ブリキ男 さんの感想・評価
2.2
物語 : 1.0
作画 : 4.5
声優 : 1.5
音楽 : 3.0
キャラ : 1.0
状態:観終わった
ヒトの皮を被った人間と、ネコの皮を被った人間のお話
新海誠監督が1999年に作成した自主制作アニメ。
一人暮らしの大人の女性と、彼女に拾われた猫のお話です。
本編4分半くらい。
ねこたんのしっぽを1分間で合計5回も踏みつけておきながら、罪悪感ゼロ、涼やかな顔で日常生活を送る人々の姿を描いた「猫の集会」を撮った新海監督、若かりし日のその人が想像する猫視点とは一体如何なるものかと、半ば怖いもの見たさで視聴を敢行したブリキ男ですが…
{netabare}
開始1分から、「彼女は母親の様に優しく、恋人の様に美しかった」と、強烈なパンチを頂きました(泣)さらに追い討ちをかける様に「彼女は(中略)毎朝仕事に出かける」という、ネコによるモノローグが‥(汗)
1.「母親の様に優しく」は分かります。
2.「恋人の様に美しかった」もギリギリセーフ?
3. ですが「仕事に出かける」は完全にアウトです。
2についても、ネコが自身をヒトと錯覚しない限り、ヒトの容姿を美しいと捉える事は出来ないでしょうから、無理を感じますし、仕事については、古くから「猫に小判」と言うことわざがある様に、ねこさんがその概念の一端すら理解していない事は明白です。(「どこかに出かける」あるいは「狩りに出かける」なら分かりますが)
なればなぜ、新海監督がこの様な表現を用いたのかと、ざっと考えて見たところ、一つの答えを見出す事が出来ました。
これは、人と猫のお話ではなく、人と人のお話なのだと。
つまり"彼女"が拾った雄猫のチョビは、"彼女"が同棲している人間の少年か青年で、同じく雌猫のミミは、彼女が仕事をしている間に作ったチョビのガールフレンドという隠喩なのではなかろーかと(汗)
ネコがアパートの鉄のドアを開けて、一人で(一匹で)外に出かけて行くとは考えられませんが、ヒトならばそれも可能なので。(窓が開いていたのかも知れないけれど)
ある青年(少年)の、半年に渡るアヴァンチュールを、何故ねこさんを介して描く必要があったのか、わたしには理解に苦しみますが、それが新海クオリティと言うものなのでしょう。自分の描きたいものを描くためには、かわいくてキャッチーな動物の外見(そとみ)だけを掠め取る事も厭わず、、彼等への敬意など、どこ吹く風なのです。「猫の集会」で感じたものと同じ種類の気持ち悪さを感じました。
そして極めつけが
{netabare}
「この世界の事を好きなんだと思う」
{/netabare}
で終わるラスト。
{/netabare}
最新作「君の名は。」でも、主題歌をあざといタイミングで鳴らし、視聴者を条件反射的な似非感動の渦に巻き込まんとする陳腐な演出が見られましたが、この作品も同様。失敗して収拾の付かなくなった料理をカレーにしてしまう事で、子供騙し的に、おいしく食べさせてしまうよーな、新海流力技の原点を見た気がしました(汗)
人が誠意を尽くして他者に何かを伝えようとする時、不器用でも、不恰好でも、長ったらしくても、言葉足らずでも、誤魔化しの無い心から発せられた言葉には、それなりに力が宿るものです。
全くの私見ですが、新海作品からは、生(き)の味が感ぜられません。代わりに、言葉をこねくり回し、策を弄した挙句、何とな~く良さげな台詞を用いて視聴者を(安直と言う名の麻薬入りの)煙に巻いてしまう、打算的ないやらしさが見て取れるのです。
唯一の見所は、初夏から始まる移り変わる季節の、モノクロ映像ならではの素朴な描写の美しさなのですが、それも描きたいモノを描く為に、生き物の心や、言葉という魔法を、好き放題に弄ぶ制作者の傲慢さゆえに、どれも(正常に)色褪せて見えてしまうブリキ男なのでした。