fuushin さんの感想・評価
3.7
物語 : 5.0
作画 : 4.0
声優 : 2.5
音楽 : 4.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
凡庸なテーマを、斬新に切り取り、高い圧力をかける。えげつない才覚。ただし好みは分かれるか・・。
ミカコとノボルの募りあう恋情に感じ入りながらも、ただいたずらに呻吟するばかりの2人の心情に悲壮感ばかりが沸き上がってきます。
これは、誰もが知っている「ロミオとジュリエットの新海誠版」。
副題も秀逸か・・。
はじめに・・。
{netabare}
初恋なのかすら分からない淡い想い。
その「恋の入り口」に「幼馴染の2人」を立たせたうえで、大人の事情で斜め上からぶっちぎって、途方もない遠距離に放り投げて、無理くり否応なしに引き剥がしていく。
この展開は、まるでもう、恋する者への冒涜、弾圧、粛清です。
唾棄放逐(だきほうちく)のごとくのあからさまな悪意を感じます。
この物語は、あまりに無慈悲で非情です。酷薄でえげつないです。
しかも、あまつさえ「科学的探査活動」という崇高な美辞麗句に「使命感に心が沸き立ち、胸が凛と高まるだろう」に、同時に「戦闘行為の最前線任務という実質的な命を懸けるリスクをも背負い込まされる」ことに、大義名分という大人の都合が優先されていることに度し難い悲しみを感じざるを得ません。
この設定自体に、凍るような戦慄を覚えました。
「喪失感」は、やすりで削ぐように2人のささやかな情念の赤い糸をひどく痛めつけ、微かな希望をも切り取っていきます。
任務終了の筋道は見いだせず、帰還への願いも持ち得ず、極度の緊張感に苛まれながらゆらゆらと漂い、時に烈火のごとく戦い、苦い勝利にも悩み傷つき消耗していきます。
「焦燥感」は、地獄の業火となって2人の心をじりじりと炙り、清々しい血潮と全身の細胞を内側から干上がらせ蝕んでいきます。
若々しい感性は否応なく虚無に晒されていき、清純な魂には太い楔(くさび)が打ち込まれます。
抵抗するすべを持てないままに、心身は瑞々しい活力を失っていき、揺るがされ崩されていきます。
「圧迫感」は、安寧なる未来へのバトンを手探りで試すことさえ拒み、小声で呟くことも憚られ、歌うことすらも許しません。
灯台の光すらも救いになりえないほどの暴風雨が吹荒れる漆黒の宇宙には、そのあまりの閉塞感に神様に祈る僅かな気持ちすら容易く押し潰してしまいそうです。
「高揚感」は、動機と目的において大きな齟齬(そご、ズレがあること)があります。
人肌の温かさを感じさせる愛情との交錯も、懐かしい人との邂逅も許されないばかりか、皮膚を焦がすような離別の苦しみと悲しみばかりが増殖します。
また、度し難い冷酷さに全身をめぐる血流までが凍り付くかのように孤独のやるせなさばかりが只管(ひたすら)に膨張していきます。
2人には恋の高揚感など露とも感じられない無常の世界のみがあてがわれました。
蝋燭(ろうそく)の炎が微かに燈(とも)る余地すら与えられてはいません。
そしてこの「世界観」は、空疎にもほどがあります。
ただただミカコの心も命も終身刑の判決を受けた罪人のように、コクピットに縛り付けられているかのようなシーンだけが記憶に深く残ります。
{/netabare}
これを観る人は、いったいどんな感情を持ち、感傷に浸り、印象を持つのでしょうか。
果たして、この作品にどんな価値を見出し、魅力に置き換えるのでしょうか。
使命感と歓喜。
{netabare}
ジュブナイル世代の男女にありがちな、キラキラどきどきな修飾も、ラブリーなエピソードも、ほのぼのとしたエッセンスも、未来志向で前向きなエネルギーも、徹底的に、極限まで削ぎ落としてあります。
恋ともいえないような2人の淡い関係を、限りなくゼロ地点に還元化して、実存のみに徹した設定に仕立て上げ、表現した作品になっています。
2人の足元は宇宙空間に浮かぶカミソリの刃の上に立つかのように危うくて不安定です。この上ないほどに寄る辺のなさであり、安心できる余地はまったく許されていないかのようです。
それでもミカコは、自分が生きている確かな実感と証を、ノボルとの関係に求めています。
それを確かめられるのは手に握るのはたった一つのガラケー・・。
広大無辺の大宇宙にただ漂流する塵芥のようにちっぽけな存在に陥らされたミカコ。
ノボルに打つメールは、中学時代のあどけなくたどたどしい会話を頼りにしているので、いくらか自制を利かしたものになってしまう。
彼女のコクピットには、ノボルとの結びつきをアドバイスしてくれる同級生もいないし、教えてくれるハウツー本もありません。
ミカコが、いくらかでも処世術を得た大人の感覚があればもう少しうまく立ち回れたかもしれません。
あるいは、何も知らない子どものままであれば、内面を焦がす葛藤を感じなくてもすんでいたのかもしれません。
でも、ミカコが背負う使命感と責任感が、彼女の心の成長を促し、極限まで「大人としての振る舞い」を求めてきていました。
ミカコにとっての自分らしさを保つ要素は「望ましい立場性」と「だから投げ出すわけにはいかない任務への責任感」でした。
最初のうちは、自分らしい振る舞いは、「人類の科学の発展(と異星人との戦いの勝利)」に寄与できるだろう「歓喜」をミカコの心の中に生み出してきていたのかもしれません。そして生み出してきたその「歓喜」が、ミカコの自分らしさを裏打ちし、支えてきたのかもしれません。
でも、「ミカコの時間」の過ごし方は、やがて「歓喜」の意味を見つけられなくなります。
ミカコは一人ごちるとき、「人類のため」という目的意識性(気持ち)を支える大きなすそ野はありませんでした。
例えば、富士山山頂で感極まる理由は、そこが「宇宙に最も近い場所」であったり「見たこともない広大な影富士や、はるか遠くに北アルプスの稜線まで見通せる場所」であったり「自分の足だけではるばると登ってきた確かさを振り返られる場所」に立っている「人としての当たり前の実感」を得ているからです。
そこにいたる辛苦の「行為」があるからこそ歓喜が「生まれる」のだとしたら・・。
使命感そのものからは歓喜は「生まれない」でしょう。
その発露として、異星人を殺戮した交戦からは、ミカコの心には歓喜は「生まれなかった」ようでした。
もし、ミカコの筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の先に代償(ご褒美)があるとしたら、歓喜は「与えられるべきもの」でしょう。
ミカコの使命感の動機は「ノボルくん、逢いたいよ」という想いです。
それが叶わないと知っているから「私は生きてるよ。ここにいるよ。」に置き換えるしかないのでしょう。
もうひとつ。
地球から宇宙を見上げれば、宇宙は平面に見えるし、星の位置は同じ場所にあるように見えます。この普遍的にも見える位置の安定感が、2人にとっての関係性において絶対的な安心感となり、地図となり羅針盤となって心を支えるでしょう。
でも、ミカコの「宇宙船」のいる場所は、常に移動し変化しています。相対的に星の見え方も変わってしまいます。今、自分がどこにいるか、ノボルからどのように見えているのか。
その胡乱(うろん、確かでない意味)な不安定感は、ミカコの心情に大きな影響を与えていたはずだと感じます。
心に響く「歓喜」を感じ取ることができないままに、重すぎる「使命感」に身をゆだね続けることはとても難しいこと。
そのバランスを欠いていくミカコの仕草や、表情や、声が、スクリーンを通じて高い圧力を私にかけてきました。
それは、いつしか深いトラウマを生み出していました。
{/netabare}
ミカコは15歳。いくら適性があっても、訓練があっても、合格を得たとしても、どんなに優秀な評価があっても、ミカコは15歳。
{netabare}
ないものねだりも然るべきこと。ノボルへの茫漠とした収めようのない気持ちはどんなに飾ってみても、最後は「傷心」に行きつくほかなりません。
その思いの持っていきようは、地図も羅針盤も失ってしまった難破船のようにミカコの想念の宇宙を漂うばかり。
引き剥がされる想いは「苦痛」となって彼女のからだを苛(さいな)むばかり。
これは痛々しい・・。あまりにも切なすぎる・・。
ノボルができることにしても「ただメールを待つこと」です。
ミカコの選択を理解することであり、支持することであり、最も身近な位置に居続けることのみに意義を見出しています。
メールを頼りにミカコの「存在」を信じることだけです。
しかし、時間の経過は残酷です。メールに込められたお互いの思いから、わずかな温かささえも容赦なく奪っていきます。
これもあまりにも悲壮・・。辛すぎる・・。
私は・・そう、まるで、第2次世界大戦時に遂行された「零式艦上戦闘機」による「神風特別攻撃隊」を彷彿とさせるような印象を持ちました。
しかも・・、
「出撃」するのは「年端も行かない少女ミカコ」
「地球」で銃後をひたすら待つのが「年端もいかない少年ノボル」です。
事実、「神風」の最年少犠牲者は『16歳』でありました。
そしてその総数は『3948』人にも上りました。『最年長は55歳』でした。
{/netabare}
おわりに・・
{netabare}
環境や条件によって、いとも簡単に引き剥がされる人間の、縁、絆、思い、恋。そして命。
その「当たり前な平凡な日常」が「当たり前でなくなることの辛さ」をこの作品は語っています。
しかも、ハッピーエンドでもバッドエンドでも終幕していません。
2人をして隔靴掻痒(かっかそうよう。じれったいさま)させたそのままに、「曖昧なままのエンドレス」のさまをどのように感じ取るのかを、これを観る人に強く迫ってくるのです。
もちろん、宇宙戦争などフィクションのこと。
でも、民族紛争、国境紛争、第3次世界大戦はどうでしょうか?
「この世界の片隅に」では、すずさんは「見つけてくれてありがとう」と言っていました。
彼女のことばから、私たちが学び取るべき教訓は「恋しあう二人を引きはがすようなことは始めてはならない」ことだと思います。
新海氏のこの作品は、「男女のすれ違い」の関係性を、時代や場所や年齢。職業や種族や異世界といった枠ぐみを超えて、「社会の中での結びつきの尊さ」として強く表現されようとしていると思います。
そして「ほしのこえ」とは、「希望、平和、日常、人間賛歌」をかすかながらに語る作品であり、ひそかに「共存と共生と共感」というテーマも準備されている作品だと感じました。
そこに救いがあり、希望があり、魅力があるのかもしれませんね。
{/netabare}
『 』はウィキペディアより。
長文をお読みいただきありがとうございました。
この作品が、みなに愛されますように。