fuushin さんの感想・評価
4.7
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 4.5
音楽 : 5.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
身を切るほど、心を焦がすほどに堪えました。
新海誠氏の恋模様三連作。
初見は、とっても心を痛めました。
本作は、「ほしのこえ」や「雲の向こう」とは違い、設定が日常寄りということもあって、感情移入がしやすかったためか、結果的に前2作で感じた以上の強いインパクトを受けました。
心を砕かれてしまった、というべきでしょうか。
●観終わっての感想
{netabare}
< 小学校 >
{netabare}
ふたりで過ごす 図書館の
めくるページの 音かすか
余いんかさねて やわらかに
カーテンの外 あたるひに
桜のえだは 色おどる
春さきまちが うれしいの。
かなえられない 約束の
たが(違)えに謝罪 交わすけど
クヤシイヨって いっていい?
ヤリキレナイと ないていい?
納得なんて 分からない。
つもる想いは どこゆくの?
つまる思いも 消えてくの?
記憶の海の 水底(みなそこ)に
卒業(わかれ)めのあと 沈め置く
・・・あら、あらあらまあ?いつの間に妙なリズムの節回し
こんなはずではなかったわ。恥ずかしいったら、ありゃしない。
でも嘘じゃない。本当よ。
・・・心根深く堪えたの。
{/netabare}
< 中学校 >
{netabare}
文通。そう。文通!!
鎮魂の日々 綾も褪せ
駆ける校庭 弄ぶ
翳る無辺を 灯す文
行間の聲 耳たてる
春さやかなる 路線図を メモ取る視線
途切れたる 君知らぬ季節(とき) つなげたい
君にまっすぐ 向かいたい。
あなたを静かに思いやる気持ちに気づいた私です。
引きあい、魅かれ、惹かれあい、求める光のあたたかさ
二人の心中(なか)に産まれたよ。
抗(あらが)うことなど、どうしてもできなかったの。
これは、恋?
サクラ花びら待ちわびて、その色淡く、記憶(とど)めおく。
芽吹いた若葉の身の内に、深く突き刺す棘ふたつ。
少女と少年の縁(えにし)、問う。
チクリと疼く、瘡(きず)の痕(あと)。
それは、さわれず、ふれられず
誓った小さな約束を、大きく損ねた不条理が残した禁忌のはずだった。
自責の念の重さから、冒した禁忌でもあった。
・・・あらら?まただわ、なんなのよ。
どうかしてるわ、このレビュー。
{/netabare}
< 貴樹 >
{netabare}
真白に埋もれた両毛線
ゴトリゴトリとかき分けて
進まぬ車輪のもどかしさ
荒(すさ)ぶ北風、混じる雪
前照灯を遮って
デジタルの文字、意味失せる
闇世(くらやみ)の中、ぽつねんと
身を固くして独り坐(ざ)し
迫る悪意にくだかれる
虚しさつのる 往き先は
居ても淋しき その駅舎
居らぬ駅舎は、なお哀し
{/netabare}
< 明里 >
{netabare}
なのに・・・。
いつしか、もう一度、ただ逢いたくて、あの人の悲しみ慰め、あの人の苦しみいたわり合いたいと、願う確かな想いなの。
あなたの瞳に、もう私、嘘はつけない。
渡したい手紙があるの。
進みゆく時計の針に、追いつかぬ列車の窓に捜してる。
発車のベルに、俯(うつむ)くの。
それでも待つわ。
それほどにあなたの聲を聴きたいの。
平気。そんなの。
震えてもあなたのその手に触れたいの。
やさしいあなたの瞳(め)を見つめ、私の手紙(ねがい)を伝えたい・・・。
{/netabare}
< 岩舟 >
{netabare}
駅舎より 白雪(しらゆき)踏み分け やまに入る
夜半見仰ぐ 桜には
蕾 一片 (つぼみ ひとかけ)だになくて
花弁舞い散る 身代わりは
雪、深々(しんしん)と 白く降る
春待つ君の 望むもの
柔き人肌 温かき
桜のくちびる 求めつつ
ひと夜を過ごす 夢世界
語らうことばの 尊さに
いずれも恋の 意味知らず
絆を紡ぐ 術(すべ)もなく
怖気つくまま 立ちすくむ
今より時を 止どめかし
遠い未来を 凍らせて
真白き鉄路を 一人還(ゆ)く
佇(たたず)む岩舟駅 独り
{/netabare}
< 花苗 >
{netabare}
私、驚いちゃったんだ。
こんな出会いがあるのかな。合格だって嘘みたい。
私、分からなかったんだ。
こんな時や、あんな時。だって顔から火が出るよ。
いつも半分隠れてもあなたは全部知ってたの?
私の育ったふるさとをあなたは好きになれたかな。
青い空気を吸うことも、雨に打たれて帰るのも、何でもないと思ってた。
ううん、何でもなくないよ。いつでも、どこにいるときも。
私のハートの真ん中をあなたの放つ矢が飛んで射られるようでドキドキを
いつも思うの。感じるの。
そんな想いがしあわせで、夜具にやさしく包まるの。
月がしずかに見守るの。
私、ようやく気づけたよ。
あなたの軌跡は高すぎて、面影にさえ届かない。
あなたは、どこに旅立つの?
あなたの瞳は、だれ瞰(み)るの?
どんなに背伸びしてみても、波間の先には昇れない。
海と空とは一つなの。
空だけ見つめることなんて、海から離れることなんて、できないことだと分かったの。
あなたはメールと翔け上がり、私は泪(なみだ)の海に嗚咽(な)く。
{/netabare}
< 私 >
{netabare}
そうそうなにより劇伴が
凄まじくて心ノ臓
撃ち抜かんとせん圧力よ
耳の中にぞ残響を
体の内には震撼を
心の琴線、ギリギリと
涙腺深く抉(えぐ)りだし
痛む心も極まれり。
私のかつての悲しみと、苦々しさがさめざめと、
ありやかなまま浮かびきて、ついと逃避したくなる。
荒ぶる気持ち、ようやくに
抑えに押さえ、組み伏せて
1時間(いっとき)余りの映像の
旅を何とか・・・・・観終わせる。
えい、もう、こうなりゃ、うたを詠み
レビューを終わってやろうじゃん!
お耳汚しでごめんなさい。
笑ってやってくださいな。
{/netabare}
<桜花抄>
{netabare}
戀の作法の 至らぬに
千々に絡まる 乱れ髪
碧き髪にぞ 触れおりて
重ねたキスの 温かさ
桜の花の 舞い散るを
いつの日駆けた 通学路
少年の眼の 堅固さを
少女の笑顔の 優しさを
ただ見つめおる 桜花抄
{/netabare}
<コスモナウト>
{netabare}
朧に陰る 宵の口
傍(そば)の面影こそ 誰ぞ
未知の宇宙(そら)ゆく ロケットの
コスモナウトの 何か視ん
波のまにまを 乗り切るも
疾(か)ける風音 涛飛沫(なみしぶき)
懸(か)けられぬ声 祈るのみ
種子島の空 ただ蒼(あお)く
種子島の海 ただ碧(あお)し
乙女の朱(あか)は 青に散る
{/netabare}
<秒速5センチメートル>
{netabare}
梳(と)くに梳けない もつれ髪
結(ゆ)うに結えない 隔たりを
千(せん)のメールは 哭(な)きにけり
己が背向けて 振り返り
道の見えぬを 知り置きて
めぐる大人の 邂逅を
踏切 桜 散らすなり
秒速の戀 儚しき
指切り拳万(げんまん)5センチの
触れえぬ小指(をよび) その丈も
心の襞(ひだ)の 合わせざる
掬わぬ瞬間(とき)に たゆとうて
順(まつろ)うて往く 旅立ちか
{/netabare}
ちびっとだけ、解説っぽく。
{netabare}
梳くは、説く、解く、得に、掛けました。
結うは、言う、勇、憂に、掛けました。
をよびは、小指(こゆび)の古い読み方で、をゆび、とも読みます。
ここでは、"(小指ほどのささやかな長さの距離であっても)触れえぬを(触れることは叶わないいのだけれど、それでもあなたに)、呼び(かけてみたいと思うの。でも、そんなことを思うことすら心が辛くなってどうしようもなくなるの)" という想いを言い含めてみました。
二人の心のうつろいが、小指のほどにも触れられず、絡めることもできないで、乗りこえられないやるせなさ。そういうさまを込めました。
また、"その丈(たけ)" は、竹(たけ)と、猛(たけ)、二つのことばを掛けました。
どんなにしても近づけない丈を心の距離として、また、若竹のごとくしなやかに、節を乗り越え、真っ直ぐに、伸びていくさまの必要な意味を含めて込めました。
男も女も、秒速で、丈を詰めて迫るなら、猛々しくある強い意思、そんなさまさえ必要な意味を滲ませ書きました。
" 合わせざる " から" 掬わぬ "も、ちびっと意味を掛けました。
心の襞は、垂れ衣(ぎぬ)のように面(おもて)にまとわって、見つめ合わせぬその瞳、逢わぬ恋路に陰を挿す、合わせられない恋しさは、縁(えにし)の寄らぬ "もどかしさ" 、愛(いと)の撚れない "よわさ" です。
" 合わせざること ≒ 逢うことの叶わぬ " 聲の か細さを、阿波と淡路を断ち切って轟轟と鳴る渦潮の消えては浮かぶ渦の沫(あわ)。時の満ち欠け恋もよう彩る絵図も合わなくて、泡立つふたりのみちすじが鳴り生り成りて行きつくは淡き艶(いろ)だに逢瀬の間。
襞に隠れた恋心、掬わでなぜに救えるか。ジュブナイルの君、儚しや。
こんなそんなで合わせざる心の襞の間(あい)さにも、ちびっと意味を込めました。
そしてまた、素敵な人をぼんやりと見逃すものなら、目の前のチャンスも掬いあげられず、時の流れの浮き沈み、浮き身のまにまに現世(うつしよ)を、ただ茫洋と彷徨って、標(しるべ)も寄る辺もないままに、一人旅にて歩む道、そんな男女の生きざまをちびっと詠んでみたのです。
おそまつさまでした。
というか、超恥ずかしいじゃんね!
一首。
これ観る人の心情によっては、如何ようばかりとも評価されうる作品か。
{/netabare}
{/netabare}
●作画についての考察。(ちびっとだけ真面目に書いてみた。)
{netabare}
★
低徊趣味
{netabare}
本作には、夏目漱石の作風がちらちらと顔をのぞかせます。
新海氏が文学部で学ばれたことを思えば、当然のことなのかもしれませんね。
そこで、漱石を取り上げつつ、作画について考察してみます。
『夏目漱石。1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)』
近代日本文学における漱石は、『世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(*1)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派』と評価されています。
英国(イギリス)に渡航した際には、日本の国情や文化、国民性や精神性などの違いを目の当たりにして、神経を病んで部屋に閉じこもりました。帰国後も、神経衰弱や胃病、糖尿病などの疾病に苦しんだりしています。そして49歳で吐血して亡くなっています。
代表作には、「坊ちゃん」「吾輩は猫である」「こころ」などがあります。
本作で、高樹が明里に渡した本は「こころ」でした。この作品、『人間の深いところにあるエゴイズムと、人間としての倫理観との葛藤が表現』したものでもあります。
(*1)低徊趣味(ていかいしゅみ)
漱石の造語です。
「是は便宜の為め余の製造した言語であるから他人には解り様がなかろうが、先ず一と口に云うと一事に即し一物に倒して、独特もしくは連想の興味を起して、左から眺ながめたり右から眺めたりして容易に去り難いと云う風な趣味を指す」。(高浜虚子著『鶏頭』序、より引用。)
簡単に意訳すると、「細部にこだわり、印象深く、忘れがたいものとして描写するということ」の意味合いのようです。
「ほしのこえ」、「雲のむこう、約束の場所」、「言の葉の庭」、「君の名は。」などの作画に込められた " 描写の美しさ " の要素を分解・還元していくと、" 綺麗、緻密、繊細、細密、精細、微細、空気感、静寂、躍動感、風光明媚、神秘性・・・" などなど、さまざまな語句を挙げられます。
新海氏の、こうした作画表現の豊かさや、麗しさへの並々ならぬ拘りと力の入れようを見るとき、それは漱石の低徊趣味を彷彿とさせます。
氏の映像クリエイターとしての矜持は、私には、漱石のいう " 低徊趣味 " という思想・哲学がありやかに反映されているように感じます。
また、後述する漱石の「文学論」にも、その思想性が著されているように感じます。
{/netabare}
★★
猫
{netabare}
漱石の人気作に「我輩は猫である」があります。
もうひとつ、「我輩はお先真っ暗の猫である」という作品があります。
これは「吾輩は猫」のパロディもので、漱石自身の作品(絵)です。ネットにもアップされていますのでご覧になってみてはいかがでしょうか。なかなか面白い絵です。
漱石は " 猫 " によって出世したようなものですが、新海氏の初期作品の『彼女と彼女の猫』は、そうした漱石へのオマージュなのかもしれません。
『彼女と~』には、新海氏がお持ちになっていらっしゃる " 猫の目線から見た、21世紀の新しいアレンジメントとユーモアと、人間との関わりへの溢れる優しさ" とを感じるのです。
また、「吾輩は猫である。" 名前はまだない "。」の一節は、「君の " 名 " は。」にも通じているようで、クスリと笑えます。
{/netabare}
★★★
漱石の「文学論」
{netabare}
F=f。
漱石の「文学論」(1907年)によると、"F" は「認識的要素」、"f" は「情緒的要素」と呼んでいます。
"F=認識的要素" は・・・
例えば「こころ」では、襖で仕切られたり、廊下で切り離されたりという表現があります。(君の名は。でも多用されていましたね。)
桜花抄では、「桜」、「雪」、「風」、「列車」。
コスモナウトでは、「雲」、「学校の駐輪場」、「紙飛行機」、「ロケット」。
秒速5センチメートルでは、「携帯電話」、「メール」、「踏切」。
これらの事象が、認識すべきキーワードとして多用されていました。
つまり、"F=認識的要素" ですね。
"f=情緒的要素" は・・・
例えば「こころ」では、「疎外感、無常観、不信感など」。
桜花抄では、「待望感、疲弊感、焦燥感、不条理感など」。
コスモナウトでは、「漂泊感、虚無感、喪失感、不遇感など」。
秒速5センチメートルでは、「倦怠感、無力感、切迫感、隔たり感など」
でしょうか。
このような心情や情緒的な感情の側面を、"f=情緒的要素" というのでしょうね。
事象と心情。物体と情緒。こうした二つの要素の関係性が、漱石の言うところの "F=f" の相関関係というものでしょうか。
(解説は、はっきり言って自信なし。ひたすらに<(_ _)>)
漱石が「文学論」を著述してから、今年で111年。
多くの日本人は、無意識に「文学論」的な観点で、文芸作品に親しんでいます。
プロの物書きも、業界人も、玄人はだしも、ビギナーも、みんな漱石のいうところの "F=f" の相関関係を、しっかり消化・吸収しているみたいですね。
今では、目が肥え過ぎちゃって、次の展開を予想して、当たったと言っては一喜し、外れたと言っては一憂するのも、世相が平和、心が安寧だからでしょうね。
尊いのは、最初に漱石がこれを説き、執筆していることですね。
ちなみに今でも「文学論」は本屋さんで購入できますし、新鋭の研究者もいらっしゃるので一読されてもよろしいのではないでしょうか。今までにない新しい視点や解釈が得られるかもしれません。
私も漱石の「文学論」(岩波文庫版)を図書館で借りて読んでみましたが、難読でした。なんだかとっても難しい。
さて、新海氏の描く " 超絶的な作画風景の描写 " は、観ている方の心象風景に、いかにも自然に重なり、溶け込んで、ゆるやかに共鳴させながら、やがて大きな残響・残照となって心に刻まれていきます。
具体的に申し上げれば、言の葉の庭の「雨だれ」、君に名は。の「東京の街風景」、本作の「桜」などは、その単体だけでは、"モチーフの一つ" に過ぎません。
でも、その作画を限界にまで磨き上げ、究極的に精緻にし、かつ多面的に、多角的に描き出すことによって、"F=f" を成立させた。
その結果として、生みだされた心地よさが、作品に、甘くふくよかな余韻を与え、たおやかな風韻とともに、感銘さえも生みだします。
これが、"F=f" の応用、ということでありましょう。
本作をご覧になって、心が何かを感じ、いくらかでもざわめく感覚をお持ちになったのであれば、作品に込められたメッセージに気づかれ、豊かな情感(喜怒哀楽)を獲得することができたといえるのではないでしょうか。
漱石の文学論を彷彿とさせるような、極めて文芸的で、溢れる情緒性を前面に打ち出したアニメーション作品、新海ワールドの開花。そう感じました。
{/netabare}
{/netabare}
●EDについて
{netabare}
音楽のことはよくわかりませんが、哀愁と悔恨、とどかない願いの切なさを強く訴えかけてくる感じですね。
終幕を見事に括る、とてもいい詩と曲だと感じました。
心底、堪えました。心底、堪りません。
{/netabare}
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品が、皆に愛されますように。