fuushin さんの感想・評価
4.1
物語 : 4.0
作画 : 4.5
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
本作を理解するために、原作を読みました。理解と納得と感動を得ることができて、とっても良かったです。
最初の印象は、14歳の少女を戦闘員にし、あまつさえ傷痍軍人として尊重されることもなく、その処遇を民間に委ねるという設定に対して、激しい憤りと嫌悪感を持ちました。
でも、これも設定なのでしょう。
次に、人間を「自動手記人形」と呼称せしめる設定に対しても同様の心証を持ちました。
「自動手記」などという言葉には人間が本来持っている高い精神性をひどく蔑む表現であると感じます。というか人間性の尊厳を激しく削りとられる印象を持ちました。ましてや、「オートマティック ライティング ドール」と無手勝流に解釈するに至っては、人間のもつ温かさを露とも感じられない表現ではないですか。もうぷんぷん噴飯ものです、こんなの。(自爆してる)
私的造語なら「同行手記支援、帯同手記援助、手紙作成代行」といった熟語の方が人間関係がよく見えるような気がするのですが。(でも、言葉の響きはセンスゼロですね。原作ではオートメモリードールでした。)
「ドール」という単語ひとつにも、女性の人間性を軽視し、さも安っぽい玩具に陥れるかのような意図を感じてしまい、心底、呆れ、辟易とします。
でも、これも設定のうちなんですね?
次に、ヴァイオレットのあまりの無表情ぶりに、もどかしいやら苛立たしいやら歯がゆいやらで、いたたまれなくなります。この娘、本当はロボットなのでは?などど要らぬ心配をしてしまうほどに、身の回りのことに気持ちが動かない。
でも、これも設定か。はぁ~。
次に、物語のあまりの平坦さに、この作品、ボツになることを狙っているのかしらと勘繰るほどに手ごたえを感じなかったこと。
一話完結、オムニバス様式、原作の順番の組み換えなど、それは制作側の演出なのでまあ良しとしても、視聴する側として残念至極に思えたのは、何といってもヴァイオレットのあまりに小さすぎる心情の変化です。もう、肩透かしを食らうというか、じれったいというか、もしかしたら保育園を駆け回っている年長さんの感情すら持ち得ていないのではないかと、本気で心配になるレベルです。
部分的にはヴァイオレットは感情をあらわにするのですが、そのいきなりで唐突な印象もまた、どうやって納めればよいのでしょうか。
でも、これも設定。ぐずぐず・・・。
次に、映像の作り方。
他のレビュアーさんも記されていらっしゃいますが、どうにもアンバランスを感じてしまいます。どういうことかというと、セオリーを無視している。視聴者側に快適な絵を提供していない箇所がいくつかあるのです。あまりにハイトーンだとか、白とび、黒つぶれを意図的に用いているような気がします。だって本当に見づらかったんですもん。
これは一体どういうことなのでしょうか。
きっと、これも、もしかしたら設定なの?
次に、音楽。特にED。
大概に不評のようですが、これも設定なのでしょうか。
商業的には、大成功!という路線ではなくなるし、売り上げとかはわかりませんが、不人気であるなら勿体ないなと思うところもあるのですが、この違和感をどう収拾するのでしょう。もしかしたら第2期で回収?あるいは何らかの手法でさらに昇華させるのでしょうか。
個人的には、それほど悪くないんじゃないかなって思っていますので、今後の展開にちょっと興味があります。
とまあ、いろいろ御託を論(あげつら)ってしまったのですが、最終話を観て私は考えがいくらか変わりました。
●まず、ヴァイオレットの年齢の設定です。
{netabare}
事実、世界にはシリアやアフガンやナイジェリアのボ〇〇〇ムや、もっと言えば第2次世界大戦のさなか、日本海軍の予科練生は出兵した最少年齢は16歳でした。
いずれにしても、子どものもつ無知無学、従順で素直な健やかさや大らかさ、純粋無垢な精神性を、大人の都合で戦闘員に仕立て上げてきているのですね。
ヴァイオレットの物語の設定に、現代社会の世相や過去の歴史を落とし込めば、全く皮肉なことですが、全然、ない話ではなくなってしまうのです。
YouTubeやNHKなどの映像作品、アニメ作品にもそれは観ることができます。
年端も行かない子どもたちが、爆撃や食糧難による飢え、銃火器の攻撃による四肢の損壊、愛して愛されるべき母や父や兄弟姉妹との死別・離別、性的暴力、粗末なテント生活、劣悪な衛生環境などによって呻吟している実態。
戦争弱者・災害弱者とよばれる人たちほど、戦争・戦闘・暴力・抑圧・差別の悪しき影響を激烈に受けています。それが世界の実相であり、そしてその延長線上に、ヴァイオレットの世界があるとしたら・・・もう何の否定もできません。
そうであるならば・・・いかに生き延びるかだけです。
最前線で銃を向き合えば、どんな理由も言い訳もなく、相手を殺さなければ自分が死ぬのです。間違いなく。
であれば、銃は何種類も手馴れておく方が有利。ナイフの取り扱いもそうだし、徒手空拳たる接近戦・肉弾戦も他人よりも長じておく必要があります。
古武道を嗜む身としてはヴァイオレットの武闘動作は道理にかなっていると思います。
実際、ゲーム化された競技では10代の若者が、いえ、ジュニア世代にも目を見張る能力を持つスーパーマンのような超人ボーイ、ガールが何人もいるわけです。彼らの判断力、行動力、完遂能力の高さは、常人のそれをはるかに凌駕しています。
ヴァイオレットにもそういう能力開発がなされ、統制された武器の一部としてマシーン化されているなら、本作で見られた有り得ないようなすばっしこい動きや、少女のイメージにそぐわない怜悧な判断力などに納得ができます。
そして何よりも少佐の命令こそが、明日の朝を迎えるための唯一の羅針盤であるのであれば・・・。ヴァイオレットが異様なまでに「命令を」とこだわった理由もしばし頷けるのです。
・・・悔しくて死にそうだけど、受け入れるしかありません。
{/netabare}
●次に、自動手記人形について。
{netabare}
ヴァイオレットが少佐の元で精鋭として任務を遂行すればするほど、ヴァイオレットの感情は不要になります。いえ、むしろ邪魔なだけでしょう。もしヴァイオレットにいくらかの人間性が残っていれば、敵対する相手の兵士の命の尊さにも思いを致さないわけにはいかないでしょう。そうなればトリガーを引くのにも、ナイフを突き立てるのにも、拳を叩き込むのにも、いちいち躊躇が生まれるし、それはもしかしたら少佐の元に二度と戻れないかもしれなくなる最悪の結果を生み出す恐れをもたらします。
ヴァイオレットは自らの体験から、戦場で何が最も必要なものであるか、その答えを導きだしていたはずです。
兵士における価値は、命令を受けて行動し、成果を出すことであり、死なないことと、相手兵士の戦闘能力を奪うことです。まさに戦闘するためだけのマシーン。命令に忠実な自動式戦闘員のようです。
ドールという呼称に感じていた嫌悪感も、むしろマシーンの語感を弱めるためにはベストな呼称ではないかとも感じてしまいます。悲しい。
他のレビュアーさんが書かれていましたが、ドールとは、クライアントの感情を受け入れるための空っぽの容器。容器なんだから、人格も感情も不要といった趣旨の記事がありました。私も同意です。代書業務としての任務に必要なのは、クライアントが伝えたい意図を正確に受け取ること、その意図を送付先の人に正しく伝えること。そのことに使命と専門性があるのであって、最も優先されるべきはドールとしてのヴァイオレットの表現方法としての技術・技能なのですね。それはあくまでもヴァイオレットの人間性や感情ではないのです。
一たび戦争が起きると、若い男性が激減することと、経済活動を女性が担う機会も増えるので、こういう職業もありなんでしょうね。
・・・淋しくて死にそうだけど、受け入れるしかありません。
{/netabare}
●ヴァイオレットのあまりの無表情さについて。
{netabare}
これはもう自明のことだと思いますが、前述のとおり、ヴァイオレット自身が選んだ結果です。戦争さえなければ、親や兄弟姉妹、親類縁者、友人知人と平和に自由に楽しく過ごせたはずのヴァイオレットでしょう。でも、彼女が生きているのは、忌まわしき戦火と暴力が支配し蔓延する世界でした。
ヴァイオレットは自らの意志で自分の大切なアイデンティティを削り取る道を選ばざるを得なかったし、恐ろしいまでの圧力で否応なく剥ぎとられていったはずです。喜怒哀楽も、笑みも、悲しみも、淋しさも、辛さも一切合切を捨てることによってのみ、自分の命を担保しようとしたと思うのです。
その結果、ヴァイオレットはターミネーターのようなマシーンとなり、お客様のご要望に従順に従い、どこへでも出かけられるドールとなっていったのではないでしょうか。
他のドールの実相は描かれていないので比較はできませんが、どう考えてもヴァイオレットのような戦闘員あがりのドールはいないように思えます。おそらくは、他のドールにはもっと人間的な表情と声と自然な振る舞いはたくさんあったのだろうし、できていたのだろうと思います。
そうでも思わなければ、ヴァイオレットの「分からないのです。知らないのです。」という言葉の理解が私にはできないし、納得もできないのです。
本当にやるせないのは、ヴァイオレットが、未だに戦場にこそ自分自身の能力を活かせる場所があると思っていること、少佐との熱くて生々しいやりとりにこそ、自分が生きていることを実感できるのだと感じてしまっていることです。
ヴァイオレットの目線と目力は、コマンドーとしてのスイッチと、ドールとしてのそれが別々にあって、描き方も違うように私には見えるのです。
・・・悲しくて死にそうだけど、受け入れるしかありません。次期新作での、ヴァイオレットの変化に期待です。
{/netabare}
●物語の平坦さについて。
{netabare}
これは、脚本の妙でしょう。
その理由はいくつかありますが、まず、ヴァイオレット自身の閉ざされた精神性と、職能上の専門性でしょう。
お客様は戦地ではなく平和と生命が担保されている場所にいらっしゃって、代書は淡々と進められるわけですから。
また、お客様が静かに穏やかに思索し考察し口述するのに、平穏と平坦さは何よりも必要な要素です。代書はお客様のご要望に沿う必要があるし、感情的になるのはお客様の思いの表出であって、ドールは議論することも意見することも必要ないのです。ただただ、穏やかな環境のもとで書き記し、書き起こした手紙の内容にお客様がご満足していただけたかどうかということが成功の証なのです。満足いただけない場合は書き直すだけなのです。決められた日数と、おそらく定められた料金の範囲で。
その結果、それを眺めている視聴者に伝わってくるのもまた、平坦な物語。
しかし、お客様の心情だけははっきりと伝わってくるのです。おそらくそのシーンがあるからこそ、視聴者は感動を得るのでしょう。でも、それはヴァイオレット自身の成長に対してではありません。ヴァイオレットが関わることによってお客様の心情が移ろうことを知ることができるからの感動です。
もし、ヴァイオレットの成長を感じるとしたら、それは代書能力の向上という職能上の技術の話なのです。そしてヴァイオレットは、自分に対してその能力を誇ることは決してしていないし、むしろお客様への奉仕としての報酬は、業務の完遂をもって納得・承服しているきらいがあります。
言うなれば、少佐の命令を完遂するがごとくに、多分に漏れずコマンドー的に見えます。
・・・忍ぶれて死にそうだけど、受け入れるしかありません。
{/netabare}
●次に、映像の表現について。
{netabare}
この意図的とも受け取られかねないアンバランスさをどのように考えればよいのでしょうか。実は、私が一番困ったのはここなのです。
京都アニメーションたるゆえんは、その表現方法の妙であることは自明です。おそらくどなたもが認める技術力。それなのにどうでしょうか。
いくつかの物語では、異様なほどにまで美しく、その表現力と印象の力強さ、細やかで豊かな色彩とディテールの凄まじさに何度も度肝を抜かれたことを打ち明けます。
ところが、白とび、黒つぶれの見苦しさ、見づらさ、見えにくさには、腹が立ってくるほどでした。
なぜ?どうして?何かのミスとは思えないですし、肝いりで発表され世界中に発信もされているわけですから、やっぱり演出上、意図されたものではないかと勘繰ってしまうのです。
誰か特定のキャラの目線なのか・・・これはよくある手法ですよね。
あるいは誰かの心象的な思いをフィルター効果として表わしているのか・・・これも京アニは得意ですよね。
しかし、度を超えているとしか思えないようなシーンもあったのです。
特に私は黒つぶれが気になりました。ヴァイオレットが銃禍にあった少佐と語り、別れるシーン。我が家のモニターのカラーバランスがばかになったのかと本気で心配したほどに黒つぶれになっていました。あれは演出だったのか。そうであれば、4K仕様だったのか、8K仕様・・否、やめておきましょう。一視聴者としてはただ鑑賞に堪えなかったということにしておきます。
とにかく、色指定の新しいチャレンジだった、ということにしておきます。
否、それよりも私が眼科に行くべきなのかもしれません。
・・・見えにくくて死にそうだけど、受け入れるしかありません。
{/netabare}
EDについては静観とします。
{netabare}でもCDは買っていないんです。ごめんなさい。{/netabare}
●雑感。
{netabare}
戦争という生き地獄から生還してきた少女の職業的リハビリテーション、そして人間性の回復(もしかしたら新規獲得?)の物語ではあると思います。
本来でしたら、子どもは人類の共通の財産であるはずです。にも拘らず、大人の勝手な理屈や都合で、子どもを人殺しの兵器として利用し、その人生と命を軽んじ、蔑(ないがし)ろにし弄(もてあそ)ぶ戦争は、現実にこの世界にも存在しています。
ヴァイオレットが少佐という心の拠るべき人物を失い、悲しみに打ち震えながらも、仕事を通じて健気に振る舞う凛とした姿に、痛々しさすらも伝わってきます。
各話の依頼主もまた、戦争とは無縁ではいられません。一見平和に見える依頼主の世界であっても、ヴァイオレットが赴けばその異形の手に否応なく戦争の影を見ざるを得ないからです。
本作は、超人的に戦闘能力に秀(ひい)で、躊躇なく人を殺していくヴァイオレットと、そんな彼女を必死で守ろうとする少佐を戦場の最前線に立たせることで、悍(おぞ)ましい戦争の非人間性と、刹那に生きることを強いられる若者の閉塞感とやるせなさを象徴的に示しながら、個人の力ではどうにも抗えない虚しさと儚さも同時に伝えてくれます。
最終話に至って、ヴァイオレットは鉄橋に身を躍らせます。爆死するかもしれない恐怖よりも勝(まさ)ったのは、代書の仕事を通じて出会ってきた人々の想いです。戦争によって悲嘆にくれる多くの人々の、慎ましくも平和な暮らしを願う人々の、人が人を想って流す、悲しみの涙、喜びの涙、怒りの涙、切ない涙。その姿を見てきたからだと感じています。
彼女に成長の姿を見るならば、その身を挺し、両の腕がちぎれてまでも守ろうとした行為こそ、少佐が託した「生きろ」という言葉の具現化であったとみてよいのではないでしょうか。
少佐の命令を求めて止まなかったヴァイオレットの心中に、少佐の命が宿った瞬間でもあるし、彼女の胸中に強く鼓動する確信的な礎がつくられた瞬間でもあったと感じます。
{/netabare}
原作を読んでみて、感じるところがあれば、もしかしたら追記するかもしれません。
2018.4.14追記。
原作読了しました。(上、下、外伝、1080ページ)
原作は、難しくはありませんが、一つ一つの吟味された単語、文章の工夫された表現方法、さまざまな行間のとりかた、ページ自体の心憎い演出、そしてとっても素敵な挿絵。どれをとっても読む楽しみと想像する楽しみを存分に味わわせてくれるものでした。
やはり、読んでみて正解でした。大きな収穫があったと感じています。
読後、アニメ以上に深く感情移入ができました。それからあたたかな感銘を受けました。そして、上、下、外伝の3巻から見た本作の位置づけがいくらか理解できました。
上、下巻では、その多くが本作に表現されています。(一部、アニメ化されていない章もありました。逆に原作にはなかった構成、演出がアニメにみられるシーンもありました。)
本作の最終回の終わり方は原作にはありませんでした。なので、やはり意図された演出。原作とは違うオリジナルのような印象を強く感じました。
一方で外伝は、本作では描かれなかった重要な要素がたくさん盛り込まれていました。2期(新作)に描かれるのでしょうか?わかりませんがとっても楽しみな気持ちになりました。
本作の戦争のシーンは、ヴァイオレットとギルベルトの関係性を決定づける必要不可欠なお話だったと確認できました。
また、各話とも、ヴァイオレットと依頼人の関係性を窺い知るうえでも、一つも欠かせないお話でした。
ヴァイオレットが彼らと関わりながら、その思いに耳を傾け、言葉を交わして、手紙にしたため、紡いできた様々な愛のかたち。
それに反してヴァイオレットが語る「愛してる・・・わかりません。」の言葉の意味しているところ。
原作を通読してようやくそれが理解できました。
同時に意外に思えた部分と、深く心が震え涙した部分もありました。
ヴァイオレットが愛を知るための旅路をここで明かすにはあまりに勿体なく、興を削いでしまうことになりますので、伏せておきたいと思います。
原作も本作以上に素晴らしい魅力を持っていました。ぜひとも、実際に手に取ってお読みいただきたいと思います。
本作は、他のレビュアーさんからも大いに影響を受け、たくさんの気づきがあり、深い印象を持つことができた作品となりました。
それは、私にとって大きな喜びになりました。レビュアーさんにあらためて感謝いたします。
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品が、みなに愛されますように。