「聲の形(アニメ映画)」

総合得点
88.4
感想・評価
1521
棚に入れた
7489
ランキング
115
★★★★★ 4.1 (1521)
物語
4.2
作画
4.3
声優
4.2
音楽
3.9
キャラ
4.1

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 4.8
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

私たちぬきで、私たちのことを決めないで。

このアニメを観て思い出した言葉です。

出だしから、いささか硬めで申し訳ないのですが・・私たちは、民主主義というルールの中で暮らしています。
民主主義。・・・耳あたりのいい言葉ですが、問題点がないわけではありません。構造的に、どうしても多数の意見が優先されますから。

●民主主義と憲法と。硝子と将也と。
{netabare}
私は小学6年で、民主主義を憲法の学習で学びました。憲法には、国民主権、基本的人権の尊重、戦争の放棄(平和主義)の三大原則があると。それが民主主義の根幹だと知りました。先生は噛んで含めるように丁寧に教えてくださいましたが、なんだかとても難しい授業でした。

民主主義は、人が幸せに暮らすための手法・手段です。(目的ではありませんね。)
小学校、中学校から体験的に身につくように学び始めます。理屈でわからなくても大丈夫。クラス運営、生徒会活動、クラブ活動、ホームルームで体験的に学習していくのですね。身をもって学ぶ「実学」ですね。

今は18歳になると「選挙権」が付与され、地方政治や国政にも参加することができます。多数決というルールを基本にして、民意を政治(暮らし)に反映できるとてもわかりやすい手法・手段・仕組みですね。

ただ、落とし穴もあります。原則として多数決で決するので、圧倒的少数者の「願いと思いは置いてけぼりにされがちになる」ということです。

だれだって幸せな暮らしを願っているし、ちょっとでも豊かな生活を求めています。これは当たり前のこと。憲法13条にも「幸福追求権」として明文化されています。

日本国憲法 第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

文調は格調高くてよろしいのですが、少数者には13条のありがたみや利益がなかなか実感できないところが難点ですね。
ポイントは「公共の福祉」です。
「公共」とはどの立場から見たものか。明らかに絶対的多数者か行政権を掌握している側ですね。その最高の価値が「国」ですね。それは国民ならだれもが肯定する概念ですね。

今の時勢でいえば、TVで憲法論議がたけなわです。いろんな立場の人がいろんな意見を論じられています。意見を交わすこと、討論することは素晴らしいことだと思います。でも・・・。

硝子と将也は、選挙権もないしコミュニケーションも十分に取れないのです。いったい彼らはこうした議論にどう参加し、主張し、表現すればよいのでしょうか。
もっと言えば、大人の側が、どんな配慮や支援や指導をすればいいのでしょうか。どうすれば彼らが健やかにのびのびと成長できるようになるのでしょうか。

実は、つい最近まで、高校生にとって憲法を学ぶこと、民主主義(国民主権、基本的人権の尊重、戦争の放棄(平和主義))を学ぶ機会はほとんど保証されていませんでした。
まぁ端的に言えば、ほったらかしにされていたっていうことですね。(卒業したらすぐに大人扱いされるの、困っちゃわないかなぁ)それで、ちょっと気になったので調べてみました。

高校の場合は、
{netabare}
学習指導要領によると、教育課程における憲法教育等について、4つの指導ポイントが示されていました。主に「公民の現代社会」の項目で教えることになったようです。(平成21年3月告示。一部抜粋。)

①現代の民主政治と政治参加の意義、民主社会において自ら生きる倫理について自覚を深めさせる。
②個人の尊重と法の支配、他者と共に生きる倫理について自覚を深めさせる。
③現代の経済社会と経済活動の在り方、その役割と責任について考察させる。
④国際社会の動向と日本の果たすべき役割及び日本人の生き方について考察させる。

平成25年度(2013年4月入学)からの入学生から年次進行で実施することなりました。ということは、つまり、今現在で21歳以上の方は、憲法教育をほとんど受けていなかったのですね。
{/netabare}

ちなみに中学校の場合は、
{netabare}
平成24年度(2012年4月)在籍の生徒さんで、「公民的分野」、たぶん3年生時のなかで全面実施されています。20歳以下の方は学んできているはずです。内容は・・・、

①我が国の政治が日本国憲法が基礎となっていて、基本的人権の尊重、国民主権、及び平和主義を基本的原則としていること
②日本国及び日本国民統合の象徴としての天皇の地位と天皇の国事に関する行為のこと。
③法に基づく公正な裁判の保障、国民の政治参加、選挙の意義について。

いかがでしょうか?こういう①~④(または①~③)にあたる授業を受けた記憶はありますか?具体的に言えば「裁判官裁判」は授業にありましたでしょうか?高校で、倫理と責任、生き方について自覚を深めるような授業は受けましたでしょうか?
{/netabare}

物語的に言えば、硝子も将也も、授業で学んだかどうかは微妙ですね。
{/netabare}

●本作の評価は、いろいろあるし、なかなか難しそうですね。
{netabare}
「障害者へのイジメなんて許せない」、「自殺を表現するなんて間違っている」、「障害者を使った感動ポルノ作品」、「青春群像劇、恋愛ストーリー」、「コミュニケーションの難しさ」など多様な表現で評価されています。

逆説的に言えば、それだけ多様な要素をはらんでいる時代性がある作品だということですね。そのうえで「高い評価」を得ている点において、観るべき内容と価値は十分にあると思います。

さて、今の世は大人の世界でもコミュニケーション障害(以下、コミ障)などと揶揄される時代です。
硝子と将也、仲間たちの「聲、表情、行動」、その一挙手一投足のなかに、コミ障の息苦しさが表現されているように感じます。
一人ひとりが大事にされる時代のはずなのに、なぜそういう閉塞感や疎外感を感じるのでしょうか?
その視点でレビューをしてみたいと思います。

硝子と将也は「何かよくわからないのだけれど、ままならないネガティブな感情」と「何かうまく表現できないけれども、心に置きとどめておきたいポジティブな感情」に気づき、関心を持ったところからストーリーが始まります。
「名前のない気持ち」。それは何でしょうか。2人は何に気づいてしまったのでしょうか。

★将也。
{netabare}
今まで疑いようのなかった彼の世界に、彼の理解の範疇を超えた別の世界が触れ始めます。始まりは本当に何気ないものでした。
「しょうちゃん」
自我の象徴でもあるその呼称が、いきなり他者のそれと結び付けられるときのアイデンティティーの微かな揺らぎと、言霊のシンクロニシティへの朧げな興味。まず、それに気づいてしまいました。

彼は、硝子のコミ障の実相を理解することができません。どう受け止めればいいのかも分かりません。たぶん彼の生い立ちには感じ得なかった感覚でしょう。そしてそれは気にせずとも気になる感覚です。

将也は将也なりに硝子がクラスに溶け込めないことを気にしています。手を差し伸べもするのですが、と同時に、自分の言い分や接し方がうまく通じないことへの苛立ちも感じ、もやもやした気持ちを硝子にぶつけます。

将也の心に宿った相反する感情は、とてもナーバスなもの。そのまんじりともしない感情に向き合えないまま、やがてその原因が、あたかも硝子にあるかのように、そしてまるで頭から追い払うかのように、彼女のアイデンティティーの象徴でもある補聴器を取り上げては捨ててしまいます。何度も何度も。

将也は自分のアイデンティティーを守ろうとしただけ。
硝子とのコミュニケーションの必要性を感じなかっただけ。
硝子とのシンクロニシティの居心地の悪さを感じていただけ。
彼の行為がどんな結果を生み出すかイマジネーションを持てなかっただけ。

そんな将也に、硝子は事あるごとに微笑み「ありがとう」と伝えます。
それは反発を持って硝子に接してきた将也にとっては「意味がわからない」ことだったでしょう。
聞こえず喋れない硝子。冷たく突き放してもいつも微笑んでくる硝子。
ついに将也は二進も三進もいかなくなって、度を超えた態度をとってしまいました。硝子の「通訳ノート」を捨てたのです。

将也の行ないは、どうみてもいきすぎた行為、やりすぎた行動だと批判されることは否めません。でも、私は仕方ないことだと思います。
将也は、ほかにやりようを知らないからです。
友達も、先生も、母親も、そうなる前に将也に干渉することはしなかったし、将也自身も相談するといったことを誰にも求めませんでしたから。

でも、将也の行動は「どういう気持ちだったのか? どう整理すればいいのか? どんな解決方法があるのか?」といったことをクラスで考える大きなチャンスでもあったはず、それは何度でもあったはずだと感じるのです。

将也は、硝子が転校するに至って、今度は降って湧いたように自身がハブられるようになり、将也は自分が硝子にとって「いじめっ子」だったということにようやく気付かされます。
友達と思っていたのに、徹底的に無視され、しかも悪評を流されることになった将也は自分がどんなに硝子に辛辣なことをしてきたか身をもって知ることになります。
しかも、その償いを母にさせてしまったという自責の念は心中に強く働いたようです。
この出来事は、彼にとっては人とのかかわりにおいて大きな過ちをしでかしてしまった最初の気づきであり、人付き合いにおける価値観のコペルニクス的大転換になってしまったのではないかと感じます。

将也は悔恨し自分を詰(なじ)り彼なりのケジメを決心します。でも、その動機は母に迷惑をかけてしまったという範囲でのことです。しかし、未遂に終わった彼は、思いもよらずお金が燃えてしまったことで「もう一度やり直す」きっかけを手にします。そうしてようやく硝子のノートに目が向きます。

ノートの扱いをどうするか・・。こうして将也も、硝子に対する「何かよくわからないのだけれど、ままならないネガティブな感情」と「何かうまく表現できないけれども、心に置きとどめておきたいポジティブな感情」が心中に熾火となって残っていたことに向き合い「もう一度やり直す」ことにしたのではないかと感じるのです。

将也の行動は、形としては硝子への懺悔と謝罪です。でも自分にけじめをつけたいという自己弁護の気持ちの方が優先されていたように見えました。自分でも思ってもみなかった「友達になって・・」という言葉のあまりの軽さに狼狽する将也。彼自身にもそれはあまりにもご都合の良すぎる手前勝手な姿だと分かったのだと思います。

将也が、硝子にきちんとした謝罪をしたのかどうかはスクリーンには表現されてはいませんでした。(いささか疑問の残る不可思議な演出でした)
が、とにもかくにも硝子との気持ちの糸がつながりはじめます。
{/netabare}

★硝子。
{netabare}
硝子は、将也の自分への激し過ぎる関心に戸惑います。周りの同級生からすれば、間違いなく硝子へのイジメに見えていたでしょう。
硝子にとっては、将也はたびたびちょっかいをかけてきて、大事な補聴器を奪いとるとんでもない男の子だったでしょう。図々しくて、でたらめで、ちっとも悪びれる風でもなくて・・・。
と同時に、ときどき優しいそぶりを見せてくれる男の子でもありました。

硝子は、彼がどうしてそんなことをするのか困惑しているようでした。硝子も将也と同じように、自分の感情を、文字にできないでいたようです。
自分の感情がよく分からない戸惑い、それを伝えるきっかけを作れないもどかしさ、気持ちを受け止めてもらえない悔しさ、なによりも将也の気持ちを聴き取れない辛さを身の内に感じているように見えました。

硝子は幼児期に難聴であることがわかりました。もともと無音の世界が当たり前でした。それは、日本語を音として吸収・理解できないということです。理解できないということは、発声することはむずかしいということ。
補聴器を付けてはいます。1対1のときは有効ですが「1対多」のときはとても難しい。例えば、両方の耳を手で押さえて、前後左右4人から同時に話しかけられても、誰の声なのか、何を言っているのか、指示なのか、非難なのか、応援なのか、つぶやきなのか、判別できないことと同じです。

だから、硝子にとって望ましいコミュニケーション方法は、補聴器がメインではなく、ノートのほうだったのですね。必ず1対1になるし、明確に文字として残るからですね。

だから、将也にノートを奪われ、放り投げ出されたのは辛かったでしょう。
硝子は、将也からの決定的な絶交宣言、完全拒否の意思表明だと受け止めてしまったのかもしれません。

にも拘らず、否、だからこそ、将也の机に書かれた悪意のこもった文字を見るのが辛かった。
硝子が自分を伝えられる手段は、文字だけです。
クラスのだれかが、将也の机に書きつける「将也を否定する文字」。
文字の持つ重みを誰よりも知っている硝子にとって、将也が文字によっていじめられていることは、自分がそうされているかのように辛かったのではないでしょうか。

無意味な大声とか、砂を投げつけるとか、耳を傷つけるとか、補聴器を取り上げるとか、イヤなことばっかりだったけど、硝子のいたあのクラスの中で、文字以上に、音声で、そして体当たりでコミュニケーションをとっていたのは、ほかの誰でもなく、将也その人だったから。
音のない刺激の少ない世界にいた硝子にとって、間違いなく将也だけは異質な存在だったでしょう。

小6のわずかな時間、「将也と通じ合えなかった」という体験で生まれ得た硝子の気持ちは、転校してしまったのちも(母に転校させられた?)熾火のように心中に残っていたのではないかと感じるのです。
「何かよくわからないのだけれど、ままならないネガティブな感情」と「何かうまく表現できないけれども、心に置きとどめておきたいポジティブな感情」。
その感情のなかに熾火となって秘め置かれていたエネルギーは、将也とのコミュニケーションの扉を「閉じるための鍵」ではなく、いつかその扉を「開くための鍵」として心のなかに留め置き続けていたのではないかと私は感じるのです。

将也にも共通の体験があったからこそ、彼もまた、同じ鍵を持ち得ていたのではないかとも感じます。

先に扉を開けたのは将也でした。
硝子にとって、失われていたノートが再び戻ってきます。まさにいきなり突然に。薄汚れてよれよれボロボロになったノート。
それは、唐突に打ち切られた過去談が、もう一度つながることでもあるし、宙ぶらりんのままで放置されていたもろもろの感情にも向き合うことでもあります。

それは硝子の思いと将也の思いをつなぐ唯一無二のツール。
そのノートが誤って川に落ちた時、硝子は常軌を逸した行動に出ました。
後を追った将也の行動はノートよりも硝子を心配してのことでしょうから、硝子の動機とはちょっと温度差はありますが、でも硝子にとってはそれは嬉しいことだったでしょうね。ノートを捨てた小6の将也が、今度は高校生になってノートを一緒に探してくれるなんて、ちょっとドラマチックですね。
{/netabare}

★将也は校内では学友の顔に「✖」を見ているのですが、校外の人には「✖」がつきませんね。
硝子と校外で会ったのはラッキーだったのかなぁ・・。

{netabare}
学校ヒエラルキーなのでしょうか。
それもあるでしょう。でも、それだけではないような気もします。

将也がコミュニケーションがうまく取れない人に対して「✖」をつけるなら、「✖」のない人は将也にとってはコミュニケーションがうまく取れているということでしょうか。
「✖」がついている人は、将也にとってはキョンシーか、のっぺらぼうみたいなもの?そうであれば、学校はお化け屋敷なんでしょう。そんな居辛いところに3年間もいられるものなのでしょうか。将也には、引き籠ったり退学とかの選択肢もあっただろうに。母への懺悔から生じる遠慮があったのでしょうか。

硝子も、妹も、その母親も、息の詰まるような閉塞感や疎外感を心中に感じながら、言葉にできない、言葉にしてもいたし方のない不条理さを感じて暮らしています。その表情はお互いに気を使っていて明るくはなさそうです。

将也はその顔に「✖」をつけてはいません。不思議。
コミ障の人に、将也はなにかシンパシーを感じているのでしょうか。自分と同じものを持っていると感じるから、「✖」をつけなくても済んでいるのでしょうか。
その差、その違いって何なのでしょうか。

作品の中で、小さくぼんやりと映る外の世界を、暗いトンネルから覗くようなシーンが表現されていますが、それって将也の心象的な視野のように思えます。

コミュニケーションは目、耳、口、鼻、五体と、それにメンタルとが絡み合って進むことが多いですよね。その要素のうちの一つか二つが上手く働かないとしたら、あの暗いトンネルを通じて外の世界を感じることになってしまうのでしょうか。

将也の悩みは「なやみ」。言霊(ことたま)で読み解けば「汝の闇」です。

やはり、あのトンネルのシーンは、将也が内なる心の世界に籠って、自分自身の顔に「✖」を貼り付けた心象風景。視野もピントも色彩も、自らが発する闇に遮(さえぎ)られて、遠くにわずかにぼんやりと映っている外の世界を感じている(見ている?)ということになるんでしょう。これは相当メンタルをやられていますね。
{/netabare}

★たとえ小学校の頃に行き違いになってしまっていても、気持ちを大事に持ち続けていれば、そしてやがて思春期を迎えれば、そして一歩でも踏み出せば、小さな熾火であっても、恋のストーリーが燃え上がるきっかけになります。

{netabare}
それが小さな火種であっても、若々しいエネルギーが内包されていれば、やがては惹かれあい、初々しい「恋の舞台」が開場し、第一章の幕が開かれ、賑やかに物語が始まります。
この二人に絡む仲間たちは、それぞれの生き方に誠実に向き合おうとする仲間たち、自らの進路の舵を自分の手にしっかりと掴もうとする仲間たちです。二人の周りを固め、すてきな役割を果たしていきます。かつて、小6のときには上手く進められなかった取り組みや、硝子とのコミュニケーションへの理解を少しずつ深めながら、再演していくことになります。
何ともたどたどしくて、あきれるほど粗削りに見えてしまうのですが、どんなに紆余曲折があっても、めげずにやり直し、試行錯誤を厭わず、手放さず諦めず、何度も繰り返し、やがて邂逅をみせるまで、彼らの努力の筋道と足跡とが、しっかりと描かれていました。

だから、この作品は、損なわれた友人関係を再構築する群像劇でもあり、社会的障壁の矛盾に気づく社会派ドラマでもあり、淡い恋ごころが輻輳するさまを描いた純愛作品でもあるように思います。
決して「障害をダシにした感動ポルノ作品もの」ではないし、「酷いイジメをしでかしたから謝罪と贖罪をさせねばならない物語」でもないと思います。


武道の世界には「勝ち不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」という格言があります。

勝負を決するとき、勝とう勝とうと思っているうちはなかなか勝てるものではない。そこに、気負いが入り、慢心が入り、疑心暗鬼が入るからである。すなわち、平常心を失い、集中力を欠き、本来の実力を発揮できなくなるからである。なぜ勝ったのか分からないという不思議さを感じるくらいがちょうどよく、逆に、負けるときは何の不思議もなく負ける理由を自分は知っているものである。
というようなことですが、今風に言えばコンディショニングのことでしょうか。

将也の心を「負けに不思議の負けなし」という角度から見れば、汝の闇に自らが縛られ、囚われていたということでしょう。

また、「勝ちに不思議の勝ちなし」という角度で見れば、「あれ?あれあれ~?これって?友達って?」というフレーズにヒントがあったと思います。

硝子に手を引かれて校内をとぼとぼ歩いた将也は、まるでダメダメな形無しヤロウだったですが、むしろ、形無しでいいんです。面目もなくてもいいんです。
角張ったフレームを構えることもなく、仰々しくメンツを掲げることでもなく、むしろそんなメンタリティーはかえって自分を縛ってしまう。
レッテルを貼られていると思い込んでいた将也ですが、実相はその真逆で、レッテルを貼っていたのは将也自身だったのですね。

将也は、自分はダメ人間だと自認し、自縛し、拘って、執着してましたが、その現場でもある校内で、硝子が先頭に立ち、一緒に闘ってくれた。彼女はごく自然に振る舞ってくれた。

硝子だけでは無理でした。1人よりも2人、2人よりも3人、3人よりも・・。みんなで分かち合えた、みんなが支えてくれた、将也の周りに信頼のおける友人が一定数いたのですね。だから、自力だけでは二進も三進もいかなかった壁が、他力が加わることで、将也には理解できない不思議さで心中の壁が打ち壊され、レッテルがフワリと剥がれていくんですね。剥がそうともがくこともなくごく自然にです。

自力と他力が交差した中で、将也が自分自身を許せたこと、自分で自分の心の枷を外したこと、そのことが私は一番嬉しく思えるのです。

硝子の強さは、見えにくく理解されにくい「難聴という障害」に立ち向かったことだったし、将也の強さは、やはり見えにくく理解されにくい「心中の怖気」に立ち向かえたことでした。
そんな2人が乗り越えられたのは、話を聴いてくれる友達ができていたということだったし、住み慣れた街と学校という場所があったからなのですね。

また、将也の母親の強さ、硝子の母親の心境の変化の兆しに、子どもへのゆたかな愛を感じます。家族という一番小さなコミュニティーですが、一番身近な大人が二人を支えているのですね。
(なんとなく「あの花」に似ていますね)

ここまで、お読みいただきありがとうございます。

ここから先は、本作では描かれていない、社会的障壁について少し記述してみました。関心のある方は覗いてみてください。
{/netabare}
{/netabare}

硝子や将也、そしてクラスの友達、お母さん方が暮らしている町と、学校のことを考えてみました。
さらに長文をお許しください。また、今回はかなり硬派です。
本当は、硝子と将也のために、全文を読んでいただけると嬉しく思いますが、無理はなさらないでくださいね。

硝子と将也の生きている時代の背景。
{netabare}
これをきっかけにして聾啞(ろうあ)の方の障害のありようについて考えたり、手話教室に行ってみようかなと思ったり、その家族の方のご苦労に思いを寄せること。そういう興味や関心を持っていただければとてもありがたいと思います。
もし、お近くに教室や講座がありましたら、ちょっとでいいので、覗いてみて様子を見てください。あなたも将也や佐原のようになれますよ。きっとなれます。「またね」はもうご存知ですよね。次は「どうしたの?」を覚えるのがいいかな? 
私も、休み休みですが続けています。学校じゃないんだから続けられているのかもしれませんが。汗
それに、手話には「方言」もちゃんとあるんですよ。盛り盛りですから。存外、そこからはいるのも面白く思えるかもしれません。

ちなみに、聾啞は、耳が聞こえない、発声がうまくできないという意味です。手話や筆談がコミュニケーションの柱です。手話自体が独立した一つの言語体系なのですね。
聾は、耳は聞こえませんが、日本語の発声はできます。ただ、音声でどれだけ表現できるかは、学習の習熟度とか、獲得した技術とか、知識や語彙数にもよります。
コミュニケーション方法は、主に筆談や口話(*1)です。手話は使わないことが多いですね。発声の具合によってはスマホの音声サービスも使えますね。

*1)口話とは、相手の音声言語を、読話(*2)によって理解し,自らも発話により音声言語を用いて意思伝達を行うことです。
*2)読話とは、相手の口の動きや表情から音声言語を読み取り理解することです。クチパクだけで通じ合うのも口話をマスターしていればできちゃいます。



それから、もしかしたら、担任の先生の恫喝や、学級運営の拙(つたな)さを感じられた方もいらっしゃるかもしれません。
{netabare}
背景は、いろいろあると思います。例えば、
・障害のあるお子さんを受け入れる際の「指導要領の内容」の実態。
・大学の教育課程での障害児・者への国の施策や当事者団体の「学習の位置づけの弱さ」
・養護学校への「予算配分の少なさ」
・そして何よりも「硝子への支援方法についての不勉強」が強烈に描かれていることです。

そもそも、一般的に言っても、子どもには障害についての知識はないのです。そしてどこまでも自分本位なのです。
将也が「退屈なことを嫌がり、面白いことが大好きで、硝子の耳がどこまで聞こえるのか興味を持つ」ことは、とても子どもらしいと思います。それは至極、当たり前のことです。彼の人生にそういう子が現れなかったから尚更です。
彼の母親も自営業で、一家を支えて、日々時間に追われていることも、日本のなかでは普通にみられる風景です。

私が印象に残るのは、硝子も将也も、それぞれの母親も、精一杯人生を歩んできているのだから、誰からも責められることではないのに、いわれのない言葉で心に傷を負わされ、コミュニケーションがうまく取れなくなっていくしんどさと不条理さです。

音が聞こえないことは、硝子が好き好んで選んだ人生ではありません。硝子の母親にもその責任なんてどこにもありません。
でも、硝子は難聴を受け入れています。彼女は、当たり前のように補聴器とノートを使ってコミュニケーションを図ろうとしています。これは、硝子にとっては至極当たり前のこと。生きるための方法であり、硝子のもつ文化そのものなんですね。

クラスのみんなもノートを頼りに関わっていっています。手話も有効なコミュニケーション方法だからその導入も図ろうとします。これも、学級運営で作られつつあるお互いのための「新しい文化」なのです。

どうにもうまくいかない理由はいろいろあるのでしょうが、些細な誤解とか、思い違いとか思い込みとかでしょう。安易なことばに心に深い傷を負う子ども(佐原)もいるのです。

大切なことは、「誰が」悪いのではなく、どうすれば一歩前進するのか。
「誰か」を責めるのではなく、事柄・やり方を改善・改良することでした。
事柄とは、言葉の使い方であったり、態度であったり、当番制であったり。「文化」の醸成には「これが答え」というものはなく、たゆまぬトライ&エラーこそが、「より好ましい答え=新しい文化」に近づく唯一のやり方です。

先生だって難しさを感じていたと思いますが、それでも一応大学を出ているわけですから、あの姿は、正直、感心できませんね。
教室で起こることは教室のなかで解決する努力をする。子どもたちの側に立つ。子どもたち主体で学級運営をする。
先生がそこに向かっていれば、将也も植野も川井も、別のやり方にトライできたのではないかと思います。
{/netabare}

もう一つ踏み込むと・・。
「普通」「常識」「文化」。その概念は、とんでもなく幅が広いです。

{netabare}
最初のポイントは、硝子が感じている「不便さ」を知ることです。
クラスメイトという「多数」がそのクラスの「常識」を無意識につくり、それが「普通」なこととして運営されるようになると、「少数」の側には「普通」でない「不便さ」が生まれてきます。

もっと言えば、その「普通」とは、クラスの多数者が ”許容することのできる” 範囲の「普通」という意味を持っていること。
その「普通」は、硝子にとっては、クラスメイトには ”許容されていない” 範囲に存在しているとハッキリと感じられるのです。

多数にとっての「普通」は、少数にとっての「普通」ではありません。
将也たちとっては、「普通」に振る舞うこと自体が、とっても見えにくい「文化の壁=社会的障壁」を自分たちが作り出しているのです。

いまある社会そのものが、壁を作っているのです。それはとても見えにくい壁ですが、確かに硝子を阻んでいるのです。彼女が「普通」でありたいという気持ちと、行動の一つ一つを阻んでいるのです。

二つ目のポイントは、その「社会的障壁」と呼ばれる壁は、大多数の側の人たちが「より良く快適に暮らすため」「ごく普通に暮らすため」に作り出した「影」の部分だということなのです。
これは民主主義の「影」でもあります。

多数者と少数者の「普通」の概念は、そもそも入口が別のようです。
なぜそうなったのか? 
それは、その概念自体に、身体や、知的や、精神の障害をお持ちの方々や、難病をお持ちの方々が、社会に、政策に、政治に参加する機会が極めて少なかったからです。意見を反映させる機会が極めて少なかったからです。
なぜそうなったのか?
それをここで述べることはやめておきます。

でも、たとえ入り口が別だとしても、同じ学校で、同じ地域で、同じ職場で、誰もがその人らしく生き生きと暮らせる「普通」があるほうが、ずっとずっと、いいんじゃないかと、私は感じるのです。

「聲の形」は、その「普通」という文化をトライ&エラーで新しく作り上げていくプロセスを、硝子と将也と2人を取り巻く友人たちの交流(ソフトパワー)に示してくれています。

例えば、ユニバーサルデザインという概念もあります。
背の高い人と低い人への配慮として、自販機の選択ボタンの位置がちがっているのもそうですね。
車いすの方、お年寄り、子どもたち。社会への参加がた易い「多数者」の陰に隠れがちな「少数者」の人たちへの「合理的配慮」でもあります。

硝子と将也が暮らす街は、水がとてもきれいな大垣市が舞台です。
呼びかけ合えば笑顔が返ってくるような、そんな澄んだ街になるといいですね。
全国に、そんな街をつくること、そんな文化を作ること。
そういうことが、この作品から視聴者の皆さんに伝わるといいなと思います。

ユニバーサルな文化を作る。私は、個人的には、憲法にうたわれている「基本的人権」の発露だと思っています。
{/netabare}

ここまでお読みくださった方、本当にありがとうございます。
{/netabare}

もう一度、「私たちぬきで、私たちのことを決めないで」 

あまり耳にすることのないフレーズだと思います。でも、実は、国際社会ではよく使われています。 
硝子や将也がどういう時代に生きているか、ヒントになると思います。
少し長いですが、興味のある方は読んでみてください。

{netabare}
障害者権利条約

外務省Vol.109 「障害当事者の声が実を結ぶとき~障害者権利条約の締結」より抜粋しました。

●以下、「→ 〇〇は~」、硝子の支援者の解説です。参考になさってみてください。
(長文ですので、→のところだけを読んでくださってもけっこうです)


●1、2006年、「国連総会」で,「障害者の権利に関する条約」。
いわゆる「障害者権利条約。しょうがいしゃ けんり じょうやく」(略称)が採択されました。

→ 今から12年前、国際社会は、障害のある人には、権利があるってことを決めたよ。

●2、障害者権利条約は,障害者の人権や基本的自由の享有を確保し、障害者の固有の尊厳の尊重を促進するため、障害者の権利を実現するための措置等を規定しており,障害者に関する初めての国際条約です。

→ 今まで、こういうことを決めたことはなかったんだよ。

●3、その内容は前文及び50条からなり、市民的・政治的権利,教育・保健・労働・雇用の権利、社会保障、余暇活動へのアクセスなど、様々な分野における障害者の権利実現のための取組を締約国に対して求めています。

→ 硝子が悲しい思いをしないように、国連は、日本の政府にもいろんな取り組みを進めるように求めることになったんだ。でも日本の政府はすぐには参加しなかったんだ。

●4、それから8年後の2014年、我が国は障害者権利条約を批准しました。
障害者権利条約では,障害に基づくあらゆる差別を禁止しています。

→ でもね、日本の政府は、硝子が絶対に差別されないようにするって。日本に住んでいる障害者を守るって決めたんだよ。

●5、ここで言う「差別」とは,障害者であることを理由とする直接的な差別だけでなく、例えば過度の負担ではないにもかかわらず、段差がある場所にスロープを設置しないなど、障害者の権利の確保のために必要で適当な調整等を行わないという「合理的配慮の否定」も含まれるということが、明確に示されています。

→ 差別は、硝子だけに起こるんじゃないよ。それに、硝子らしく生きることは、どんな人にも、その人らしく生きることができるってことになるんだよ。

●6、またこの条約は、障害者が他の人と平等に、住みたい場所に住み、受けたい教育を受け、地域社会におけるサービスを利用できるよう、障害者の自立した生活と地域社会への包容について定めています。

→ 硝子は、どこの町に住んでもいいし、どの学校にも行けるようにするよ。日本の国は、そういう国になっていくんだよ。

●7、さらに、条約の内容が実施されているかを監視する機関を国内に設置することが明記されています。

→ もし、嫌なことや辛いことが起きたら、相談のできる場所も作るから、黙っている必要はないんだよ。

●8、条約の起草に関する交渉は、政府のみで行うのが通例ですが、委員会では、障害者団体も同席し、発言する機会が設けられました。

→ この決まりごとは、障害のある人と一緒に作ってきたんだ。彼らは立派だった。発言もたくさんしたんだよ。

●9、それは、障害当事者の間で使われているスローガン「“Nothing About Us Without Us”(私たちのことを,私たち抜きに決めないで)」にも表れているとおり、障害者自身が主体的に関与しようとの意向を反映し、名実ともに障害者のための条約を起草しようとする、国際社会の総意でもありました。

→ 彼らは、障害があってもなくても、自分たちのことは自分たちで決めるってことをいちばん大切にして来たんだよ。

●10、日本からも延べ200名ほどの障害者団体の関係者が交渉の行われた国連本部(ニューヨーク)に足を運び、実際に委員会を傍聴しました。

→ ニューヨークってアメリカの大きな町で、障害のある人が200人も参加したんだよ。

●11、日本の政府代表団には、障害当事者が顧問として参加し、日本は積極的に交渉に関与しました。

→ 日本の政府の人も、障害のある人と一緒に行ったんだ。

●12、2013年、衆議院本会議、参議院本会議において、全会一致で障害者権利条約の締結が承認されました。

→ ここ日本では、5年前に、国会というところで、議員さんが全員賛成したんだよ。

●13、これを受けて2014年、国連代表部大使が、障害者権利条約の批准書を国連に寄託し、日本は140番目の締約国となりました。

→ 4年前に、国会で決めたことを、国連に伝えに行ったんだ。世界では140番目の国だったんだ。

●14、日本がこの条約を締結したことにより、障害者の権利の実現に向けた取組が一層強化されることが期待されています。

→ こうして4年前に準備が始まった。これから硝子たちが、学校で勉強しやすくなるし、友達ともたくさん、そして普通にお話ができるようになっていくよ。

●15、例えば、障害者の表現の自由や、教育、労働等の権利が促進されるとともに、新たに設置された「障害者政策委員会」にて、国内の障害者施策が条約の趣旨に沿っているかとの観点からモニタリングが進められることになります。

→ 硝子が学校で困っていないか、大人の人がきちんと見守ってくれるよ。そういう仕組みもできていくんだよ。

ここまでは外務省ホームページより抜粋しました。
{/netabare}


ここまで、読んでくださって本当にありがとうございます!!
ちょっと、かたぐるしくていけませんね。

さて、次行ってみよう!!

内閣府では、次のようにまとめています。ガンバ!!
{netabare}

障害者政策委員会第1小委員会(第3回)議事次第より抜粋しました。
(平成24年10月15日付)

●1、障害者の支援は障害者が直面するその時々の困難の解消だけに着目するのではなく、障害者の自立と社会参加の支援という観点に立って行われる必要があること、障害者の家族を始めとする関係者への支援も重要であること。

→ 硝子やお母さん、その友達もふくめて、今も、これからも、この町で支援が受けれられるようにするよ。

●2、外見からは分かりにくい障害が持つ特有の事情を考慮するとともに、状態が変動する障害は、症状が多様化しがちであり、一般に、障害の程度を適切に把握することが難しい点に留意する必要がある。

→ 硝子が難聴なのは、ちょっと分かりにくいからそこは自分でも伝えていこうね。みんなで気をつけるようにするよ。

●3、障害のある子供は、成人の障害者とは異なる支援を行う必要性があることに留意する必要がある。

→ 同じ難聴でも、子どものときの硝子と大人の硝子では、支援の仕方が違うんだよ。硝子、わかるかい?

●4、障害者施策の評価に当たっては、障害者が意思決定過程に参画することとし、障害者の視点を施策に反映させることが求められる。

→ 硝子もお母さんも、難聴のある人の支援のしかたについて、仕組み作りに参加しようよ。

●5、聴覚、言語機能、音声機能のため意思疎通を図ることに支障がある障害者に対して、手話通訳者、要約筆記者、盲ろう者向け通訳・介助員等の派遣、設置等による支援や点訳、代筆、代読、音声訳等による支援を行うとともに、手話通訳者、要約筆記者、盲ろう者向け通訳・介助員、点訳奉仕員、朗読奉仕員等の養成研修等の実施により人材の育成・確保を図り、コミュニケーション支援を充実させる。

→ 耳が聞こえなくても、いろんな人に助けてもらえるんだ。これからはそれを当たり前って言えるようにしていくんだよ。

ここまで、障害者政策委員会第1小委員会 議事録よりの抜粋でした。
(平成24年10月15日付)
{/netabare}

さて、硝子や将也の関わるのは、「教育」の分野です。ここが肝心です。
{netabare}

教育にかんしての基本的考え方(平成29年12月22日、内閣府)

●1、障害の有無によって分け隔てられることなく、国民が相互に人格と個性を尊重し合う共生社会の実現に向け、可能な限り共に教育を受けることのできる仕組みの整備を進めるとともに、障害に対する理解を深めるための取組を推進する。

→ 硝子の耳のことも、クラスのみんなと一緒に教室で学んでいこう。障害があってもいいんだ。それがどんなふうに困っているか、どうしたらもっとよくなるかをみんなが知ることも勉強なんだよ。

●2、インクルーシブ教育システムの推進。
「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、包容する教育制度)とは、人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みとされている。

→ 難しく考えることはないよ。これから学校は「インクルーシブ」っていうことばで一緒に勉強していくんだよ。

●3、障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、基礎的環境の整備を進めつつ、個別の指導計画や個別の教育支援計画の活用を通じて、幼稚園、小・中学校、高等学校、特別支援学校等(以下、「全ての学校」という。)に在籍する障害のある幼児児童生徒が合理的配慮の提供を受けながら、適切な指導や必要な支援を受けられるようにする。

→ 硝子は、この学校でみんなと仲良く勉強できるように先生に意見を出して伝えてほしいし、先生もしっかり聞くよ。そうして先生が硝子の計画書を作るよ。硝子の意見や想いを受け止めて、勉強の指導も、障害の支援も、計画書に書くんだよ。

●4、こうしたことを通じて、障害のある幼児児童生徒に提供される配慮や学びの場の選択肢を増やし、障害の有無にかかわらず可能な限り共に教育を受けられるような条件整備を進めるとともに、個々の幼児児童生徒の教育的ニーズに最も的確に応える指導を受けることのできる、包容する仕組みの整備を推進する。

→ 硝子は、ノートを使ったり、手話を使ったりして、みんなとお話がしたいのだから、クラスのみんなにもきちんと説明するよ。どうするのがいいのか、その都度話をしようね。

●5、あわせて、「いじめの防止等のための基本的な方針」を踏まえ、障害のある児童生徒が関わるいじめの防止や早期発見等のための適切な措置を講じるとともに、障害の社会モデルを踏まえ、学校の教育活動全体を通じた障害に対する理解や交流及び共同学習の一層の推進を図り、偏見や差別を乗り越え、障害の有無等にかかわらず互いを尊重し合いながら協働する社会を目指す。

→ 将也はよくなかったけど、硝子のことをよくわからないことも理由だったよ。クラスのみんながどんなふうに接するといいのかを、目標や助け合いのやり方を先生は考えるし、取り組んでいくよ。

●6、障害のある児童生徒の就学先決定に当たっては、本人・保護者に対する十分な情報提供の下、本人・保護者の意見を最大限尊重しつつ、本人・保護者と市町村教育委員会、学校等が、教育的ニーズと必要な支援について合意形成を行うことを原則とするとともに、発達の程度や適応の状況等に応じて、柔軟に「学びの場」を変更できることについて、引き続き、関係者への周知を行う。

→ 硝子がこの学校に来たい気持ちは大事にするよ。お母さんも一緒にみんなで話し合いの場を作るよ。いやで我慢ができないときは、いつでもお話しできる人がいるから安心してね。

●7、校長のリーダーシップの下、特別支援教育コーディネーターを中心とした校内支援体制を構築するとともに、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、看護師、言語聴覚士、作業療法士、理学療法士等の専門家及び特別支援教育支援員の活用を図ることで、学校が組織として、障害のある児童生徒の多様なニーズに応じた支援を提供できるよう促す。

→ 校長先生が一番先頭に立って、硝子を守るよ。それは学校の先生の仕事なんだよ。一緒に学校でできることを探そうね。

●8、各学校における障害のある幼児児童生徒に対する合理的配慮の提供に当たっては、情報保障やコミュニケーションの方法について配慮するとともに、幼児児童生徒一人一人の障害の状態や教育的ニーズ等に応じて設置者・学校と本人・保護者間で可能な限り合意形成を図った上で決定し、提供されることが望ましいことを引き続き周知する。

→ 硝子は、どんなことを質問してもいいし、先生も一生懸命に答えを見つけるからね。そのときお母さんが一緒でもいいんだよ。それはとても大事なことなんだよ。

●9、特別支援学校、特別支援学級、通級による指導を担当する教員については、特別支援教育に関する専門性が特に求められることに鑑み、特別支援学校教諭等免許状保有率の向上の推進を含め、専門性向上のための施策を進める。

→ 硝子は、心配なことは先生に話してくれるといいな。先生ももっと難聴のことは勉強させてほしいんだ。そういう役割を持ちたいんだよ。 

ここまでは、内閣府 障害者政策委員会 議事次第より抜粋しました。
(平成29年12月22日付)
{/netabare}

ここまで、目を通していただきまして感謝しています。
お疲れさまでした。


聲の形。

聲は、三つの形があると思います。三つのコミュニケーション方法です。
{netabare}

一つは、バーバル。言語的コミュニケーション。
日本語、英語など。話や文字など「言葉を使った」コミュニケーションです。朗読や落語、カラオケもそうです。ターザンの雄たけびもそうかも・・。ん?違うか。

二つめは、ノンバーバル。非言語的コミュニケーション。
顔の表情、身振り手振り、声のトーンなどの「言葉以外での」 コミュニケーションです。赤ちゃんの「ばぶばぶ、んまんま」もそうです。これは喃語(なんご)と言います。
パントマイムは立派な芸術でもありますね。
手旗信号なども立派なコミュニケーションの方法ですね。

三つめは、スキンシップです。
肩に触れる。手をつなぐ。固く抱き合う。ハイタッチする。グータッチもそう。髪をなでる。キスもそうですね。

どれもコミュニケーションです。

このように文字を使って概念化すると、硝子の聲も「普通」にコミュニケーションの一つなんだとわかります。
それが分かるように教えられない学校教育ってなんだ?と思います。

国語も算数も、英語も。みんなコミュニケーションのための媒体の一つに過ぎないです。
音楽も、絵画も、鬼ごっこも、やっぱり同じ媒体じゃないのですか?

学校の教育論について、どうのこうのいうつもりはありませんが、国語算数、理科社会。それらは媒体でしょう。
そういう媒体(教科)を通じて、理解力や咀嚼力、考察力や洞察力、想像力や創造力、そして協調性や向上心。
そういったものを身に付けることの方が大事なことじゃないかなって思うのです。

教育って、人間を深く理解するためにあるんじゃないんですか?
それって、人間を幸せにするためにあるものなんじゃないんですか?

もちろん友達の顔に「✖」を貼ったのは将也自身の心のありようです。
彼自身がレッテルを張っているのです。ですからそのレッテルを剥がすのは将也の手で剥がすしかありません。
でも、その原因が、小6のときの間違えてしまったコミュニケーションにあったのだとしたら、それはその時に戻ってやり直すか、あるいは、今生きている世界でもう一度取り組むか、先送りして苦しみ続けるか、死ぬまで持ち越していくかだと思います。
四者択一です。

硝子と将也は、友達の顔をまっすぐに見て、喜怒哀楽を感じながら、思いに寄り添ったり、時にはぶつけ合ったり、そういうことをいっぱい感じられるような生き方を選びました。
素敵だなって思います。

生きるって楽しい。そう思えるときはそのように。
辛いときは辛いと言えるコミュニケーションがあるし。
伝えたいことがあるときは、勇気を武器にしてコミュニケーシできるし。

硝子の笑顔って、ほんとうはとてつもなく素晴らしいコミュニケーションのひとつだったって。

そこに硝子がいてくれたから気がつくことができました。
そこに将也がいてくれたから、私に分からせてくれました。

聲の形は、いくつもあるんだってことを分からせてくれました。

{/netabare}

このアニメの懐の深さは、人が人として最も大事にしなきゃいけないところを、硝子と将也に演じさせたところだと思います。

2人だから、ここまで魅せてくれた。
すばらしい作品だと思います。

あにこれの先輩レビュアーに進められてコミックスも読んでみました。期待を超える表現に圧倒されました。先輩レビュアーに感謝です。
私からも、未読の方にはお勧めします。


★2018.4.8、追記しました。
{netabare}
聴覚障害の理解のために少し述べておきたいと思い追記しました。

①自然科学(医学、治療、リハビリ)
②社会科学(教育、共生、共同)
③人文科学(本作品など)の3領域でみておきたいと思います。

②社会科学の側面では、前述のレビューのとおりです。

①自然科学から聴覚障害をみてみます。
{netabare}
先天性と後天性。

先天性は、生まれたときから脳、聴覚神経系、三半規管、内耳、中耳など、「聴きとる力」に障害がある状態です。

今は、国、地方自治体、医療機関が連携して、早期発見、早期治療、早期療育に動いています。(平成21年より)
赤ちゃんが生まれると、新生児聴覚検査をします。時期は生後2日目~産婦人科退院前です。
次に、退院後、1か月健診をし、聴覚に障害の兆候がある場合は、生後3~4か月までに診断の確定が行われます。
難聴が認められると《 生後6か月までに療育を開始する 》ことになっています。

これから、お父さん、お母さんになられる予定の方にお願いがあります。
万が一、お子さんに硝子のように聴覚に障害があることが分かったとき、「わが子に限って!?」とフリーズするのではなく、現実を受け止め、いち早く打ちのめされて、そして少しでも早く立ち直って、6か月を待たずに療育を開始する判断をしていただきたいのです。子どものためのベストの選択をチョイスし、一歩を踏み出してほしいのです。
硝子を思い出していただきたいのです。

平成20年度までは「1歳半健診」が脳の発達、心身の成長の具合を確かめていたのですが、それでは間に合わない実態があったので、その反省を踏まえて今は「6か月」という段階で判断するようになっているのです。

聞こえないことのハンディは、日本語の発声ができないことにつながります。発声というのは自然に身につくのではなく、たゆまぬ反復訓練があってこそ身につけることができます。
否、聞こえないからこそ、専門家による適切な療育が必要です。我流やほったらかしは厳に慎んでほしいのです。

硝子も、口話法(聴覚口話法とも言います)を学んでいたと思います。
これは、聴覚障害児に、健常者の口の形と補聴器や人工内耳から聞こえる音をたよりに発音の技術を覚え、音声による会話ができるように指導する方法です。
硝子が「好き」を「つき」と発声することができたのも、このトレーニングを受けていたからだと思います。

将也に伝えたい感情を「ツキ=好き」という言語と発声に置き換えることができる力を硝子は獲得していました。これは表現方法に選択肢が増えたということ。硝子の頑張りの賜物(たまもの)です。

「気になる感情」を「好き」という言語に置き換える力。
それは言語の持つ意味とか概念とかを理解し、使い分け、表現する力。
「好き」という言葉を「すき」という発音に置き換える力。
それは発声法の訓練に立ち向かう力と、発声する技術を獲得する力。
「ツキ」と聴き取られてしまったあとに、「好き」を手話に変換する力。
あるいはノートに「好き」と書く力。
ここまでは、学習によってある程度は獲得できます。
これが療育・教育の効果なのです。もちろん、本人の努力や周りのサポートもあったからでしょう。

ですが、私は、硝子が、「好き」だと自分の言葉で伝えたくなる気持ちに、恋するすばらしい力があると深く思いを致すのです。(*3、後述)

恋する力は、聴覚に障害があってもなくても、何一つ私達と変わるところはありません。


次に、後天性。
後天性は、おおよそ3歳以降、病気などで少しづつ聴覚を失っていく。あるいは、交通事故、スポーツ障害、不慮の転倒、レクリエーション中の事故などで、突然、聴覚を失うこともあります。
そしてそれは、「大人でも同じ」なのです。

この場合、少しでも聞こえが悪いと感じたら、すぐに小児科や耳鼻科(あるいは、救急外来、脳外科、脳神経外科など)を受診して、しっかりした診断を受けて、医師の指導の下で適切な治療を受けていただきたいと思います。

後手に回らないことです。一刻も早く、何をおいてもです。

内服、または言語療法などのリハビリテーションを早期に開始することで、回復の効果についての「評価」を早めに得ることです。

大事なことは「時間」です。いつだって時間が問題になるのです。
データによると、発症後、2週間をすぎると、完全に失聴する場合があるようです。
{/netabare}


③人文科学から。
{netabare}
近頃は、障害とか難病とかをテーマにした恋バナが多くなってきていますね。

ここでは、アニメ「図書館戦争」をご紹介します。
パッケージ版の作品のなかに「恋ノ障害」という作品があります。
残念なことに、TV未放送、レンタル版未収録の作品です。

この「恋ノ障害」に、難聴の女性、中澤毬江(なかざわ まりえ)が登場します。硝子は先天性でしたが、鞠江は後天性難聴です。

それから「恋ノ障害」の演出に使われていたのですが、「レインツリーの国」という書籍があります。この作品には、ひとみという中途失聴の女性が主人公で登場します。(新潮文庫、平成21年7月1日初版、有川浩(ありかわひろ)著)。

*3)この2作品にも、恋することの素晴らしさ、恋の持つ力が十二分に表現されています。
もしよければ、ご覧になってみてください。

後天性失聴(聾・ろう)の鞠江やひとみとは違って、先天性失聴(聾啞・ろうあ)である硝子が、「音声」に拘り、憧れ、絶望した心情に思いいたすとき、本作の「並びないテーマ性の気高さと、多様性への寛容・受容を示したメッセージの尊さ」に心が震えて仕方ないのです。
{/netabare}

{/netabare}
長文を最後までお読みいただきありがとうございました。
この作品が皆さまに愛されますように。

投稿 : 2018/11/05
閲覧 : 688
サンキュー:

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