押井守『うる星やつらビューティフルドリーマー』の変形版で、それをこの時代にそのままやるのは残念だなぁと。つまり現実と理想の世界が対立してあって、最終的に現実を選ぶ(理想への閉じこもりを批判する)という構図なわけだが、今の時代、そのようにきれいな二項対立という図式自体古い気が。火垂るの墓でも理想に引きこもるオタクを批判する監督の意図があるわけだが、押井守はアヴァロン以降二項対立から抜け出した。カリギュラはメビウスというVR世界を思わせる空間で、「疑わなければ」理想の生活を送ることができる。それは確かに洗脳に近く、第三者(ミウ)によって知らないうちに自分の生活環境が操作されているという点で、倫理的に問題がある。そしてこの物語が非難すべきなのはまさにこの点であり他の点ではない。つまり現実と理想を比べて理想を批判し現実を肯定するのではなしに、本来はメビウスという特殊な空間の、その非倫理性(他者が人の生を操作する)を非難すべきなのだ。この物語を最後まで拘束し、古臭くさせているのは現実と理想という二項対立である。本来はそのような問題ではない。本来はシステムの問題なのだが、そこにその二項対立の図式が入り、理想の批判というイデオロギー(現実主義の更なる補強)が上乗せされている。だからここで問題の取り違えが起こってしまっているのだ。
世界の事実に気づいた人は、その世界で幸福に生きることと現実に帰ることとを選択できる。けれど物語ではミウが暴走してしまい現実に帰れなくなるのだが、もしミウが暴走せず帰ることが出来るなら恐らく問題はなかっただろうと思われる。世界の事実に気づき現実の記憶が蘇り後ろめたさを感じるとしてもそこに生きる(という選択をする)ことには問題はない。問題があると思うなら、それは現実を第一に据えて、固守しているからだろう。その現実主義の考え(恐らく大体の人が疑わない主義)は物語全体を貫いており(それゆえ古臭いのだが)、この物語は「現実を見よ、逃げるな」という説教譚に結局のところとどまっている。メビウスの中で理想の身体を持ち、現実の交際を断ち切った環境で生きようとするイケPら(敵なわけだが)は実際別に問題はない。作品内でもそこ(彼らの選択の妥当性)はうまくスルーしており、あくまで帰りたい人たちの視点に立って「現実を見つめよう」という現実主義の主張が繰り出されることになる。理想の国を作るのは難しいし、メビウスはそもそも(気づいた人にとっては)理想の国ではない。メビウスの構造に気づいた人は現実の記憶を持っており彼らをしばしば葛藤させる。そしてこの作品ではあくまで二項対立が主題のためその事実(メビウスは理想でさえない)もうまく隠されてしまう。
まとめるとカリギュラの問題点はメビウスの、第三者(ミウ)による人の生への介入とその介入に人が気づけないという非倫理性だ。しかしそこに、理想に引きこもろうとする人々への批判が加わることで問題がすり替えられる。そしてその批判は現実主義であり、実際のところ気づいた人間にとっては現実は意識されてある(つまり引きこもっていない)のだし、皆は現実で傷を抱えた被害者なのだがその被害者をケアせず、現実と向き合えと語るこの物語の主張は、古い道徳観そのものである。
メビウスもうる星やつらの空間もハルヒのエンドレスも現実には存在しない(そんな理想の世界はそもそもない)。PCやゲーム、VR世界にスマホ、そうした新奇なものを理想の世界と位置付け(現実主義者の側で創作・意味付与し)、オタクたち(或いは若者)を引きこもりとし、現実(それは理想を措定した時に必然的に現れる対極)と向き合えと語る主義をこのアニメは引きずってしまっている。現代はむしろ、主人公が最後にわずかに語ったように、現実でさえ虚構であり理想であり多様なモザイクであり、我々は視野によって変わる多様な現実なるものを見極め、それぞれ選び取っていかなければならないのだ。もはや舞台は、そんな図式の当てはまらないところにある。