fuushin さんの感想・評価
4.8
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 4.5
キャラ : 5.0
状態:観終わった
原始、女性は太陽であった。子どもは光であった。これから男は何をする?
映画館で視聴。
大橋のぞみちゃんと藤岡藤巻の歌が微笑ましくて、よく口ずさんでいました。
本作は、子ども向けの作品ですが、同時に、大人に向けてもいろんなとらえ方ができる作品になっていますね。
子どもには、「何だろう?と不思議に思う気持ち」、「好きになったり大切にしたいと思う気持ち」、「仲良しになりたいと思う気持ち」を持ったときに、背中をやんわりと押してくれるような作品になっていると思います。
大人にはどうでしょうか。
ジャンルは、ファンタジー枠かな。
もう一つは、「寓話」の枠になるのかな。
宮崎氏の作品の面白さは、作品ごとのテーマ性を探したり、秘密のキーワードの謎解きをしたり、それをいろいろに解釈できる自由さですね。
また、時勢や流行に流されない立ち位置や、普遍的な価値観とか、本質的な意味合いとかを訴求される心意気も好きですね。
自在に変化するテーマと多彩な表現、印象に深く残るステキなシーン。
本作も、安心のジブリって感じですね。
●本作の魅力。
{netabare}
●私は、『母性愛にもとづいた世界の変革の先駆け、胎動、希望、そして負託。』かなって思います。
本作は、子ども、女性、お年寄りが多くのシーンに登場します。
宗介は、5才の男の子。まっすぐ素直で、物怖じしないタイプみたいですね。
お母さんのリサは、デイサービスで働いています。果敢に大波の間隙を突いて自動車をブイブイ走らせます。灯台守もこなし、発電機だってへっちゃらで回します。
明るい性格で、賢く、知恵もある。責任感が強くて、勇気と決断力、行動力もあって、宗介の目を真っ直ぐに見つめて話しかけてくれる、とびっきりの優しいお母さんです。
お父さんの耕一は、家族想いの内航貨物船の船長さん。この人は仕事が忙しくて家にはなかなか帰れないみたいです。ちょっと脇役っぽいのが残念ですが、家族のことを想ってやまない優しい性格の人みたいですね。
宗介がかわいいなって思えるのは、だんなさんに会えなくなって、いきなり低気圧に様変わりして不機嫌になるリサを上手にいなしたり、お父さんと通信して、リサへのメッセージを伝えてなだめたりして、彼なりに心を砕いて両親の仲をとりもとうとする役割を、さりげなくも健気に果たしているところです。
それに、耕一との距離感を埋めるために、大人ばりに信号灯でコミュニケーションをとって、心のなかのバランスをはかっています。5才児でもモールスできるんだ。すごいな~。かっこいいな~。
おっとりしているように見えていて、実は器用に対処していく姿はなかなかサマになっています。しかも、先の先を読んでいるような賢さと、たとえ失敗しても折れない心の強さを持っているようにも思えます。
ちょっと大人じみていて、できすぎかなって思えるような仕草もありますが、「ヤレヤレ」とため息をついていそうな表情がとても微笑ましく感じられます。
宗介は、まるで、崖の上のファミリーの「子ども灯台守」のようですね。
本作は、子どもから見れば、「ボクも、ワタシも、宗介みたいにやればいいんだ。ちゃんと一人まえの子どもとしての立ち位置と役割があるんだ。」とごく自然に受け止め、感じ取れるようなシナリオになっています。
これは本当にステキなことです。
まあ、そうはいっても、子どものじんせいっていろいろあるでしょうから、本作にみられる宗介像は、「子どもにとっての灯台守」のような意味合いもあるのかもしれませんね。お手本は宗介ってことで、ね。
子ども向けの作品で、気難しい大人の捌き方とか、遊びながらお手伝いの力を獲得していくシーンを見るという機会はあまりないと思います。
その意味では、本作は、子どもにとっても大人にとっても、極上の一品だと思うんですね。
事実、日本の家庭では、お父さんは家にいないことが多い。
お母さんは一人で何役もこなしていて、子育てのストレスもたまっているかも・・・。
どこの家庭でもふつうに見られる家族像です。
お母さんもお父さんも、心のどこかでは、子どもには子どもなりの世界があって大切にしてあげたいと思っているだろうし。
でもかえって、ぼっち感を持つ子どももいるかもしれないし。
宗介も、一人っ子で、やっぱり淋しかったのかな?
{/netabare}
●ちょっと寄り道。
出生動向基本調査というものがあります。
{netabare}
●国立社会保障・人口問題研究所(厚生労働省本省に設置された国立の研究機関)が今までに15回実施しています。
2015(平成27)年版、第Ⅱ部 第2章 「夫婦の出生力」の項目で、夫婦の「完結出生児数」が示されています。
「完結出生児数」とは、初婚の結婚持続期間(結婚からの経過期間)が15~19年たっている夫婦に生まれた子どもの平均の人数のことです。
どういうことかと言うと、1990年代の後半に結婚した層の夫婦の子ども数(=最終的な平均の出生子ども数)を表わしていて、18才までの子どもが家庭に何人いるかということを示しています。
これによると、
第1回(1940年、昭和15年)4.27人
第2回(1952年、同27年)3.50人
第4回(1962年、同37年)2.83人
第6回(1972年、同47年)2.20人
第8回(1982年、同57年)2.23人
第10回(1992年、平成4年)2.21人
第12回(2002年、同14年)2.23人
第14回(2010年、同22年)1.96人
第15回(2015年、同27年)1.94人
・・・減っていますね。
次に、兄弟姉妹の「人数の割合」を見てみましょう。
(数字は左から1人、2人、3人です。0人と4人以上は除きました。)
第8回 (1982年、昭和57年)9.1%、55.4%、27.4%
第10回(1992年、平成4年) 9.3%、56.4%、26.5%
第12回(2002年、同14年) 8.9%、53.2%、30.2%
第14回(2010年、同22年)15.9%、56.2%、19.4%
第15回(2015年、同27年)18.6%、54.0%、17.9%
統計の有効データ数の一人っ子の人数をみてみます。
第8回は、1429人。9.1%で130人。
第15回は、1232人。18.6%で229人。
18.6を9.1で割ると2.04になりますから、一人っ子の割合は約33年間で2倍になったということ。
確実に一人っ子は増えていますね。
ついでに、「平成27年版、子ども・若者白書」によると、
0才~19才の人口は、おおよそ2224万人なので、単純計算(2224×18.6%)すると、414万人の方が一人っ子なのですね。(平成28年以降、若干の増加はあると思いますが。)
400万人を超える人数の子どもが、宗介の姿にご自分を重ねて観ていらっしゃるのかもしれませんね。
もちろん20才以上の一人っ子もそうでしょうね。
蛇足ですが、この『国立社会保障・人口問題研究所 第15回出生動向基本調査』の内容は、日本国と日本人の意識動向を知るという意味で、とても興味深く、読み物としてもけっこう面白いと思います。
お時間のある方はご覧になってみてはいかがでしょうか。ネットで簡単にヒットします。
宗介も一人っ子ですが、ウィキペディアの「一人っ子」にみられる「3 特徴。3.1利点、3.2欠点」の項を読むと、どちらにも属さない性格のようですね。
{/netabare}
●そんな宗介がポニョに出会った。ボーイミーツガール。さあ、物語が始まります。
ひょんなことからフジモトの科学技術(魔法みたいだけれど)が海の中に拡散します。
フジモトの努力もむなしく、グランマンマーレの知るところになり、ついにはリサとグランマンマーレの直接交渉にまで及びます。
そうして、ポニョの願いは叶い、崖の上のおうちのポニョになるのです。
おしまい。
めでたし、めでたし。
{netabare}
●ということで、本作は「風の谷のナウシカ」から始まる宮崎氏の作品、例えば、もののけ姫、千と千尋の神隠し、アリエッティなどにも同じようなファクターが織り込まれていると思います。
その集大成としての位置づけだと思います。
そのファクターは「人間と地球の共生」の讃歌です。
ナウシカとアスベルは1000先の未来、サンとアシタカは1000年前の日本、ハクと湯婆婆はカクリヨの湯屋、アリエッティは民家の床下。
彼らは、私たちの目の触れることのできない世界に生きていて、生老病死、喜怒哀楽を甘受しています。
その生きざまは、ときに激しい慟哭に苛まれ、またささやかな安息を得るという点では、私たちの人生と同等です。
この世界観は、氏のクリエイターとしての矜持であり、作品に込められた通奏低音だと思います。
本作にみられる「人間と地球の共生」を、『母性愛にもとづいた世界の変革の先駆け、胎動、希望、負託』というキーワードを頼りに、もう少し要素分解して、理解してみようと思いました。
本作では、「母性愛の代行者」が宗介とリサ、ポニョとグランマンマーレです。彼らの一つひとつの行動に、選択に、決定に、覚悟に、なんだかワクワクするような未来が含まれているようで、母性愛がじんわりと感じられました。
同時に、アンチテーゼ(*1)として、フジモト、トキ、クミコらを登場させています。
*1 「直接的に対照をなすもの」
彼らは、ポニョと宗介にまつわる出来事をたやすくは受け入れてくれません。ちょっとだけ困った人たちとして描かれています。
フジモトは、訳知り、物知りな大人としての立場。
トキは、迷信と妄想を吐き出すように語るお年寄りの立場。
クミコは、大人のようなおしゃまな児童の立場です。
子どもだったら、「おとこのひとってこえはおおきいし、むずかしいことをいってくるからイヤになっちゃう。」とか、「おんなのひとって、かんじょうでものいいはるんで、かなんなー。」とか、「おおきくなるって、きまりがたくさんあって、おもいどおりにいかないからおちつかない。」みたいに、悩みながら、戸惑いながら、受け入れていくことになるのでしょう。
大人だったら、「自分の利益に合致した科学や理論を優先させて、それを軍事力のように応用して、ゴリ押しをしてくる厚顔無恥で迷惑千万で剛腕すぎる痛い手法をとるあの人」とか、「旧態依然とした古い価値観や体質、既得権益に執着して、聞く耳を持たず、嘘八百で煙に巻いてくる気の毒なあの人」とか、「知識と教養を真摯に学ぶ努力を放棄して、感情のままに無責任に発言を繰り返す批評家ぶることを止められない寒いあの人」とか、そんなふうに感じるのでしょうか。(全部フィクションですからね。)
ですが、正直に白状すると、かような言い分に、自嘲しながら言い訳に用い、自己弁護に走る私がいます。
「そんなこと言ったって、だって仕方ないじゃん。だって世の中カンタンに変わんないじゃん。」と。
愛を実行することの難しさを、日々に実感し、ときに打ちひしがれて凹んでしまうのも、人生には必要なことだと諦めつつ、受け止めてきているのが当たり前になっている私なのです。
もしかして、すでに見限られている??
{/netabare}
●宮崎氏の趣意は何かな?
{netabare}
●本作を「寓話」という角度で切り取って本質を抜き出してみると。
「人間と地球の共生」とは、
対価代償を求めざる母性愛によって、生み出されるもの。
安心の気に包まれ育まれる子どもによって、引き継がれていくもの。
そういう価値観に優先順位を与えるべきではないか、とくみ取れるように感じます。
また、逆説的に切り取れば、
力をもつ者の傲慢に支配されていることへの風刺。
その者の愚昧に翻弄されていることへの揶揄。
偏狭に嬲(なぶ)られていることへの挑発。
という意味も内包しているように思えます。
それは世の中が、男性の都合と理屈で物事が進んでしまっていること、家庭が蔑ろにされているということへのおちょくりと痛烈な批判ではないでしょうか。
リサは、モールスで、「バカバカバカバカバカバカ」って打ちまくっていましたし。
さあ、人類の種の保存を、民族や国家による競争とか、勝ち負けとか、生き残りレースとかに委ねるのか。
誰かが誰かを、圧迫し、支配し、蹂躙し、収奪することに、見て見ぬふりをしていくのか。
さらに言えば、男性の男性たる所以(ゆえん)が「共生」の価値を汚し、その概念を歪めてしまっているのではないか。
宮崎氏の作品の中に、そのような意味合いがあるように感じます。
洋の東西を問わず、国が主張を通せば戦争が解決手段となっていたのは歴史が証明しています。
しかし、フジモト、トキ、クミコらに語らせている人間はどうでしょうか。
相変わらず、強い者勝ち、言い負かしたもの勝ち、フェイクニュース(嘘つき)を流した者勝ち・・・。
今も、様々な政治形態を持って統治している国々の解決手段としての軍事力の実態を鑑みれば、自らの国や民族どころか、地球上のすべての種を完全に消滅させられるだけの武力=自滅力を持っています。
そんな人類を、グランマンマーレはどんな思いで見ているのでしょうか。
宮崎監督が、多くの作品に女性を登場させてきたのは、対比としての男性が支配し影響をおよぼしている今の仕組みのあり様への疑問であり、注意喚起であり、警鐘であり、一部作品においては諦観と厭世でもあったと感じています。
哀しいかな、人類の一部は、未だに暴力による支配、経済活動による支配、思想やイデオロギーによる支配を手離していません。
その過ちをいまだに気づかず、歴史の証に学ばず、「それが男の生きる道」ばりに大手を振って世界を闊歩しているありさま。
男性主導で突き進む人類の持つ危うさが、地球そのものにダイレクトに不利益をもたらす蓋然性(*2)の高いことを訴えるとと同時に、ハッピーエンドにして、次代を担う子どもたちに夢を負託して引退を考えた宮崎氏の想いのにじみ出ている作品。
*2 ある事柄が起こる確実性や、ある事柄が真実として認められる確実性の度合い。確からしさ。
{/netabare}
●海の生き物をモチーフとして生み出されたのがポニョである以上、その立ち位置から、対極には地上の王である人間の「思想と叡智」に触れないわけにはいきませんね。
{netabare}
●
一つの到達は「公海」。そこには国境はないし、誰のものでもありません。
もう一つの到達は「南極」。どの国にも属さず、女子高生でも行ける、ん?
海も、南極も、厳然とした生態系があって、その本質は「共生」ですね。
生存の厳しい条件の下では、人間はもとより、どんな生き物でも生きていくだけで精一杯です。
その同じ土俵に立ってみること、「共生」すること自体に尊い価値があることを教えてくれるのが本作であろうかと思います。
ところで、人間は、生態系以上のものさしをずいぶん前から持っていますね。
{netabare}
●聖書の有名な言葉に、『人はパンのみに生くるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉による』(マタ4:4)があります。
「人はパンのみに生くるにあらず」。
これは、人という生き物は、物質的なものだけ(食べることだけ)に頼るものではないという意味ですね。生態系の頂点にいるのだけれど、それだけの存在ではないということですね。
「神の口から出る一つ一つの言葉による」。
これは、人は神の御言葉に養われて、初めて本当の意味で生きることができるという意味らしいです。
意訳すれば、親とか先生とか、親戚縁者とか、友人知人とかが、自分の足りないところ、気づかないところ、知らないところ、できないところを教えてくれたり、補ってくれたり、支えてくれたり、導いてくれたりする。そのときのことば(叡智。ノウハウ。宝珠。)の意味するところを深く吟味をして、成長に活かすことが大切だよ。」みたいな感じでしょうか。
(はっきり言って自信なし。)
叡智で言えば、思想・哲学・科学、貨幣や労働、契約と信頼といった高次な概念が人類の発明してきた「ものさし」ですね。
これらの要素は、人間を人間足らしめる必要不可欠な要素。ざっくり言えば「文化」です。
「文化」という切り口で、「人間と地球の共生」でもある「対価代償を求めざる母性愛によって生み出されるもの」、「安心の気に包まれ育まれる子どもによって作り出されるもの」を、もう少し単純化すると、その要素がもう少しはっきりとしてくると思います。
民族を超えて(種を超えて)お互いに「尊重」しあうこと。
自分の言葉と、手と、足の届く範囲で「参加」していくこと。
違いを認めつつ、共有できる価値観でつながり「共同」していくこと。
夢の実現まで、進行・停滞・紆余曲折をへながらも「運動」し続けること。
なによりも「平和」が最も尊く、地球も命も一つしかないこと。
この5つのキーワードが、「生み出されるもの、引き継がれるもの」の羅針盤のような気がしています。
{/netabare}
●地球には、子どもがいて大人がいて、女がいて男がいて、陸と海の生き物がいて、大気と日光があって。
宮崎氏は、「海のすべての生命体」をモチーフにして、ポニョとグランマンマーレという女性キャラに擬人化させて、母なる地球からのメッセージをわずかに語らせています。
ポニョは、宗介の近くにいたくて、ただ人間になりたくて。
自分が捨てなければいけないものがあることにも気づかないで。
グランマンマーレは、ポニョの願いに寄り添って、未来のために必要なことをリサと語り合って。
そうして、海と陸の生き物の共生の道を探っている。
お互いをリスペクトして、受け止めて、創意工夫しながら生き方を探っていく。
どんな未来がやってくるのか、それは誰にもわからない。けれど、ただ座して迎えるだけでは足らないのでしょう。
奇跡の出会いをキャッチし、夢を語りあい、その共感を手放さず、努力をあきらめず、困難にたちむかい、乗り越えていく姿勢が必要なことを、リサやグランマンマーレが教えてくれる。きっと導いてくれるのでしょう。
それは、きっと大人の責任なのでしょう。
これからも、もう少し。
きっと、まだまだ。
その道を歩む主人公は、ポニョと宗介。そして世界の子どもたちです。
{/netabare}
●とってもメルヘンチックでドリーミー。ステキすぎるラブリーでハートフルな寓話でした。
長文をお読みいただきありがとうございました。
この作品が、皆に愛されますように。