「ヴァイオレット・エヴァーガーデン(TVアニメ動画)」

総合得点
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ランキング
6
★★★★★ 4.2 (2564)
物語
4.1
作画
4.5
声優
4.1
音楽
4.1
キャラ
4.1

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ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★★ 4.3
物語 : 4.5 作画 : 4.5 声優 : 4.5 音楽 : 3.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

人形〈ドール〉という鏡

【視聴完了して追記】

ずいぶん前に、業務の都合でしばらくタイプライターを打たなければならないことがあったのだが、今の若い人でもタイプを見たことはあるのだろうか。
『ルパン三世』のサブタイトルが、一文字づつガチャガチャと打ち出されるのが何をモチーフとしているか分らないという若者に会ったことがあるが、これでジェネレーションギャップも少しは縮まるだろう。

タイプライターを打つ事は、ワープロなどのパソコン操作よりも、不思議にオフィス機器の一部になったような感覚が強く、自動手記人形=ドールという名称にいかにもふさわしい。


戦場の道具としての生しか知らず、「人間」としての内実を欠いた主人公が、手紙の代書という職業を通じて「人間性」の回復を遂げてゆく様を追う物語。

中盤までは、様々なクライアントと対面して代書の依頼をこなしながら、主人公の内面を激しく揺さぶってゆくダイナミックな心理描写は無い。

空虚な内面を一気に刷新するような、主人公に「心」を吹き込むような性急な展開は無く、クライアントの問題を解消する職業上の成功だけが描かれ、主人公側から見たドラマの盛り上がりに欠けているように見える。
が、手紙という「心」を伝える手段に触れることで、「人間性」を「学ん」で「成長」する、といった直線的な作劇は意図されてはいないことは、代書人に対して「自動手記人形」=人形〈ドール〉という名称を設定したところに現れているように思う。


「人形」は、内実のない、外形だけの存在だ。
にもかかわらず、人が人形に魅かれるのは、見る者が、人形に何かを投影するからだろう。
人形に魅力を与えているのは、見る者のまなざしの方なのだ。
人の「投影」を挑発するものとして、ピグマリオの昔から、人形は人の視線を吸引する。

アニメの文脈では、無表情・無感情系のキャラクターに、人形の挑発性は引き継がれている。
こうしたキャラの代表例が『エヴァンゲリオン』の綾波レイだろうが、ブームのさなかに大量の成人向け二次創作アンソロ本が出版されていたことが思い出される。
星の数ほどの大量の綾波の性行為の描写は、本来は「人間」ではないアヤナミを、セックスを通じて強引にでも「人間」として了解しようとする欲望ないし祈りの様で、興味深かった。

「人形」じみたキャラは、鏡のように同人作者たちの「人間」性を挑発していたのだと言えるかもしれない。


本作の主人公が、クライアントの問題を解消して満足を与えるのは、人形〈ドール〉の主人公が仕事を通じてクライアントの「人間性」を「学んだ」からではない。
空虚な「人形」であるからこそ、鏡のようにクライアント自身を映し出したからだ。

何かの心理テストか心理療法のように、映し出された「自分自身」と対面したことで、クライアントは自身の問題を解消して、心理的な再建や前進を果たす。
人形〈ドール〉でなければ、クライアントに「救済」をもたらすことはできなかった。

眼前で再生するクライアントの変化を目撃することで、主人公は少しづつ人間性に触れることになる。
確かに、内面を揺さぶるダイナミズムは無く、作劇は平板に見えがちだが、「成長」を「学んで」済ませてしまう安易さを回避しているともいえる。


人形という鏡に映る自己と対面して回復したクライアントたちの描写は、主人公が「人間性」を回復するには、いずれ自己との対面が待ち受けているだろうと予感させる。
自身と対面するとき、その自己は、もはや人形〈ドール〉ではありえない。
その時に生じるのは、人間性を獲得する「成長」ではなく、本来持っていたものの「回復」ということになるのだろうか。


{netabare}そしてついに、終盤で、上官の「死」の受容を契機として、主人公は自己と向き合う。

クライアントをクライアント自身に直面させた自らの「人形」性は、自分から人間性が剥奪されていた為にもたらされていたのだと。
直面するべき「自己」を自覚した主人公は、もはや「人形」ではいられない。
「人間」へと復帰するとともに、人間であれば当然に避けられない「痛み」もまた、主人公へと返還される。あたかも「人形」から「人間」への生みの苦しみのように。


それにしても、キャラが変化したり何かを獲得するに際して、一律に「成長」と了解するのはいかがなものだろうか。
人形から人間へと至る道筋は「成長」だけではないし、人間になることが「前向き」な「成長」であるとは限らないだろう。

ここで自己と向き合った主人公が「痛み」に曝されるのは、「成長」に伴う「成長痛」ではない。

奪い取られていたものが「回復」された、その急激な一挙性が、劇的な「回復」が激しい痛みとして現れている。

人間性は、主人公に最初から存在していなかったのではなく、社会や戦争が、具体的には行政機構の保護の放棄と軍隊組織の強制が、主人公から「奪って」いたものだ。

「奪われた」ものが回復されることが、どうして「成長」と同一視できるだろう。
人間性は「成長」によって手が届くようになったのではない。取り戻されたものだ。
ましてや、発達障害が社会適応することとも、何の類似性もない。

上官の「死」を受け止めきれずに泣きじゃくる主人公の姿が、ひどく子供じみた印象をもって描かれるのは、人間性に「目覚め」た「成長」ではないと示しているようだ。
幼女へと退行したかのような描写は、「剥奪」された「その時」へ回帰することで「回復」が始まる過程を表していると思える。


主人公を「人形」にまで追い詰めた人間性の剥奪は、主人公だけに刻まれた「傷」ではない。
戦争を通過した同時代の人間の全てが、多かれ少なかれ、剥奪された「傷」を抱えているのだと、郵便社の社長は語る。

別の言葉で言えば、同時代の全ての「人間」は、いわば多かれ少なかれ「人形」化されてしまったと、言い換えることができる。
人形〈ドール〉の主人公は、その剥奪の大きさによって「人形化」を具象化しているのであり、「一般人」と隔絶した特殊な存在ではない。
見かけ上周囲から浮いて異質に見えようとも、「人間性を剥奪された人形」としては、主人公とすべての作中人物は、質的に等しい。

だからこそ、欠落した自身に向き合い自己回復させる特権的な「鏡」としてクライアントの前に立ち続けるし、同僚社員たちは他人事として主人公を撥ね退けることができない。

そう、主人公の自己回復の物語は、作中人物全員の自己回復を代表するものでもあるからだ。

アプレゲールである同時代人たちの象徴としての「人形」=主人公の救済が、同時代人すべてを象徴的に救済するだろう。


人間性を回復し、「人形」との距離感を自覚するようになった主人公にとって、「軍人」の見え方も変わる。

近代国家の「軍人」は、もう一つの「人形化」の典型だ。

徴兵された市民から人間性を剥奪するのみならず、「投影」された国家意思を焼き付けて、あたかも自身の自由意思であるかのように思い込ませる「操り人形」
『フルメタルジャケット』の新兵教育キャンプを想起すればよいだろう。

完璧に空虚な「人形」性によって、あらゆるクライアントの「投影」を引き受ける一種の無指向性に比べ、国家意思を焼き付けられる「操り人形」性は、単なる人形化に比べてさえ、なお非人間的だ。

和平反対派の軍人に対して、その「操り」人形性に対して無自覚な人形たちに対して、回復された人間性をもって「人形」を対象化する地点に至った主人公は、(こちらも無自覚に)敵対せざるを得ない。

誰も殺したくない、という主人公のセリフは、主人公の自覚している感情を超え、平和が一番=戦いはよくない=人殺しはいけない、といった正義の名を借りた思考停止にはとどまらない。

主人公の主観的な気分とは別に、個々の「人形」を壊したところで「投影」されて焼き付けられた「もの」を倒すことにはならないからだ。
あらゆる「投影」をゆるす徹底した空虚としての「人形」が、特定の「焼き付け」以外の投影を拒む半端な「人形」性と対決する。
単に「人形」を「破壊」したのでは何もならない。それでは国家意思を焼き付けた「操り人形」を戦場へ使い捨てた「もの」と同じことをしているだけだ。

誰も殺したくないと叫びつつ和平への妨害を排除しようとする作劇は、このように、無前提にヒューマニズムを絶対視する「感動」劇というよりも、「人形」性において人間性の回復をもくろんだ基本設定から導かれているように思える。


こうした物語に、主人公が何かを「学ん」で「成長」するストーリーラインが見つけられないのも当然だろう。
明らかに、「手紙」という人間の「心」に触れて人間性を「吹き込まれる」展開を意図しているようには見えない。
あらかじめ無いものを探して「どこにも無い」と言いつのっても、視聴は豊かにならないだろう。
サプリメントの効能を求めるように、「泣ける」「感動する」といった効能を求めて視聴するのは、少しもったいない気がする。


「成長」は、あえて言えば、主人公が「人間」へと復帰した、その先にしかない。
それは、クライアントの「鏡」としての「人形」として「振る舞う」ことで自身の職業を全うする終盤のエピソードの「職業意識」に、そしてエンドマークのその先にある、「普通の」人々と同じ当たり前の人生の中にあるのだろう。{/netabare}

投稿 : 2018/04/06
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サンキュー:

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