「宇宙よりも遠い場所(TVアニメ動画)」

総合得点
93.8
感想・評価
2810
棚に入れた
9785
ランキング
12
★★★★★ 4.2 (2810)
物語
4.3
作画
4.1
声優
4.2
音楽
4.1
キャラ
4.2

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

Girls, be ambitious. 青春の1ページを記すに相応しい等身大で骨太な良作です。

オリジナルですが、毎回ごとにドキドキ感が高まるし、観るたびごとにワクワク感が沸き上がってきます。

私は「南極物語」と「南極観測船ふじ」を頼りにしながら観ています。
それから、北アルプスの山岳での体験(マイナス17度程度ですが)もイメージしています。

南極物語は、『1983年(昭和58年)公開の日本映画。 南極観測隊の苦難とそり犬たちの悲劇を描いてい』ます。当時としては大ヒット作品でしたのでご覧になっていらっしゃる方(動員1200万人)も多いかと思います。高倉健さん、渡瀬恒彦さん、夏目雅子さんなどのキャスティングで、実話に基づきつつ演出を加え、とても印象的で素晴らしい作品でした。
一言では言いきれませんが、敢えて言えば「真っ向勝負している骨太な作品」です。

「南極観測船ふじ」は、初代観測船「宗谷」に続き、2代目の観測船です。
【1965年(昭和40年)から18年間という長い間、南極観測のための砕氷船として活躍していました。全長は100m、砕氷能力は、厚さ80cmまでの氷は連続砕氷可能。今は役目を終え、1985年(昭和60年)からは「南極の博物館」としてガーデンふ頭(名古屋港)に永久係留されています。実際の展示では、現役で活躍(航海)していたのころの姿を、そのまま再現した船内の様子や南極の自然や観測の意義などを紹介しています。
この船の構造や輸送手段としての役割、南極観測事業を理解していただけます。正しい海事思想と海への限りないロマンを感じていただき、生きた教材として、ぜひ「ふじ」を体験してみてください。】です。
(名古屋みなと振興財団より一部抜粋しました。)

一度の見学で全部はわからないので何度も行っています。なので観測船にちょびっとだけリアルなのです。

おまけ。
{netabare}
ちなみに、ガーデンふ頭には南極犬タロ、ジロの銅像もあります。
ふじの入場料金は300円(小中学生は200円)。
JR名古屋駅から名古屋市営地下鉄名古屋港駅まで約30分、片道270円です。ぜひぜひ!
{/netabare}

この作品、とんでもなく「シュール」です。正直、あり得ないほどの違和感です。
でも、観測船に女子高生が「いる」という設定は「あり」だと思います。
理由はとっても単純なんです。「Girls be ambitious.」 だからです。
その言葉の意味を信じたとき、作品に入り込んだとき、「よりもい」がいきなりフィクションからリアルに思えてしまうから不思議です。
彼女たちのいる場所と、言葉と、表情と、物語のすべてを「リアル」に感じています。だから全く違和感なく「今、4人がそこにいる」と感じます。

高所登山ですらイモトがバラエティーにしてその様子をお茶の間に届けている時代です。
「誰にもできない、女子高生になんてできっこない」。そんな下馬評や「ガラスの天井」はぶち壊してほしい。
(ガラスの天井とは、『資質又は成果にかかわらずマイノリティ及び女性の組織内での昇進を妨げる見えないが打ち破れない障壁』のことです。ヒラリークリントン氏も言っていたような・・。)

★9話は「歓喜のざまあみろ」の回でした。
{netabare}
「何もできない高校生じゃない!」っていう自分の言葉に確信を得たからなのか。
はたまたそこでしか得られないキラキラのアイデンティティを一つ獲得したからなのか。
それとも彼女らと乗組員たちの共通する思いとして、9話までに至るまでの努力してきた汗水への自信と肯定だったのか。
あるいは、10話以降の物語への夢と希望を込めた勇気の鼓舞だったのか・・。

「ざまあみろ」にちょっと引っかかったので調べました。

「失敗したさまの醜(みにく)さを知れ(=失敗した醜いさまを自分で見てみろ)」という意味の『様を見ろ(ざまをみろ)』という言葉がある。ここから『様を見ろ』は人の失敗をあざけっていう言葉としても用いられた。ざまあみろは、この『様を見ろ』が音的に崩れたもので、同様に人をあざける際に用いる言葉である。」(日本語俗語辞書、ネットより引用。)

この意味をこのシーンで使うなら、誰も失敗をしていないので不適切なように思います。敢えて言うならば、報瀬に対して「できっこない、行けっこない」とバカにしていた人たちの「見立てが違った」ということが立証されたという意味合いといえましょうか。
結果的には、「報瀬が南極に行くなんてそんなのムリムリ」と見立てた人たちの「見立て違い」、つまり予想が外れた=失敗した、ということになります。

そうした失敗した人たちに対して「非難や嘲笑」の意味で「ざまあみろ」というのは、演出上は愉快痛快だし、胸に痞(つか)えていたモヤモヤが晴れてスカッともします。でも、ちょっと軽々しく感じてしまったのも正直な感想です。
報瀬は、そんな遠吠えをしたくなるほどの悔しい思いを日本でため込んでいたということでしょう。だから吠えたのでしょう。それはムリもないことだと思うし仕方のないことだとも思います。
だが、しかし・・。そういう人たちを嘲(あざけ)って、小ばかにして叫ぶのはどうかと・・。そういう感情表出は、一時的には留飲を下げられるのかもしれませんが、しかし、どうにも違和感を持ってしまいました。

むしろ、報瀬は、「自分の選択の正しさ」や、「自分自身の行動の達成感」や、「仲間との連帯の充実感」や、「今、タラップを降りて南極の氷の上に立った高揚感」など、それらを身にまとった自分自身のその様(さま)をこそ自分で褒めてほしかったし、その気持ちをもってのアピールだった。
なにより、母親の帰りを待ちわびるかのように暮らしてきた報瀬なわけですから、変わりない日常生活を悶々と送ってきた「あの様」から、ついに南極の氷を踏み、かつて母の立っていた場所に自分自身も降り立ったという「この様」への『落差』や『ギャップ』や『無理難題を乗りこえてきた自分自身の変化』をこそ、『勇気の様』、『忍耐の様』、『喜びの様』として、心が打ち震える意味として。
「南極まで来たという代えがたい経験をしている自分の様」を見つめること。「コツコツと努力をして100万円を貯めてきた自分の足跡の様」を見つめかえすこと。「まだまだ先へ行ける立場にある未来を手にする様」を見とおすこと、何よりも「自分自身を信じきってきた確信の様」を見つめることとしての発言として。
報瀬には、それらの「様」を見つめて、心の底から誇りに思ってほしいし、そういう自分自身の姿、それこそ報瀬自身の様を「私は、私のこの喜ばしい瞬間を見ろ~っ!!私の昂ぶるドキドキワクワクな気持ちを私は実感してるぞ~っ!!南極の氷の上でも生きてるぞ~!!」という気持ちとして。

日本での不愉快極まりない経験や、日本で「何もできない高校生」と言っていた人たちのことなど、どうでもよくなっちゃうくらい、バラバラに分解されて、滅茶苦茶に小さくなって、1ミクロンも思い出さないくらいになって、「サイコーの感激とウルトラな感動」でもって、歓喜のざまあみろとして。

だって、だって、南極なんです。
『宇宙よりも遠い場所』なんです。
そんな稀有な場所に自分の足で立てているのですから、その喜びの圧力で眩暈を起こして卒倒してほしいくらいです。
正直言って「報瀬、今まで頑張ってきてよかったね」と褒めてあげたい気分でした。また一つ、ピースが埋まったね。報瀬!
と、勝手に思ってしまった次第。そういうわけで、わたくしなりの「ざまあみろ」の解釈と評価をしてみた次第でございます。すみません。
{/netabare}

★10話は、「ないものねだりへの寄り添い方」の回でした。
{netabare}
結月をストーリーの中心に据えて、自己のアイデンティティのありようと社会(他者)との関係を打ち出した回。
結月と報瀬の「母親との関係性」を対比させながら、「自己と他者との関係性」の「捉え方の落差・温度差」を「友達のありよう」という角度から切り取って演出されたもので、中身の濃い観応えのあるお話でした。

9話では、報瀬がみんなが雄叫びを上げました。それは今日までの「生きざま」を誇った勝鬨(かちどき)だったように思います。8話では4人は苛烈な船酔いに翻弄され、胃が裏返るような煉獄に心身を消耗します。そんな中、マリは「自分で選んだんだよ!楽しいんだよ!」そう宣言します。この捉え方、ねじ返し方が彼女たちの芯の太さとして9話の「ざまあみろ」に象徴されていました。

結月のスマホに母から「日本での仕事の話」が送信されます。「喜んでくれるだろう人」の期待に応えるためにそのオファーを受ける結月を受け止める3人の反応もそれぞれでした。基本、「友達」として受け止めているのですが、結月自身は3人と「会える時間が減ること」で友達でなくなるのではないかと不安を訴えます。

結月の希求する価値は「友達づくりの実感を、体感することだし、体得することだし、掌握しておくこと」でした。とても切実なもので、それを得るために3人を同行させたようなきらいがあります。
結月のそうした表情や言葉の一つ一つに、彼女の生い立ちが色濃く反映されていることを、敏感に捉え反応する報瀬たち3人の「心情、表情、行動」に、一つの青春の形のありようが見られます。

マリは「分からないんだよね」と咽(むせ)び泣き、彼女らは時を逃さず結月へのフォローに入ります。その「さま」もまた3人3様。これがまたいいのです。多感な感情は多様なかかわりがあればこそ掘り起こされます。
それは、報瀬の言うように「誓約書」で縛られるものではないのでしょうし、マリの言うように「ね」で繋がれるものなのでしょうし、日向の「まあそんなもんだろう」という言葉なのでしょう。

ここにくるまでの結月のアイデンティティは、「母が齎(もたら)す『仕事』で期待されているイメージ像、つまり他者が期待する愛くるしい偶像」を演じることで培われてきたものでしょう。
でも、そのことに結月は辟易(へきえき)としています。
もちろん彼女の選択なので是非もないのですが、母との関係においては、自分の「希求するもの」は求められないし「自分らしくあること」は期待できないものでした。

結月の言う「友達、どういうことなんだろう、やっぱりわからない」という曖昧模糊とした感情を解きほぐしたのは、
「日本ではなく、南極」
「芸能界の仕事という『外側から得られる評価』ではなく、冒険の主人公たる彼女自身の『内面から得られる評価』」
「母やプロの演出家ではなく、同じ高校生」
「ケーキとお祝いの演出に込められたあたたかな心尽くし」
「友情の神髄に触れた『嬉し涙』」
だったような気がします。
3人が協力して結月の不安をやさしく解きほぐし、結月が自分の力で親友の意味に気づき、やがて確かなアイデンティティを作っていく。
そのための10話だったのかなと思いました。

いっぽう、報瀬が忘我のあまりに四つ這いでペンギンに向かう姿は、彼女の南極への湧き上がる衝動です。彼女の強烈な自己のアイデンティティの発露は、得てしてそうしたなりふり構わぬ行動へと走らせるものですが、この「後先構わず剥き出しの自分をそのまま出せる気の置けない親密な友達関係」は、結月のそれへの理解とは大きな「落差」があることを示しています。

報瀬は、母との関係性(それはまだ未知の概念ですが)を、もしかしたら「忘れ方」を求めていて、逡巡しているのではないかと感じます。そういう気持ちを整理することは、自己のアイデンティティを確立することでもあります。そのためには「南極に帰るしかない」と言っています。
報瀬にとって南極に帰るとは、「母を辿る道筋」と「母の魂と日本に帰る道筋」を重ねているように感じます。だから「ペンギンのいる場所に立ったエピソード」を一つ手に入れることで、ピースを一つ埋められたのではないでしょうか。今後、母への憧憬がどんなふうに描かれ、どんなふうに帰結していくのでしょうか。

ペンギン饅頭号の乗組員といえば皆家族のようなもの。高校生4人に対する大人の役割や一人ひとりの仕草も丁寧に描かれているし、人情の温かさ、懐の深さもさり気なく配慮されていて、しみじみと演出の良さに感じ入りました。
ハイティーン向けではない大人の恋ばなや、だらしなく酔い潰れている姿にも、人の裏表のない剥き出しの姿として「彩と綾」が感じられて、私は好きです。

最後の焼却灰を掃除するシーンも印象的でした。
結月のもやもやした感情は、最初はかすかな芥(あくた)のようなものですが、放置すればいつしかそれは目に見える灰汁(あく)となり、積もり積もって多量の灰塵(=歪みや捻じれ、思い込みや凝り固まった価値観)に繋がっていきます。
南極に来られたきっかけは、結月の力によるところが大きい。3人は分かっていたと思います。だから「初めての友達」として結月を大切にしたいし丁寧に付き合っていきたい。今までの「ごみ」はきちんと燃やしてきって掃除をして、すっきりさっぱりした気持ちで日本に帰りたい。そういう3人の気持ちがこのシーンに表現されていたのではないかなって思いました。

もひとつ言えば、結月の「おやつです」の言い方がBパートの前半と後半では全く違っていましたね。小さな役割なのでしょうが、そこに込められている結月の気持ちの変化がありやかに演技されていました。
{/netabare}

★11話は「しがらみと解毒」の回でした。
{netabare}
報瀬にも、日向にも、藤堂隊長にも、過去と今とこれからに「意味なくなんてない」ことを確かめるための欠かせない重要な回でしたね。

ルンドボークスヘッタは岩が剥き出しになっている場所。
{netabare}
人間も雑菌も厚い氷も入り込めない世界で一番きれいな真水のある場所。
でも3人とも日向の過去談が気になってその景色に気が向かない様子です。

日向の過去談は彼女の心中に巣くう毒です。
日向の「” まだ ”怖いんだよ。」は、「友達という関係性そのものに対する決定的なマイナスの評価」です。
” まだ ”という言葉に、報瀬は大きなショックを感じていました。
日向の毒は、「出会いから今までの関係」を損ない、「これからの関係」にも錆を浮かびあがらせ続けることになります。
日向が過去に縛られ続ける限り、報瀬にも看過できない決定的な事態になっていきます。

「意味なくなんてない。」報瀬は2回も言いましたね。
1回目は、日向が「何のしがらみのない人と何にもない場所に来たかった」と言ったことに対してでしょう。報瀬にとって、南極は「母を受け入れるための意味のある場所」だからです。「何にもない場所、楽しまなきゃ意味ない。」と言われたことは心外なはずです。
2回目めは、報瀬は、日向にとっての「しがらみのない人ではいられない」気持ちがあるからでしょう。
これが「意味なくなんてない」をわざわざ2回言った理由でしょうね。

しがらみの意味を調べました。(ちょっと大事なことかな)
「縛られるもの、邪魔をするもの、纏わりつくもの、引きとどめるもの」といったマイナスの印象を持ってしまいがちですが、これは2番目の意味です。(江戸中期以降、特に現代政治の場面で使われる言葉です。浮世の義理とか、渡世の人情のしばり、ですね。)

実は、1番目の意味があります。おおもとの意味です。
漢字で書けば「柵、(これでしがらみと読みます)」
「しがらみ」とは木や竹などで水の流れを止めるもののことです。開田や農耕に必要なもので、人の営みに必要不可欠な技術です。

この言葉は、古くは万葉集や明治時代の文壇にみることができます。

「明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあらまし」
(柿本人麻呂)

現代語訳はこうです。
「明日香川にしがらみをかけ渡してせき止めていたら、流れる水もゆったりとしていたであろうに」

その背景はこうです。
700年4月、天智天皇の皇女であった明日香皇女(あすかのひめみこ)が死去し、もがりの折に夫との夫婦仲の良さを柿本人麻呂が挽歌(悲しみの歌)として詠んだものです。
明日香皇女の死因は不明ですが、何らかの手立てや手当を講じていれば、もしかしたらその命も長らえていただろうか、あるいは亡くなった皇女の魂が此岸から彼岸へと遠ざかってゆくのも緩やかになるのだろうか、という「未練と悔恨」の思いを詠んだ一首です。
皇女の魂が遠ざかっていく淋しさに、清浄にあれかしと幸せを願う想いも重ねて、明日香川を流れる水の動きや清らかさやキラキラしたさまに、思いを移ろわせ、また馳せています。

この心情には、私たちがふだん使う「しがらみ」から感じるマイナスのイメージは思い浮かびません。元は、少しでも暮らしをより良くするための方策であり、また、前向きに生きるため、心的エネルギーを高めるための智慧、というプラスのイメージを感じます。
 
日向の使ったしがらみは「2番目の意味」として使っていましたが、報瀬の使ったしがらみを「1番目の意義」で捉えると、報瀬にとっては、南極に来るまでのすべてのしがらみ(対策や発言)は、乗り越えてきた障壁に対するあらゆる創意工夫の努力そのものだったのですね。
それは、日向との共同作業でもあったはず。なのに「何もしがらみのない人」と言い切った日向。
「意味なくなんてない」と言い返さざるをえない報瀬の気持ちには、空港でのパスポートの一件も含めて日向への強い友情を感じてしまうのです。
{/netabare}

日向の魂を深く傷つけたトラウマが生み出す毒は、彼女の心をひどく蝕んでいます。
{netabare}
その正体は「怖気(おじけ)」ですね。
日向にとって、友達を作ることと再び嘘をつかれるのではないかということは、裏表の関係になっていて、影のように付き纏っています。
彼女が一人でいる方が楽なのは、怖気に正対しなくてすむし、今以上に心が汚染されないからですね。

日向は、4人のなかでは処世術に長けています。名言?もよく使います。それは心の弱さを支えるマントラ(自己暗示)のようにも思えます。
でも11話の展開は俄か仕立てのマントラごときで自分の感情をどうにかなるものではなかったようです。
一気に噴き出す感情は、憤慨、遺恨、侮辱、拒絶。そのあまりの激しさは自尊心を一気に押し潰します。失笑しながら「ちっちゃいな、私」と卑下するのです。

それを聞いた報瀬は、日向をそこまで卑屈にさせてしまった陸上部員に物言わずにはいられませんでした。日向を擁護するとともに、報瀬自身も友達とのあり方を確固とさせるためにはどうしても踏み込まざるを得なかったし、譲れないところだったのでしょう。
自らを奮い立たせ勇気を振り絞った勇猛果敢な姿と、真に献身的な守護者としての姿を見せた漢気溢れる報瀬。かっこよかった~。本作最高の見せ場だったのではないでしょうか。

あの超弩級の啖呵を切った相手は・・・
抑圧と屈辱、怖気と自主退学を「押し付けた者たち」
「負け犬でごめん」「ちっちゃいな」と「言わしめた者たち」
「ふざけんな!」と連呼し、雪山を足蹴にした日向を「足蹴にした者たち」
「無視や非難どころじゃない、強者におもねりご機嫌をうかがい陰で平気で嘘をつく者たち」です。
報瀬は「友達としてかかわることも、自慢とすることも、安堵することも、邂逅も、いくらかの関わりも」許せないし、その罪を贖(あがな)わせたかったのですね。

日向は「報瀬は私じゃないだろ」と他人行儀よろしく上から目線でカッコつけていましたが、どっこいポンコツで心の狭いはずの報瀬が、涙を流しながら「関わらないでください!」と食ってかかる姿に感涙していました。「絶交宣言」を潔く代行してくれたお陰で、日向の心中の毒は完全に解毒されたでしょう。日本で感じていた嘘をついてないように見えた報瀬とマリの「うそ偽りのないここ一番の友情」も確かになったようです。日向は心底、嬉しく思えたでしょうね。

日向を想いやる報瀬、マリ、結月の熱い思いが、十二分に凝縮された見応えのあるシーンでした。
{/netabare}

日向は、「 ”印=GEODETIC STATION=測地点” を誰かが宇宙から見ているんだ。」と呟きます。
{netabare}
深い心中の煩(わずら)いは、だれからも知られるはずではなかったのに、しかし、報瀬には見られているんだなって、日向は暗に独白したようなものです。(急いで「他意はない」ってごまかしていましたが。でも「雀帝」貴子の手ほどきを受けてきていた報瀬が、そもそも「人の心を読めないわけない」ですよね。少なくとも「卓についている3人」の心(牌?)なら、いとも容易く読めていたのではないでしょうか。)

日向は、報瀬に心を見透かされていることはわかっていました。報瀬の右手を両の手で大事に包み左耳に寄せました。報瀬の右手は「送りて」です。多くの代え難い宝物を日向に投げてくれました。左の耳は「受けて」。しっかりと届いているよという意味でしょう。
「心はでっかい日向ちゃん~」と明るく強がっていた姿を見せてきた日向でしたが、もはや報瀬には顔向けできませんでした。最後の強がりを見せながら両腕を広げて報瀬に歩み寄り、ぎゅっと抱擁して感謝の気持ちを伝える日向。
この演出が心洗われるほどに素晴らしい。

マリの提唱で、「ドラム缶」での煩悩落とし。こういう厄除け、潔斎もいかにも日本的でいいですね、
日向の煩悩の毒もトラウマもかつてのチームメイトも「ドラム缶のようなもの、気にしないで済むもの、ぼっこぼこに打ち込めていいもの」。
「4人で一緒に」は、絶対に裏切らない友達を得た日向の確信と喜びから出てきた真実の言葉でしょう。
トラウマの元になっていた陸上部のチームメイトに対峙して、絶交宣言してくれた「南極のチームメイト」を得た歓び。4人一緒に打ち鳴らすシーン。
108回目には日向の魂を汚していた穢れはすっかり洗い流され、きっと素晴らしい新年を迎えたことでしょう。
{/netabare}

そろそろ、報瀬ら4人の「意味なくなんてない成長」と「友達の証」として到着地点が見えてきたようですね。
そして、藤堂隊長をして、貴子の遭難地点に向き合う躊躇も断ち切り、出発の決意、計画実行への確信を促した熱いシーンでもありました。
{/netabare} 
{/netabare}

★12話は「報瀬と3人に襲いかかったグリーフ」の回でした。
{netabare}
この旅で親交を温めてきた4人のあまたのエピソード。織り上げられた友情は、ほったらかしにしていても大丈夫っていえるほどの強い一体感を生み出していました。そしてついに報瀬をしてお母さんに「友達ができました」と語らせたあとに・・・。
最後に4人に襲いかかってきたのは、グリーフでした。

グリーフ(greif 悲嘆、嘆き)。
死別体験に臨むとき、人の心に生じる心的反応です。
ちょっと分かりにくいのでプロの記事を借りますね。
『死別に対する反応性の症状で、不安感や無力感などで生じる無関心、故人なしの生活や人生に意味を見出せず、無気力な様相を呈するなど、うつに似た症状。ただしうつと異なるのは、本人が発症の原因を認知しており、本人のアイデンティティに揺るぎがないという点です。』(ナースプレスより)

報瀬は、母が消息を絶ったと聞かされたのち、覚めない夢の中(白日夢?)にいるように過ごしていました。突然の母の死は、あまりに認め難く、受け入れ難いものです。その心情は不安定でうつ的な不調を生み出し、これにまともに向き合えば心理的な負担はさらに甚大なものになるでしょう。この消耗性のストレスは強烈な喪失感情となって報瀬の青春をバーンアウトさせかねません。

報瀬は、心中に母への慕情を抱きながら、でも母が消息を絶った場所へは容易に行けないままならなさも感じています。その板挟みにあって自分の感情を安寧を保つ唯一の方法は、感情を夢の世界に置いたまま過ごすことであり、結果的に「本当に普通なの。」と語るほどに感情を鈍化させていました。報瀬は母が亡くなった事実を夢の世界の留め置くことで、なんとか平常心を保てていたのかもしれません。

報瀬に一番しっくりくるのは「母が南極から家に帰ってくる」というシナリオのはずです。でも、事実はそうではないから、彼女は、母のいる南極に「帰る」ことが正しい選択になり、そのために尽力することは当然の帰結だと感じられる別のシナリオが必要になります。南極という場所に行くことよりも「母に元に帰る」という表現を使う方が心理的な距離感が近いのだと思います。

報瀬はその気持ち(夢)に浸ったままで、南極に帰るための「現実への対処努力」を始めます。
それは様々なアルバイトをすることでした。目的に近づくためにアルバイトをすることは一見すると理屈の通る行動ですが、そもそもその努力が結果に結びつくかどうかは別の話。南極に帰るための実行可能なプランがないまま目標に向かうのは明らかに無謀であり、無茶なことかもしれません。でも、報瀬にとっては「南極=母の待つ家」に帰るにはほかには術がなかったわけですから、たとえ盲目的で荒唐無稽な話だとからかわれたとしても、何の矛盾も感じてはいなかったでしょうし、仮にあったとしてもそれすら吸収してしまう強い執着心が彼女を支えていたと思います。このあたりが放映前のプロローグではないでしょうか。

そうして、報瀬の意志の強さの象徴としての「100万円」がマリの目の前に突然現れ、引き付けられるようにして物語が動き出し、3人の友達も集まってきます。マリと日向と結月のそれぞれの思惑や期待とも相まって徐々に化学反応が起こり2話3話へとつながっていきます。

報瀬のしばしば頑なにも見える行動は、その頑張りのすべてが「母に倣(なら)って何とかしようとする、そして何とかしてきた自分自身への” 鼓舞 "」だったように感じました。1万円札を並べながらアルバイトの仕事を語っていたのも、自分のやってきた足跡を確かめながら、何とかしてきた自分の気持ちを鼓舞し、母が消息を絶った場所に行く決心を創ったのでしょう。

結月が見つけ出した母のPCのモニターに、報瀬その人が送信したメールが、現実のものとなって次々と映し出され、未開封のアイコンに報瀬の視線はくぎ付けになります。
絶え間なくカウントアップされていく数字は、報瀬に容赦なく高い圧力をかけ続けて、まるで荒れ狂うブリザードのように容赦ない洗礼となって襲いかかり、無意識に封印していた「母ロス」の感情が、剥き出しのまる裸にされてしまいます。

12話のこの結末は、覚めない夢の中で、たった一人で、1101通ものメールを打ち続けた報瀬の必死の、母へのS.O.Sの心情を吹き飛ばしてしまいました。

グリーフケアは、死別体験を迎えようとする、また迎えてしまった患者家族への医療スタッフの支援のことです。
適切な気晴らしの取り組みや、周囲からの援助を受けながら、深い悲嘆を受容し、克服し、解決していくための大切なステップです。
報瀬と3人が、人間的に、人格的に成長するターニングポイントが13話に訪れますように祈ります。
{/netabare}

★最終話。「また旅に出る。とことん楽しむために。宇宙よりも近い場所」へ
{netabare}
視聴を終わって感じたことは、この子たちは強くなったな、という思いです。
最初に反省なのですが、私は、12話のグリーフについて気も漫(そぞ)ろで、そわそわしっぱなしだったのですが、結果的には全くの杞憂でした。
報瀬は12話で「お母さん、友達ができました」と一人語りしていました。南極まで一緒に来てくれる友達、そこで過ごした時間、多くの困難を乗り越えてきた仲間の存在が、現実のものとしてしっかりと報瀬の心中に満たされてあって、既にグリーフを受け止める土壌ができていたのだと理解しました。

一人語りをした報瀬は、この時すでに、最高の宝物として、得難い3人の友達を得たという確かな思いがあったのだし、母への憧憬や不安を大きく上回る未来と安心を感じていたように見えました。
だから、報瀬はもう、白日夢から完全に目覚めていて、「南極に来れただけで十分、目的は達成された。」と3人に伝えたうえで、母のPCのメールを真正面から受け止めていたのでしょう。
12話の悲嘆は、最も大きな慟哭でもありました。でも、それ以上に強い絆を4人に生みだしたと思うのです。

私たちが住むこの国は、ともすれば便利で快適な暮らしが当たり前になり、積極的に助け合うこともなく、自己中であっても誰からも注意されない場面が多くなってきている世相が見受けられます。
そんななかで、南極観測隊という厳しい規律と自主性を促される場所で、責任をもっていくつもの役割を担い、隠しようのない剥き出しの人間性にお互いに触れあった4人の女子高生のそれぞれの友情と成長は、やはり日本国内ではなく南極であったからこそ、より鮮明に伝わってきたし必然性があったような気がします。


さて、今回作の見どころを二つあげてみたいと思います。(本当はたくさんのエピソードが盛り込まれているのですが・・。そこは他のレビュアーさんにお任せします。いっぱい盛り上げてくださいね。お願いします。)

「私たちは、私たちになったんだから。」
キマリ。あなたがそれをここで言いますか。おいそれとは言えない濃密な言葉ですね。素敵ですね。

「オーロラ!」
キマリ。あなたが4人の中でいちばん先に見つけますか。
「なによそれ!」
でも、めぐっちゃんのほうがもっと早かったのかも・・。
{/netabare}

Rord to Antarctica.そこには確かに青春グラフィティ-がありました。

振り返れば、各話ごとに「なかったことになんてできないエピソード、平気な気持ちのままでは済ませられないドラマ、笑って見過ごせるわけなんてないシナリオ」がたくさん織り込まれていました。

まるで一緒に旅しているかのように感じさせてくれる作品でしたし、4人の魂の成長を、ともに喜び、何度も泣かされ これでもかと心を震わさせられました。
テレビにかじりついて、アニメをこれだけ堪能したのは、いつの日、どの作品以来だったか。そう思えるほどに満足感の高い作品でした。
こういう素敵な作品があるからアニメを応援したい気持ちになりますね。

この作品に関わられた多くの関係者の皆様に感謝申し上げます。
また、レビュアーの皆さんにも感謝申し上げます。

最後に、言っても仕方のないことかもしれませんが、「ゴールデンタイムで放送されていればな」って、悔しく思います。

Anikore’s menbers be ambitious!

『 』はウィキペディアより。

長文のレビューをお読みいただきありがとうございます。
この作品が、みなに愛されますように。

投稿 : 2018/03/29
閲覧 : 780
サンキュー:

92

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