「Re:CREATORS(レクリエイターズ)(TVアニメ動画)」

総合得点
85.2
感想・評価
1070
棚に入れた
5279
ランキング
252
★★★★☆ 3.7 (1070)
物語
3.6
作画
3.9
声優
3.7
音楽
3.8
キャラ
3.7

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ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

観る人、創る人への応援アニメだよ。

導入部はバトルもののように感じられますが、実はお話の一部。それ以外の要素もたくさんあると思います。
私は、アルタイルと真鍳に注目しました。この2人、とても魅力的。本来なら 青春真っ只中の世代なのですが、・・アルタイルは自分が生まれた瞬間からセツナの死を心中に宿しています。真鍳も人を殺め、創造主の鞍隈も死に追いやっています。この設定の重さ。2人の心理・心情にどんな影響を及ぼしているのか、2人の言葉や行動にどんなふうに現れるのか。私はそれを知りたくて、「死へのトラウマの心理描写と、その喪失感から前に進むRe:CREATORS」のお話、と見立てて観ることにしました。( 同様に、颯太やメテオラ、アリステリア、ブリッツ、松原、高良田も、それぞれ大切な人と死に別れる設定。・・ガチに重いです。)

では、2人の人となりと、森羅万象(ホロプシコン)と言葉無限欺(ことのはむげんのあざむき)の視点からの感想です。
{netabare}
Re:CREATORSの作品としての味わいは、” 陽のアルタイル ”、” 陰の真鍳 ” の存在があるからだと思います。 この2人はただ一度の対面も会話もなく重なりはありません。 まるで二重衣 ( ふたえころも )のようです。表の生地の”たて糸”がアルタイルで、裏の生地の”たて糸”が真鍳。そのほかのキャラが”よこ糸”。 この”よこ糸”が、二重衣の表と裏の”たて糸”にからむ糸のように思えるのです。それほどにこの2人が中心にいるように思えるのです。

2人の相似点は、
創造主を失っていること。そして、性格は・・・エゴイスト(自己中心的)で、ナルシスト(自己愛性)、いささか偏狭的。手前勝手な理屈を撒き散らし、後だしジャンケンのような振る舞い。 上から目線で高飛車で、簡単に人を弄んだり、欺いたり、丸ごと否定して、物語を好き勝手に改変してしまう。 後付け設定のアルタイル、前振り設定の真鍳、設定は違えど帰結点(相似点)は同じです。(それにしてもすごい人物像ですね)
似ていないところにも注目。
アルタイルは、セツナを放逐した世界・物語・人を全て否定しました。真鍳は、真逆です。全てを肯定し、世界の果てまで行っちゃいたいし、人が好きだと。 (この違いが決定的な差となって物語が終局します。)
アルタイルは、森羅万象という能力は持っていたけど、それを何に何のために使うのかという設定はすべて後付け。他力本願を旨とするタイプ。( 絶対の0.5秒で遂に自力本願に大変身! )   真鍳は、はなから強烈に設定されている人格で、言葉無限欺を気分次第で駆使して物語を自由自在に操る自力本願タイプ。
アルタイルの実存価値は、世界と物語世界を破滅させるためにある。 真鍳の生きる意味は、どんな世界でも面白くすることだし、とことん楽しんじゃうこと。
森羅万象は、無窮に生み出される欲望・情動から生み出される。 言葉無限欺は、その欲望と情動を読みとり、捻じ曲げ、くるりと裏返す。
アルタイルは、セツナに「弱くなんてない!」と観客の前で呼びかける。  真鍳は、鞍隈を「根性なし」と一人つぶやく。
アルタイルは、セツナに全く新しい別の世界を創りだす。  真鍳は、鞍隈に死をもたらす。
アルタイルは、セツナの名を何度も何度も何度も呼ぶ。( 求めて止まない )  真鍳は、鞍隈の名を一度も呼ばない。( バァ〜カって淋しそう )
などなど、この2人の違いは、実に対照的で対極的に見えます。

そんなおかしな2人に振り回され、右往左往する誠実で実直な主人公たち。正直、迷惑千万な話です。元のお話では主人公なのにまるで脇役扱いです。でも、その脇役たちの登場もさすがです。とにかくド派手。 しかも自分から「主人公だ‼︎」って言ってるもんだから、観ている方はいったい誰が主人公なの?と思っちゃうんですね。 彼らの言葉をようく聞いてみると、そう、やっぱり彼らは主人公。だって思わず納得のできる言葉を喋っているんですもん。
「せいぜい面白くしろ」、「面白いものを死ぬ気で描け」( アリステリア )、「面白いことしか興味がないよ?」、「面白くしておくれなのだよ」( 真鍳 )、「フツーに書いてもつまんねーしな」( 松原 ) 、「妄想で書かれているかもしれないなんて!」( セレジア )、「変なものは、おもろい」「あれで話がおもろなったで」( 駿河 ) 、「話が転がるほうが面白そうだと思った」( 中乃鐘 ) 、「衝撃の展開ですよ!」( まりね ) 、極めつけは「おまえ、ひっでえもん書くなぁ」です。みんなが「血道をあげて」(セレジア、ブリッツ)、いかに面白いお話にするか、それを楽しんでもらえるか、そう喋っています。台詞のなかに主人公の本音が見える。真鍳だけじゃなかった‼︎
敵キャラでも誰でも、それを観る人、読む人、共感する人がいてこそ物語になる。私が一番私らしくあるためにはあなたが必要。「打てば響く。いいもんだねぇ。・・だから私は人が好き」って真鍳が言ったのはここですね。最高にステキな台詞だと思います。

元の物語世界に戻った鹿屋、弥勒寺、翔、ひかゆ、ブリッツ、エリナ。 自分の選んだ物語を選んで途中退場したアリステリア、まみか、セレジア、カロン。 新しい物語世界を求めて旅立ったアルタイル、セツナ、真鍳。 彼らを見送り、物語を前に進める決意を示した松原、まりね、中乃鐘、八頭司、高良田、駿河、大西、新たに加わったメテオラと菊地原。  自分の物語にプライドを持って生きているのはみんな同じ。 そして水篠颯太。 彼と島崎とのささやかなメールの交換がこの物語の始まりだった。 凄い人たちとの出会いがあって別れがあって。 何度となくあって。 彼は再びパソコンに向かいイラストを描きだす。皆がRe:CREATORS。(再び創造する人たち)
お話の味付けとして、バトルのぶつかりあい、壮大なシンクロニシティの世界観がある。そのダイナミズムも面白い。
{/netabare}
次に、シンクロニシティ(英語:synchronicity)という視点で。
{netabare}
ウィキペディアより。
シンクロニシティとは、「意味のある偶然の一致」のことで、日本語訳では「共時性(きょうじせい)」「同時性」「同時発生」とも言う。スイスの精神科医・心理学者のユングが提唱した。
(引用はここまで)
例えば、自分の友人が日本に3人いて、偶然に同じ時間、同じ場所で、同じランチを食べているとか。あるいは高崎山のサルと九州のサルが同じ時期に同じ行動をし始める(芋を洗って食べる)ようになるとかです。お互いになんの情報の交換も交流もないのに、なにか別の要因で伝播(でんぱ)するかのように結び付けられる事象ですね。分かりやすく言えばこういうことをシンクロニシティというそうです。
上手く言うのは本当に難しいのですが、私は、この作品のシンクロニシティは、観る人の脳のなかに生じているように思います。 例えば、鹿屋のアクションのなかで、鹿屋と視聴者が全く同じ ” 視界 ”を共有している感じ。もう一つ深く言えば、鹿屋と視聴者の” 思考 ”が完全に一致して共有されている感じ。まるで、” 脳の神経回路が繋がった感じ ”です。 鹿屋と私は、別の人格として存在しているのですが、脳を媒体として、全く同じ時間、空間、音声、臭い、振動、温度、筋肉の動き、痛みなどを共有している感じです。 しかも、鹿屋以外の複数のキャラの脳の活動にもシンクロ二シティがある感じ。 例えば#19の、セレジア、鹿屋、アリステリア、アルタイルらの戦闘シーン。私の脳と、”各人の脳”、そして ” 4人の脳 ”にもシンクロし、理解も思考も存在も一挙に共有し戦いあっている・・。鹿屋がセレジアに「呼吸を合わせて」という台詞もシンクロニシティを後押ししています。 観る人は、こうしたシンクロニシティを感じられるなら楽しめるんじゃないかと思います。
どうして、そのような印象を持ったかというと、今観ているシーンがいったい誰の視点なのか、モニター画面なのか、どこからのパンなのか、はたまたズームなのか、目まぐるしく移動するカメラの位置と角度、スピード感、ピントのズレ、激しく切り替えられるシーンの転換に、私の思考回路が追い付かなかったからです。
ひろえ氏らスタッフの「こう見せたい」とする意図と技術と仕掛けに追随するために、私のとった方法が「脳のシンクロニシティ」だったのです。(すみません、私の造語です。すでにある言葉なのかわかりません。その⑦でもう少し述べます。多元化とか多極化とは少し違うようです) 事実、主人公らの「眼」が、何度も、高速で、一瞬、大きくズームインで表現されています。このシーンを通じて、私の眼は主人公の眼に取り込まれ主人公の脳の活動にシンクロする感じがします。 眼に飛び込んでくる映像が「見えるビジョン」なら、脳内で整合させ再構築(Re:CREATE)させた映像を「心因的に見えるビジョン」とでもいうのでしょうか。脳が同時に、二つのビジョンを共有している感じです。(やっぱりうまく言えないです。すみません。)
これは、映像クリエイターの一つのチャレンジでもあったのではないかと感じました。メテオラの言った「思考の放電回路」という言葉も印象的です。
放送回が進むにつれて、被造物たちの「ものの言い方や振る舞い、立ち位置などが変化したり変容したりする場面」が随所に顔を出します。それにくわえて、それぞれの人間関係や、場面などの設定も複雑ですし、理屈に合わないことも多いので、神経に触ります。 サラリと観られるのは、たぶん初回だけで、そのあとは分かりにくさ、難解さが満載です。これがRe:CREATORSという作品の味なんですね。私は頭がへとへとになりました。
でも、メテオラや真鍳が食べていたハンバーガーの味のように、本当は「重層で美味」なのです。 颯太のキャラもよく噛んで味わってお召し上がりくださいませ。たぶん満足していただけると思います。
{/netabare}
では、感想をいくつか。
その①
{netabare}
まず、メテオラが使った「被造物」と「創造主」という表現。 こうした呼び名は、私にはちょっと馴染みがなくて、お尻の座りが悪いというか、なんだか落ち着きません。 というのも、「被造物」という言葉の持つ無機質的な響き以上に、強烈な存在感と印象を与える主人公が次々に登場するので、普通の人以上に生き生きとした人間性を感じるからです。 神たる創造主の想像力( 妄想? )に囚われないほどに、ゆたかな人間性を持ちあわせている主人公たち。 魅力の大きさでみれば、創造主は被造物に喰われている印象すら持ちます。

松原は自分のことを「創作者」と言っていましたが、彼は自分の立ち位置と役割をよく自覚していますね。全編を通じて一番ぶれていないように見えたのは松原でした。 Re:CREATORSでは、職能上、明確に「設定されている」のは創造主のほうみたいですね。

もうひとつ。旧約聖書で使われるような言葉の印象を持ちました。アルタイルによれば、神代であり別天地だそうです。 なれば、これは人智の及ばない物語として、常識にとらわれてはいけない荒唐無稽の物語として捉えておく構えが必要かもしれない・・と思いました。(旧約聖書では、モーゼが杖を突いたら海が二つに割れたとか・・。古事記も、天沼矛(あめのぬぼこ)で水面を突いてかき混ぜたら日本の国土が浮かび上がったとか・・。空いた口が塞がらないほど荒唐無稽、嘘の嘘でしょ、これ。・・この水と陸をモチーフにした物語、西洋と東洋のシンクロニシティがありますね。不思議!不思議!)

もともと人間の知覚は有限です。科学は今現在の人類の叡智の到達点にすぎません。だからこそ、クリエイターの本質は、科学を突き抜ける無限の想像力。 物語にこそ、森羅万象、言葉無限欺がある。とても素敵です。一つのエンターテイメントとしてRe:CREATORSを楽しみたいと思いました。
そういうわけで、素直に、メテオラの言葉を受け入れることにしました。
ここで頭の整理と、感情移入しておかないと、あとあと違和感に引きずられて、結局何だったのと、モヤモヤな印象で終わってしまいますね。
{/netabare}
その②
{netabare}
続いて、「承認力」というのが、これまた新しくてユニークなキーワードです。 弥勒寺は、早い段階で、人気やら印象やらと喝破していましたし、セレジアもアリステリアとの炎の攻撃で実感していました。
ところで、アルタイルは、「承認力」をどこで、どうして知ったのかな?
セツナの創作したアルタイルはシロツメクサの2次創作ですが、アルタイルが透明無色だったからこそ、3次創作としてネット上にあまたに広がったと捉えれば、そのネット世界がアルタイルが育った場所であり、3次創作者が関わることで、彼女の人格形成 ( 攻撃能力の獲得 ) の過程に多様性が生まれたのかなと考えました。( 例えば、何人もの里親さんが関わってきたような感じかな。) こうしたネットの環境下で、アルタイルは多くの発信者と受け手がいることを感じていたようです。事実、#20でアルタイル自身が確信的に話しています。
現実のサブカル世界を俯瞰(ふかん)すれば、多くのキャラが世界の人に受け入れられ、熱烈なファンもいるわけですから、アルタイルも同じ条件として捉えてもおそらく矛盾はないと思われます。

そしてもうひとつ。セツナの2次創作、world Etudeの名でニワビデオにアップされていました。作者、シマザキ セツナの名も。この作品、おそらく動画視聴者の潜在意識に埋れていたはず。 #21の冒頭、アルタイルは堰を切ったようにセツナの名を4回も呼びました。 アルタイルの熱烈なファンなら、いきなり現れたメガネの女性が、創作者シマザキセツナだと結びつけることができたかもしれません。 アルタイルとセツナの関係性が明かされたことで、観客の「承認力」は爆発的に高まったはずです。
ところで、world Etudeは、” 森羅万象の習作 ” と解すことができますから、3次創作としての森羅万象がたくさん生み出される素地となる可能性を、セツナは秘めおいたはずです。 ネット社会の罵詈雑言に傷つき、死を選んだセツナが、アルタイルをネット社会に委ねたのは、複雑な想いだったでしょう。でも、セツナの経験則では、ネットを通じて生きる喜びや楽しさを見つけることもできたわけですから、きっと颯太にもつながるというささやかだけど美しい物語も秘めたのでしょう・・。#20で明かされますね。
それにしても、森羅万象の能力は驚異的ですね。全ての3次創作の能力を無条件に内包し、たちどころに顕現させ具体化できるのですから。アルタイルですら知覚できない能力が、日々ネットを通じて後付けされていく・・そら恐ろしいことです。  さらに留意すべきは、都合の良すぎる後出しジャンケンのような能力です。ネット住人の情動のなせる技なのか、はたまた、すでにそういう世相だからなのか。 これがアルタイルの承認力のバックボーンになっているとは・・。ちょっと皮相的・刹那的にすぎるという印象を持ってしまうのですが・・。

さて、 松原たちは、アルタイルの自尊心を揺るがし、概念を攻撃するために、シロツメクサの2次創作として、新たにシリウスを作りだしました。
アルタイルの姿かたちに似せ、その印象の操作によって観客の承認力を一気に高めようとしたこと。シリウスだけの森羅万象66楽章の力でアルタイルを封じ込めようとしたことは、プロのクリエイターの矜持として、アルタイルとネット社会のプロ・アマへの挑戦だったと思います。(余談ですが66という数霊にも善の暗喩を込めたのかな?)  観客の承認力のベクトルがどちらに流れるかは、松原たちの最大の勝負所だったはずです。
戦略的には仕方がなかったこととはいえ、松原は厚みのあるシリウスの物語を書ききれなかった・・。それでも勝負に出ざるをえませんでした。 松原たちが苦杯をなめたのも、「ギリギリ承認力を得られる」と踏んだ観客の評価への見たてが間違っていたためでした。 松原が「畜生っ!」と吠えたのは、自身の能力不足への叱咤もあるでしょうね。 彼にとっての矜持は、お話の持つ最大の魅力は「創作者の創造力とお客さんの喜びは正比例するもの」ですから。
颯太も、真鍳に「そんな薄っぺらいもの(真っ赤なウソ)で人を感動させることはできないっ!」て激高していましたのも同じ理由でしょうか。

アルタイルは、自らの物語を持っていない経験から「ネット社会の” 情動 ”」にこそ、自らの存在意義を見出していました。なれば、シリウスの存在理由の根源にも、” 情動 ”がなければなりません。 しかし、承認力にとって一番重要な” 情動 ”の根源が、シリウスには欠けている、あるいは存在していないことをアルタイルは見透かしていたのかもしれません。 ネット社会の住民は、アルタイルに暴れ狂う情動をもって演じさせ、アルタイルはそれを演じさせられてきたのでしょう。しかし、シリウスにはできないことでしたし、松原もさせられなかったでしょう。
 
シリウスが、アルタイルを滅却したのちに、なぜか騎兵帽だけが残りました。そしてシリウスがそれを被ると、アルタイルがシリウスに取って代わってしまった・・。 帽子を使った「承認力」の移行が、味わい深い演出だと思いました。なぜなら、帽子には、権威、権力、威力、立場性といった象意を持っているからです。騎兵帽が残ったというのは、アルタイルのもつ「許せない」という強烈な念のパワーがそこに宿っている、戦うエネルギーが残されているという暗喩であることを示しています。(負けを認めることを " かぶとを脱ぐ。脱帽する " といいますね)

( 人格を乗っ取るストーリーは、サイコものの映画にいくつか雛型があります。乗っ取りが成功するカギは、善とか悪とかいう概念が条件ではなく、絶対に負けないという「意志の力の大きさ = 念力 」に比例します。善が勝つばかりではないのがミソです。アルタイルとシリウスとの決定的な違いは,
その念力のパワーの差です。すなわち、アルタイルは世界を破滅させんとする強烈な絶望感が動機。 これほど強い念力はほかにはないですね。・・ただ、それを上回るエネルギーがたった一つだけ・・。)
{/netabare}
その③
{netabare}
それぞれ被造物が、各々の物語の役割や設定の枠に縛られず、「自由に思考し、自主的、主体的に行動していく」というアイデアも、今までになくとってもユニークだと思います。でも、この要素を盛り込んでしまったので、かえって分かりにくくなってしまったのかもしれません。例えば・・
まみかは、あろうことか敵側の颯太に話を聞きに行くという行動に出ました。(児童向けアニメは、敵はシンプルに”敵”ですね。) 当初は味方と信じきっていたアルタイルの真意を確かめようともしました。(人を信じることを信じたいと、まみかは話していたのですが・・。) 大好きなはずのアリステリアにマジカルスプラッシュフレアーを使おうとしたり!!
アリステリアは、義 ( アルタイルがアリステリアを神の国に現界せしめたことに対する義理 ) を捨てて、情 ( まみかは友愛を前面に出して戦わずに勝つ対話路線 ) と知 (メテオラが魔力に頼らず、身を挺して颯太を助けるという行動)を理解するように変わりました。 また、「助力を乞いたい」 と真鍳に言い、「人っぽくなった」 と返されたくだりや、「娘に好かれぬぞ」 と弥勒寺に言い、「冗談を言えるようになった⁉︎」 と笑われたシーンも印象的でした。
弥勒寺は、翔によれば、もとは「冷酷な奴」だったのに、「なんか変わった(=話し合いを持ちかけてくる)」と言わせるほどに変わってしまったようです。弥勒寺自身も「かもな。」なんて追認してるし。
セレジアは、カロンとの戦いの中で、究極的な選択を突きつけられて、アースメリアに帰る希望を手放すどころか、セレジアにしかできない ” 酷い物語 ” を自分で選びました。
主人公って、割とぶれにくく、分かりやすい性格に設定済みのはずですが、Re:CREATORSでは、全ての登場人物の人格や性格が、時間をかけて化学変化し、変容していくプロセスが、随所に、丁寧に、そして繊細に描かれているなと思います。 このプロセスが、その④、その⑤の要素に大きな影響を与えていきます。
こうした 「設定を超える設定」 は、Re:CREATORSには「必須の要素」だったのかもしれません。主人公たち自身のキャラがどんどん変わっていく姿、というよりも、変わらざるを得ないストーリー。そして、変わり続けるなかでも変わらないポリシーやアイデンティティー。観ている側にも、あれっと思わせ、存分に楽しませてくれる演出ですね。
{/netabare}
その④
{netabare}
「創造主と一緒に、同じ立ち位置で、自分の役割を見出そうとする」 というアイデアも、実はすごくユニークだと思います。
作った者と作られた者とが、一緒にソファーに座っている。語らったりコーヒーを飲んだり温泉にも入っている。生き方を相談してる。
アリステリアが高良田を解放するシーン。 ブリッツ・トーカーが駿河に動揺させられるシーン。 松原が駐車場ビルでセレジアとやりあう熱いシーン。病室のベッドでのしんみりと語らうシーン。 鹿屋のお土産を心配して中乃鐘が考え込んでいるシーン。 弥勒寺と翔が「センセ」なんて八頭司を煽(おだ)てているのか小バカにしてるのか分からないシーン。 ひかゆが大西にそっと体を寄せるシーン。 そして・・真鍳が鞍隈を死に追いやってしまうシーン。 私は、こんなドキドキするシーンは他に観たことがないです。こういうのって、憧れ満載のシチュエーションなんです。(大西ほどではない、念のため。)
逆に、松原は、カロンの決意には介入できませんでした。彼ができるのは設定まで。 創造主が何もかも関われるわけではないってことですね。 ともに歩めることもあるし、袂を分かつこともある、創造主の立ち位置の難しさなのでしょうか。生みの親、( 育ての親? )の松原はさぞ複雑だったでしょうね。気持ちを聞いてみたいです。
{/netabare}
その⑤
{netabare}
Re:CREATORS、いわば、劇中劇、作中作でもあるのですね。そして、登場人物自体を ″ 視聴者に脚色させる ” という仕掛。これも大きなポイントです。
最初に、私たちはアニメの視聴者 ( 傍観者 ) の立場として、松原やまりねらの創作活動をノンフィクションリアル ( 最初の物語 = A ) として受け止めます。所謂(いわゆる)「職業あるある」ですね。
そして、松原のフィクションである「精霊機想曲」も、私たちの脳内では「セレジアが戦っている世界、セレジアにとっての正真正銘のリアル」( Aの中の物語 = B ) として承認・理解しているし、感情的にも移入・没入できます。( 累計300万部だもん。)
Re:CREATORSでは、被造物たちの人物像は#13でメテオラが分かりやすく?コメしてくれてますが、・・・いきなりドバドバ出てきて超展開していくわりには、キャラの情報量が悲しいほど少ないので、彼らの人物像や物語の背景を、理解したり把握したりするのは簡単にはいきません。骨が折れます。 これを、視聴者自身に任せてしまおうという狙いがあるようです。とてもユニークだと思います。 私たちは、記憶にある過去のアニメなどの作品の膨大なデータベースに向かいます。次に、近しいキャラクターを探しだします。そして似たようなシナリオを探します。そうしたバイアスをかけることで、Re:CREATORSを、自分の枠の中に受け入れようとします。 こうして、Re:CREATORSに、過去の記憶の掘り起こしや印象操作が重ねられ、アレンジされ、物語が重層化していく。(なんとなく、セツナがアルタイルをネット社会に委ねたような発想に似ていませんか)
ここがニクい演出です。しかも、いくつもの劇中劇、作中作が、複雑に絡み合っているので、整合させるのは至難のワザです。私は完全にやられました。
まるで、東宝ゴジラ映画の「怪獣総進撃」と、「マトリックス」がミックスされた感じですね。( ゴジラは古すぎですね )
{/netabare}
その⑥
{netabare}
リアルさの追い打ち。
おまけに、これまで重ねてきたストーリーに、菊地原 ( 日本政府 ) を介在させることで、さらにもう一つリアルさが付加されます。おじさんたちの絵も妙にリアルっぽいです。( もしかしたら総理大臣はアベさん?みたいな身近なリアルさです。・・(「シン ゴジラ」もそうでした。伏線に使われているのかな。)
菊地原が 「被造物であっても人格と人権は尊重いたします。」と言っていますが、Re:CREATORSの全編を貫く、原作者から作品へ、視聴者へのリアルな思想、リアルなメッセージだと感じました。
このリアルさ、心に響きます。「キクチハラ」の言霊(ことたま)も、とても素敵です。
{/netabare}
その⑦
{netabare}
複雑すぎるシンクロニシティ。もう、ついていけない・・。

こうして、Re:CREATORSの作中で、いくつもの重層化されたフィクションと、仕掛けられたリアルさに対して、視聴者は、観れば観るほど、脳内で「私の世界との整合性」を作りださなくてはなりません。これは意外にしんどい作業です。脳が汗をかくようです。どれがリアルでどれがフィクションか、その境目に、いちいち辻褄を合わせなければなりません。 つまり、視聴者自身が、軛を超える疑似体験というか、追体験をするような感覚を持つことになります。まるで、セレジアの戸惑いや松原の困惑を実感させられるかのようです。 ( このしんどい作業は、観る者一人ひとりの想像力と創造力、類推力、理解力。その元になる生い立ちや生活体験の違いによって、大きく左右されますので、この作品の印象や捉え方もまた、みな違うものになるでしょう。)
この、辻褄を合わせる作業をなんとか終わらせれば、Re:CREATORSの作中に入り込み、チャンバーフェスの会場の一人になりきることができます。視聴者が ”軛を超えて” Re:CREATORSの世界に " 現界する " 感覚です。

お茶の間のテレビモニターを観ている私がいて、同時にフェス会場で大型ビジョンを観あげている観客の視点にもシンクロします。そして、フェス会場を見下ろすメテオラらの視界も同時に共有します。(これは目に見えるシンクロ)
かつ、メテオラが「美しい」と評した、観客のサイリュームの波。会場の観客の「思考の放電回路」と、私の脳内にある「思考の放電回路」とがシンクロします。会場にいる数万人の視点や想いと、私のそれが同時に共有されている・・( ああっ、わけわかんないっ!) そしてついに、広江礼威原作、あおきえい監督プロデュース、松原ら脚色、アルタイルら共演による Re:CREATORS+エリミネーションチャンバーフェスのど真ん中に立つことになります。
全ての視点・視界・ビジョンがシンクロしてしまう複雑なシンクロニシティ。ユニークすぎて、ついていけないです。
こんな作品、・・観たことありません。
{/netabare}
その⑧
{netabare}
そして、メテオラのための#13。
自ら「全宇宙の宝だ」なんて言う。抑えの効いた独白ながら、ちと黒っぽいエッジもしっかり効いています。また、メタ展開により視聴者を取り込むとは、アピールの仕方にも”ほどがある”。そんなメテオラの茶目っけさが際だちましたね。
NHKの未来少年コナンを観ていた私には、#22までは短いものだし、待てます。マラソンの折返し地点だと思えば、「 さ、ここから転・結のステージなのね。」と納得できます。でもまあ、ここでメタ展開を組み入れて視聴者をもう一段引き込むとは・・。これはNHK大河ドラマではありえませんね。
ポケット・ビリヤードをするメテオラも印象的。 味方のボールと敵のボールがどのようにぶつかりあい転がりあっていくのか。被造物の関係性をビリヤードのボールに置き換えるとはなかなかです。ビリヤードをやった人ならわかります。しかもボールを撞くのはメテオラなのね!アルタイルじゃないのね!!
大人のメテオラ、前半を整理しましょうって言いますけど、予測不可能な後半戦の放送が残っているはずなのに、その笑顔で話すわけは、また違うアピールをしようとなさっているということなのでしょうか。でも正直に言えば、その露出、意味が分かりませんよ。
{/netabare}
これらのユニークさに溢れた設定があって、展開の全てにリンクしていることで、この作品に、シンクロニシティという深みと広がりと不思議さを与えています。それが、今までにない新しい魅力を生み出していると感じます。

ちょっとひとこと。
{netabare}
この作品の魅力を見出すには、広江氏のアイディア、あおき氏らの演出に、視聴者の感性と知性を総動員させる必要があります。その意味ではハードルがかなり高めに設定されていたような印象をもちました。(未だに良くわからないところがあるもの・・。)
この作品で商業的にNo.1を取るのはチャレンジだったと思いますが、これもまた、広江氏のオリジン、稀有な作品として受け止めたいと思います。
お話は、没我没入、無我夢中、観終わったあと 「うん、これは良かった。感激したっ!」って思えるなら、作品を通じて真髄に達したと言えるでしょう。
{/netabare}
ところで、この作品には、どこか『君の名は』のモチーフを感じます。キーワードは、” 縁 ( えにし)” と” 括(くく)り ” 。
{netabare}
みつはが組んでいた組み紐の一本一本が、セレジアやアルタイルのように思えます。赤い糸、白い糸、ピンクの糸、金の糸・・。美しく思います。
新海 誠氏が、「神界(しんかい)の真事(まこと)」を伝えるためのメッセンジャーでしたら、広江 礼威氏は、「霊(れい)界を大河(江・え)のごとく広(ひろ)める」ためのメッセンジャーでしょうか。 そう、2人の作者の " 名前 " をめぐる不思議なシンクロニシティ。( 私の勝手な読み解きなのですが・・。) お二人が、それぞれに、目に見えない世界の実相を深いところでキャッチして、それを伝えるためにこのような作品をお作りになられたのでは? さらに、それは銀河の星々に住まう神々の波動を受けて、閃 ( ひらめ ) いたのでは?と、思っているのです。
え? 飛躍しすぎてる? そうでしょうか?? インスピレーションってそういうものだと思うのです。血を吐くような、不断の努力をし続けておられ、また、空想に心を遊ばせておられているからこそ、今までにない新しいアイディアや閃(ひらめ)きが天から降りおりてくるもののような気がするのですが・・。
{/netabare}
特に、印象に残った4人のキャラクターについて書いてみたいと思います。( 読書感想文みたいになってしまいそう、(^^;; )
ふぅ〜、この辺りで、コーヒーでも飲んでくださいね。

第1のキーパーソンは、メテオラです。
{netabare}
彼女は ” 縁(えにし) ”という言葉を、度々口にしていました。”袖振り合うも他生の縁”と申しますが、現世にたまたまの出会いであったとしても、人は皆、前世、前々世において、何処かて生きていた時代と場所の縁があるゆえの今世の縁という意味ですね。
” 縁 ” の要は、メテオラのように思います。
メテオラは、” 縁を結び、括る働き” であり、首尾一貫して、” 羅針盤 ” の役割を担っているようです。 彼女の言葉は、セルジアらの持つ幾多の経験知とリンクしあいます。 被造物はみな、それぞれの物語のなかでは、確固たる立ち位置を持つ「主人公」であるし、個性的でありながらも、直感的に、お互いを受け止めあえるシンパシー ( 共感性 )も持ちあわせています。そして、メテオラの”括( くく )りの働き”の重みを暗黙のうちに認めています。
メテオラの言葉は、セレジアたちの主人公としての本質( 平和・調和・規律・信頼・自由を求める探求心 )と、そして荒魂 ( 忍耐と勇気という働き )を導き、昇華させていきます。 やはり、「万里の探求者」であるメテオラの 「知と言葉」 こそ、 ” 縁を結び、括る働き ” と言えるでしょう。彼女の言葉は、あまたの化学反応を生み出していく根源。私もその言葉に魅了されました。
彼女は、創造主らの創造力を最後まで信じ、駿河らも「正攻法」でこの世界を守ろうとします。八頭司や高良田らのギリギリまで全力を尽くす誠実さあふれる姿。コミュニケーション。 トライ&エラー。 協働。 クリエイターとしての矜恃。それを垣間見せる魅力的なシーンだと感じました。
そういうメテオラでも 「わからない」 という言葉を連発します。 それほどに未来は不確実で危うい。メテオラほどのキャリアでも答えまでは示せません。 そしてチャンバーフェスの結末は、メテオラをして「奇跡」と呼ばしめるものでした。
印象的だったことが二つ。一つめは、メテオラほどの知性の持ち主でも自らの出自については創造主への疑念があったことです。いつもクールな彼女ですが、ルーツを確かめたいとする情動は抑え難く、内なる感情はやはり大きいと改めて感じさせるエピソードですね。 二つめは、メテオラが新たに創造主となり、自分のための物語を作ることでした。彼女の清々しい表情は、アヴァルケンの創作者のバトンを引き継ぎ、新しい道に立つことの喜びに満ちていたように見えました。
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第2のキーパーソンは、颯太です。
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颯太をどのように捉えるかで、この作品の評価が大きく変わりますね。
結論から言うと、私は擁護派です。
颯太に与えられた立ち位置は、例えるなら、自動車の車体を支えるタイヤの「車軸の働き」です。 美しいボディでもないし、パワフルなエンジンでもない。目立たないですが車軸はなくてはならないパーツです。その働きは、動かないという働き。 働くのは、最前線にいるセレジアやメテオラたち、それを支える松原らです。
颯太は、最初の登場人物でありながら、主人公からは一番遠い位置にいます。意味がありそうに見えながら、なかなか意味が見出せないキャラです。 その伏線が長丁場なので、とてももどかしい。観る者に、忍耐と寛容を求めてきます。
颯太が脱皮する決意の手助けしたのは、メテオラと鹿屋。この二人の言葉が決定的だったと思います。 メテオラは颯太の告白に「その人は、救われたいのですか?」と問いました。「その人」とは颯太ですね。このとき救われたい気持ちなのは颯太です。 彼はセツナを救えなかった不甲斐なさと、加害者としての呵責 ( かしゃく ) の念と、そしてあろうことか自分を、救われたい人 = 自分で自分を貶(おとし)めた ” 嘘 ” に苛 ( さいな ) まれていたからです。その心に囚われていたからこそ、彼は救われたかった。セツナとの思い出や記録を全て消去するという行為は、あくまでもうわべの逃避行為。彼の内面には熾火が残っていました。「どうしたらいいのかわからなくて、怖くて。」と。この負の因果律をずっと抱え、断ち切れなかったシーンです
メテオラの優しい笑顔にもカミングアウトしなかった颯太の心情は複雑だったでしょう。 でも、メテオラの「 友人を超える努力を」があったからこそ、鹿屋の言葉が生きるのです。鹿屋は、「 努力 」の意味を颯太に分かりやすく言ったのです。 ギガスマキナで雲を突き抜けると、清々しい青空が広がっていて、太陽の光は暖かく、軽やかな気で溢れていました。これを俯瞰 ( ふかん ) した颯太は、自分が如何にちっぽけな存在で、鬱々としていたかに気づきます。 鹿屋は言います。「主人公は救う世界があるから主人公なんだよ。じゃあ、その救われるべき世界は誰が作るのさ、颯太!」 その時、颯太は悟ったと思います。「救われたいのはボクじゃない。救われるべきなのはボクじゃない。」と。 セツナとまみかを失うという慟哭 (どうこく) に、慄 ( おのの ) いていた颯太。自分の心の置きどころが分からず悩みのなかで呻吟 ( しんぎん )していた颯太。ついに、葛藤を乗り越え、閉ざされた心の扉を開ける鍵を手に入れたのですね。
颯太は、松原らの面前で「話す」ことで、自らの負の執着心を「離す」ことができ、自分がそこにいる ” 縁 ” の意味を手に入れることができたのだと思うのです。傍観者ではなく、参加するのだと。 このメテオラの深慮あるアプローチ、鹿屋の若々しいアプローチが、颯太の転換点になったと思うのです。 颯太にフォーカスするなら、ここまでの伏線は長かったです。共感できる視聴者はまだいいですが、もどかしくてやってられない〜って切り捨てられても仕方ないほどの時間がかかっています。 #21で回収されますね。セツナと颯太は、似た者同士。二人は弱き者の体現者なのですから。とことん弱い主人公でしたね、
さて、 彼は、まりねにも感化され、参加するだけでなく 「作品を創る」 決意をします。 松原から否定されても彼は創らずにはいられなかったし、その一途にまっすぐな想いは、承認力という絶対的なハードルにも怖じけることはありません。それほどに颯太の想い描く「作品」には、ひたすらに純粋にセツナの記憶の発露と、止むに止まれぬ情動があったのだろうと思います。
颯太は、過去に作品を” 生み出す ” 難しさを体験しているし、松原らプロの世界の実相を見てきたので、大いに感化されたことは容易にうかがえます。そうした先達 ( せんだつ ) がいたからこそ、颯太は勇気をもって自分と戦えたし、彼の知りうる彼だけの「真実のセツナ」を描ききれたのではないか。 こうして颯太はようやく、” もう一度、物語を創り出すターニングポイント ” に立てました。これも、Re:CREATORSの意図なのでしょう。
この” 縁 ” は颯太の宝物。そう、宝は「他から」来るもの。他の人との ” 縁 ” と出会いがあってこその宝。 真鍳との ” 縁 ” も、颯太にとっては、かけがえのない宝。 面白いのは、颯太の ” 縁 ” って、周りの女性が関係していることが多いですね。
それにしても、巷の世界ではこんな出会いはなかなかないし、プロと話をする機会さえない。ましてや、百戦錬磨の主人公キャラからアドバイスしてもらえるなんて・・、颯太は颯太うに運が強い・・なんちゃって。
  
アルタイルが発した「汚い!卑怯!」という言葉は、セツナはアルタイルの心中にだけ存在が許されている神聖で不可侵、依るべき標 ( しるべ ) であるにも関わらず、胡乱な神々の誰かがが、セツナその人を現界させたからです。それは耐え難い屈辱だったはず。 まみかは、セツナの名前を出しただけでアルタイルの激昂を買い、無慈悲なまでの制裁を受けました。それほどまでにセツナへの思いは深く激しく、絶対化されたものだと窺い知れます。 
アルタイルの願望成就の歩みは、心中の ” 内なるセツナ ” と語らいながら進めてきたはずですが、復讐のための物語の、最後の一厘に差し掛かった時に、" 被造物セツナ " が現れて、その想いを語ろうとするのですから。アルタイルは激しく狼狽します。彼女の絶対の確信が足元から崩れはじめます。

被造物のセツナは率直に語り出します。 私は、あの言葉は颯太には作れないと思います。 颯太が作ったのは、うわべの言葉ではなく、セツナの人格そのものでした。 私なりの解釈をさせていただくなら、人格とは、「 仁・核 」。 「 仁 」は東洋思想で「 思いやる心 」。「 核 」は「 ものの中心に存在しているもの」 という意味です。ともに目には見えないものです。見えないものこそ尊いのです。 
アルタイルと颯太には微かな時間軸の重なりがあります。 world Etudeを通じて、一瞬見つめあいました。もしかして0.5秒?わずかであっても憎しみの心なら絶対に忘れない。また、忘れたいと思う心なら記憶の底に封印する。それが人の性(さが)です。 それでも2人の記憶には、ともにセツナへの ” 思慕と、愛惜と、悔恨 ” が深く刻まれていると思います。となれば、そこにこそ2人の接点があります。だからアルタイルには、セツナがたとえ被造物だとしても、求めてやまない ” 創造主セツナ ” として、受け入れる余地があった・・。
アルタイルは、セツナの声を聴き、手に触れ、その温かみを知る。出会えた ” 縁 ” の尊さに気づきます。ついに、自らを顧み ( かえり ) み、変わり始めます。

いきなりモニターに現れたセツナ。そのシーンを、フェスに参加している誰もが見入ってしまいます。そして、待っています。二人の言葉を。聞かなきゃいけない。聴きいれなきゃいけないと。まさにそうした観客の熱い思いによって、セツナの現界のエネルギーは加速度的に昇華し、それに呼応するかようにアルタイルもまた変容していきます。 観客の 「 承認力 」に内包されたエネルギーこそが、あの時のセツナの発する言葉の根源。人の思い。セツナは、「どう話していいかよく分からないんだけど 」と思いあぐねていたようでしたが、そのとまどう心を観客のエネルギーが後押しし、セツナはふたたび語れたようにも見えます。 観客ひとりひとりの思いがセツナの言葉にシンクロしていく・・。皆、物語は大好きなのですから・・。
「 あなたは皆に愛されているのですね。」 セツナの言葉によって、アルタイルの頑なで凍った心が溶けていく。 まるで、潔斎 ( けっさい ) と、禊 ( みそ ) ぎが、同時に行なわれたようです。

颯太の創った作品=セツナは、ほかの誰も知りません。アルタイルも知らない彼の胸の奥底に秘めおいていた記憶です。 颯太はそのすべてを観客たちに委ねました。 それは死者セツナへの冒涜なのではないと思いたいのです。 なぜなら、颯太はセツナが、無垢で純粋な友愛の心の持ち主だと確信があったし、アルタイルへの絶対的な愛を確信していたからです。 颯太はネットで誹謗中傷されていたセツナの名誉を回復させるためにフェスの中心に置きたかった。そしてアルタイルとともにネットとリアルの両世界から祝福を受けてほしかった。幾万人のお客さんから愛の情動のシャワーを浴びてほしかった。その一心で、颯太は、セツナに世界で一番大事なルールを破らせてでもセツナを創った。颯太は、チャンバーフェスに二人のための物語を組み入れ、この世界の命運を預けたのだと思うのです。

颯太は” 縁 ” のきっかけを作ったにすぎません。ですが、二人はその縁を手繰り寄せ、ついにアルタイルはセツナのために森羅万象を発動しました。 かつて、セツナの作った world Etude ( =森羅万象の習作 )。それはセツナの終わりでしたが、アルタイルの始まりにもなった。 森羅万象は、2人のための物語をもう一度始めるのでしょう。世界は豊かにそして美しく。
もちろん、このような展開は颯太の意図ではないでしょう。でも、この結末こそ彼の望んだ「物語」の核心のように思えます。Etudeから次の「本作」へとセツナ自身がつなげていくのですから。
ついに、颯太もセツナもアルタイルも、Re:CREATORとして△する□を得たということでしょう。(参画・資格)
松原は”ひでえこと考えるなぁ”って言いましたが、この展開は、颯太がクリエイターとしての感性と発想と度胸が、同じレベルに到達しつつある褒め言葉ですよね。 セツナがRe:CREATORとして途切れた歩みをふたたび踏み出せること。それは、颯太の望外の喜び。もう決して出会うことはできないけれど、ふたたび同じ道に立てる喜び。その喜びのパワーが、颯太のセツナへの悔恨の念を上回り、彼の魂を浄化させ御魂の修復がなされてほしいと願います。

「すべて 愛をもって帰一するを真心となす」と考えれば、その意味では、颯太こそが、アルタイルとセツナにとっての” 大団円 ”を Re:CREATE した1人目のambassador(アンバサダー、大使、使節の意味です)であるように思えるのです。
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第3のキーパーソンは、セツナです。
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セツナとアルタイルの縁とは、極めて儚いものですね。求めても望んでも、決して結ばれぬ縁です。まるでアルタイルとセツナは、彦星(軍服)と織姫(物語を織り上げるクリエーター)のようですね。
ところが、颯太と真鍳の ” 縁 ” によって、2人は再び出会い、邂逅し、愛と絆を確かめ合うことができました。
セツナは穏やかにアルタイルに語りかけ、教え諭します。このときの言葉には、限りない母性の慈愛と、アルタイルの魂の救済の導きがありました。 アルタイルは静かに聴きいります。・・無垢な子どものように。 溢れる愛を感じます。セツナの愛。そしてアルタイルの情。 美しいシーンだと思うのです。何度みても涙が出でしまいます。
神道の大祓詞(おおはらえことば)に、「瀬織津姫(せおりつひめ)」という名の神がいます。私なりの解釈で恐縮ですが、そこに"セツナ、織姫"の名が見え隠れしています。かつて超古代に天空を見上げ、天の川が分かつ二つの星(アルタイルとヴェガ)に織姫と彦星の名を付け物語を作ったクリエイターがいたのです。結ぶに結べない、紡ぐに紡げない、思い焦がれる恋人のお話。 神話とRe:CREATORSの不思議なシンクロニシティです。
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第4のキーパーソンは、真鍳です。
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真鍳は、悪役として描かれています。言葉を弄し平気でうそぶきます。嘘に嘘を重ねて人を死に追いやります。どうみても正義ではありません。
なぜか真鍳は、颯太との接触を何度も図ります。彼女が現界して初めて出会った嘘つきが颯太だった(真実を言えないことは、ときに嘘をつくことでもある)。真鍳は颯太に俄然興味を持ったでしょう。いや、喜びとシンパシーすら持ったかも。そんな颯太になら「嘘の物語」は作れる。真鍳はそれを見抜いていたのでしょう。真鍳だけができるアプローチです。 颯太には、大崩潰を防ぐという大義名分がありました。「自分のことなんてどうでもいい。」と我欲ではない言いっぷりですが、真鍳にとっては所詮は人のこと。我欲に見えるのでしょう。もう、眞鍳の独壇場です。ついにフェス会場で、颯太を弄し、術をかけました。
そもそも颯太は、真鍳に会うことも、術をかけられることも、想定外だったはずです。 いったい真鍳の真意は何だったのでしょう。アルタイルが起こそうとする大崩潰すら、起こりっこない、起こせっこないものだという確信があったのでしょうか。アルタイルとセツナのお話は、どうしようもない悲劇でしたが、もしセツナが再登場するなら、それはアルタイルのいう悲劇ではなくなり、心温まる人情話になるでしょう。アルタイルは「悲劇こそ物語だ」と語っていましたが、その立派な噓つきばりを愚直の極みとさえ思って、ニンマリと笑っていたのでしょうか。
ともあれ、真鍳と颯太の ” 縁 ” があったからこそ、大崩潰が免れたことは間違いないことです。真鍳の悪は悪でなくなり、正義にもなるのだと。真鍳は、Re:CREATORSの外せない極点の一つで、「大団円」のための2人目のambassadorなんだと。 彼女がアルタイルを超える存在感で「救済の女神」になってしまった。まことに ”奇しきなる縁 ” 。
ところで、真鍳は創造主を死なせてしまったのかもしれません。彼女はわずかに悪態をつきましたが、自分を生み出した創造主のことを本当はどう思ったのでしょうか。創造主は真鍳を受け止めてくれなかったのでしょうか。キャラの設定だから仕方のないことなのでしょうか。それを思うと胸が痛みます。いったい彼女は何処に行ってしまうのでしょうか。
世界のどこにでも強欲な人間はあまたいます。そんな人の心を欺いて人を面白がる。眞鍳が求める安寧って何でしょうか。{/netabare}

おまけのおまけ
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メテオラは、アルタイルが認めたセツナを描き切った颯太の創造力を認めていました。世界を救ったのは、ほかの誰でもない颯太の創造力。メテオラの魔導書の力が失なわれた今、あらためてその創造力の無限の可能性を彼女自身も身につけるべく「戦う余地がある」としたメテオラの台詞。未来を感じさせてくれる素晴らしいエンディングだったと思います。{/netabare}

この作品が、みんなに愛されますように。

投稿 : 2017/11/12
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サンキュー:

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