ossan_2014 さんの感想・評価
3.0
物語 : 3.0
作画 : 3.0
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
廃墟の理想郷
*誤記訂正
〈未評価〉
おそらく本作には「評価」をする要素が無い。
作品世界の全体が、何かを「物語る」ために創られたものではないからだ。
作品世界は、そこで作者が遊ぶための自作のユートピアであり、その中に入っていけるかどうかは、それぞれの視聴者の好き/嫌いという好みの問題でしかない。
入り込めないとしても、作品の描写力が劣っているからでも視聴者の鑑賞眼が低いからでもないし、強く惹かれたとしても、作品の主題や語り口が優れているからではない。
純然たる好みの問題であって、何かの優劣による「評価」の結果ではないということだ。
こうした作品が、表現物として無価値というわけではない。
マンガで言えば、例えば、ますむらひろし の『アタゴオル』や、西風の『GTロマン』、あるいは『Dr.スランプ』も含まれるかもしれないが、こうした「自分のユートピアに作者が遊ぶ」作品群は昔から存在する。
語られる物語やテーマなどなくとも、作者と共にユートピアで遊ぶ経験は楽しいし、悪いことは少しもない。
作品世界が作者の理想郷であると、まず最初に視聴者に突き付けられるのは、「終末」世界を「旅行」する少女たちが、軍服に身を包み、軍用車両で移動するビジュアルだ。
もちろん、作中世界的には、こうした、未来的ではない、クラッシックな軍装と車両を使用する必然が設定されているに違いない。
だが、「終末世界の廃墟を少女が移動する」というモチーフからは、服装や車両が「軍用品」でなければならない必然は導かれない。
軍用品を設定する「必然」は、作者の「好み」に適応させる必要性から生じている。
作中世界が作者の「ユートピア」として在るために、軍装の設定が必然化されるのだろう。
同様のことは、腐敗した有機物が存在しない「廃墟」にも言える。
崩壊した機械やガラクタが散乱する中、未加工の食料や排泄物や死体のような「腐敗した有機物」が存在しないのは、これも何らかの理由と方法で排除されているという設定が存在しているのだろう。
が、設定が必要とされるのは、物語や主題の要請ではなく、それが作者の「ユートピア」には不要であるからだ。
作者の望む理想郷は、無機的な廃墟を軍装の少女が彷徨うものであり、そこに入り込めるかはそれぞれの視聴者の「好み」にシンクロするかどうかであって、設定に不自然さを感じるかどうかではない。(矛盾を感じたとしても、この「世界」が好きであることに何の障害もないだろう)
何故この世界は「廃墟」であるのか、「終末」はどのように生まれて進行してきたのか、「未来」に「希望」はあるのか。
一応のところ、謎めいた仄めかしや断片的な情報の開示で、少しずつ進行する「物語」があるように見せかけられている。
が、それは「日常もの」の作品が、作品としての枠組みが必要であるから部活動や学校生活の描写を必要としているのと同じような意味しかない。
そもそも「謎めい」て「断片的に」しか描写されないのは、登場人物たちが「謎の解明」に向けて行動することが無いからだ。
全体像を明らかにする「物語」を描いてしまえば、「謎」が明らかになった瞬間に「ユートピア」世界は役割を終えて消失してしまうだろう。
「記録」を指向する主人公の一人は、しかし「謎」の探求に積極的取り組みはしないことによって、実は(作者によって)「謎」に関心を「持たされていない」ことを暴露している。
もう一方の、関心どころか何物も考えようとはしない主人公の相棒と、決定的に対立しないところからも、それはうかがうことが出来る。
そうした、ユートピアの永続の欲望を託されているのが、ユーリというキャラクターだ。
何事も思考しようとしないキャラクターは、小賢しい人知を見限り、超然と運命を受容しているように見せかけたいのかもしれないが、「考えるな、感じろ」といった経験的な賢者のような肚の座った重厚さを全く感じさせない。
冒頭での、装填したライフルの銃口を友人に向ける無思慮な行動が以降の無思考を象徴していて、一切の思考と言うものを放棄した反知性的な自堕落さは、しかし直観による「真実」の把握などを感じさせることもない。
単なる知的怠惰だ。
「ユートピア」で遊び続けるには、理想郷の「ネタを割る」者や行為は、絶対のタブーだからなのだろう。
作品は終幕を迎えたが、「終末」世界の「旅行」は終わっていない。
今も、絶望を漂わせた無機質な「廃墟」の「ユートピア」で、作者と彼女たちの遊びは続いているのだろう。