ossan_2014 さんの感想・評価
4.1
物語 : 4.5
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 3.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
世界を、クエストする
【視聴完了して改稿】*2017/09/24 誤字修正
地方都市の観光協会を舞台に、町おこしに奮闘する物語。
地域振興という仕事の物語というよりも、タイトル通りに女の子(成人だが、あえて女の子と言いたい)たちがパーティーを組み、クエストを繰り広げる冒険物語に見える。
衰退へ向けた下り坂に位置する地方都市の振興は、容易に解決できるような手軽なものではなく、ほどほどに困難を描き出しながらも、楽しく前向きに女の子の冒険は進んでいく。
明るい冒険は、「現実はこんなにうまく運ぶものか」という冷笑を引き出しがちだが、そのような皮相な冷笑を根底から揺さぶる「現実」が、深層に埋め込まれているようだ。
{netabare}衰退を食い止める方策を求めるクエストだが、食い止めるべき「衰退」とは何だろう。
人口が減る→
産業が無くなる→
税収が減りインフラが保全できなくなる→
そして、人口が減る、へとループする。
その先にあるのは、間野山市という共同体の消滅だろう。
この円環の各項をつなぐものは、「金銭」だ。
サービスを買うために金銭が必要であり、その金銭を稼ぐためにサービスを提供するという円環=フィードバック構造が、いったん流れが逆転した時、逆方向の負のフィードバックを生み出す。
フィードバックを断ち切るには、十分な「金銭」があればいい。
物語の冒頭、パーティが見出すものは、外部から金銭を呼び込む観光事業の強化だ。
しかし、はかばかしい成果を生み出すことはできない。
アベノミクスと称する経済政策が、すべて「外国人様の懐から、貧しい私たちにお金を落としていただく」という発展途上国マインドから発想されているように、金銭を稼ごうと考えるとき、外部の「お客さん」を呼び込むことは、だれでも真っ先に思い付く安直なものだ。
だが、発展途上国マインドの夢想が何の結果も出せない現実をなぞって、作中の「観光誘致」もまた、空想的に成果を出すことをしない。
金銭が十分にあったとしても、その金銭で贖われるモノやサービスを「供給する能力」が無ければ、正のフィードバックは生まれないからだ。
経済「力」とは、金銭があることではなく、金銭に応じて「提供する能力」のことをいう。
有り余る金銭で共同体の「外部」からサービスを買えても、共同体内部は空洞化するだけだし、供給元の外部に「負のフィードバック」を輸出することにしかならない。
観光で金銭を集めることは、共同体を再生させる「力」にはダイレクトに直結しない。
そうして、パーティが直面するのは、クエストのミッションに立ちはだかる「ボスキャラ」が、「経済原則」であるという難問だ。
単に「金銭」を得るという「解決」は、「ボスキャラ」の潜在力を強化することになるという逆説の難問。
全編を通じて、シャッター通りと化した商店街や、残った商店主の描写を通して、「経済原則」に追いつめられる地方都市を表現しながら、物語は、バス路線廃止や廃校舎、祭りの復活へ向けて、探求=クエストを続ける。
安易に「ボスキャラ」から視線を逸らしたご都合主義のハッピーエンドを目指しているわけではないのは、続くミッションが、バス路線の廃止や中学校の廃校舎、祭りの復活であること自体に現れているように思う。
これらのモチーフは、本作が、地域振興の「お仕事」物語ではなく、「世界」を「探求」する「クエスト」であることを、明らかにしている。
世界には、様々な位相で様々な領域が包摂されている。
「社会」は、「世界」の中の、人の住む領域だ。「世界」の中には、当然、社会に支配されない領域が多様に存在する。
同様に、「経済」は、「社会」の中の、交換にまつわる限定された領域に過ぎない。
「社会」の全領域に対して大きな影響力を持つかもしれないが、どこまで行っても「社会」そのものではないし、「経済」の原則で「社会」そのものを運営することはできない。
劇中のバス路線の廃止問題にしても、そもそも社会インフラを「経済原則」で処理することが不適当であるからこそ「問題」化しているのかもしれない、とも言うことができる。
限られた「領域」の原則を、別の領域に適用させる無理が、「問題」として現れてくるのだと。
世界の、貧しく交通網の整わない地域では、たまたま自動車を所有する小金持ちが、走行中に歩行者を見かけると、目的地まで同乗させる習慣があることが珍しくないという。
別に、小金持ちは法的な「義務」として同乗させるわけではない。
もちろん「経済原則」が要請するからでもない。
単に、その土地の、その「社会」の習慣に従うことが自然であるだけのことだ。
経済と無縁の行動原理が、その「社会」のある部分では機能している。
もしも、お年寄りを何より大事に、というのが地域「社会」の習慣であったとすれば、バス路線の「採算」は、問題化しない。
無償で同乗させる小金持ちドライバーが「損をした」とは考えないように、お年寄りのための赤字は「損害だ」とは考えないからだ。
赤字は悪という「経済原則」が万能であるかのような思い込みが、バス路線廃止という「問題」を生み出す。
バス路線に関する「弱者であるお年寄りとインフラ」の問題、廃校=「公教育」に関係する問題、祭祀=祭りという「慣習」に関する問題。
これら「経済」と異なる領域の、「社会」の問題へとシフトしていく物語の流れは、若い女の子のパーティが、「世界」の中に「経済」とは違う領域と違う原理を「発見」していく「クエスト」を表現している。
「クエスト」が見出すものは、「衰退」は、「ボスキャラ」=経済原則が「オレが一番えらい」と「世界」に押し付けた自己宣伝像の反映に過ぎないという転換だ。
スキあらば「世界」全体を支配しようと、「経済」は影響力の拡大を謀り続ける。
パーティのクエストは、「ボスキャラ」の影響力を、「経済」にとどめて「社会」から切断する「冒険」でもある。
影響力を、「支配力」から切断する冒険。
新しい乗合システムは、バス会社の運営という「影響力」下にはあるものの、採算優先で消滅させる「支配力」の発揮は食い止めることになる。
ラストで、これも「経済」とは異なる領域の「行政」が、パーティの前に立ちふさがる。
「行政」=国家もまた、「社会」とは異なる領域だ。
バルカン半島や西アジア、アフリカ等において国境紛争や難民流出が絶えないのは、当地の「国境線」が、地域の民族や言語や文化習慣の実体的な「生活圏」を無視して、帝国主義ヨーロッパが地図上で一方的に引いたものであることに一因がある。
「公権力」による行政区分の一方的な引き直しは、スケールダウンしているものの、全く同じ問題系に属する。
合併(あるいは分離)された市町村は、やはりスケールダウンした、同じ問題が生じるだろう。
公権力によって統制する「国家」が、時として「社会」の運営を阻害するのは、両者が親和的な存在ではなく、むしろ領域を奪い合う関係であるからだ。
行政に対抗する発言権を得るため、外国の都市と姉妹都市関係を結ぼうと行動をする流れは、両者の潜在的な敵対関係から生み出されてくる。
どうやら姉妹都市は実現しそうだという希望が描かれるが、希望を導いたものは、ふらりと居ついた異邦人と先祖の「人の出会い」、外国の市長との「つながり」、その市長を引き付けた「社会」外に散らばるUMAや桜のような、「経済」や「公権力」とは範疇の異なる「世界」を構成する諸要素だ。
「経済」とは異質である「社会」領域、そして「社会」の外にある大地や自然を包み込む、総体としての「世界」の「発見」が、最後まで描かれている。
「進化」というものが、生物が目的に向かって主体的に変化することではなく、動的なバランスの上に「たまたま」発現する偶発的な現象であるように、地域社会もまた、様々な変化や影響力の上に「動的に」現れてくる。
影響にさらされながら、その時、何を選んで生きるのかが、「生活」なのだろう。
選択を支えるものは、「生活」を支えるものは、決して「経済」だけではない。
確かに、経済面では、間野山市民は、必ずしも恵まれていない。
しかし、人の人生が経済だけで構成されているわけではないように、人生の交錯=人のつながりの中に、豊かに「社会」=生活は営まれていき得る。
明るく世界を「クエスト」する彼女たちの姿を、「現実」を知らないと冷笑する者は、「世界」が、社会や、そのサブカテゴリーである「経済」を内包しているという「現実」に目を塞いで、「経済」が世界の全てであるという「虚妄」を生きているのだと気付いていないのだろう。
こういった主題を掲げて、理詰めで作劇されているとは思わない。
デッサンがしっかりした絵を裏返してみても歪みが見えないように、解像度高く構築した物語世界は、角度を変えて眺めても結果的に細部が自然に整合して見えるという、本作は、その一例であるのだろう。
要約すれば「お金がなくとも皆で力を合わせて楽しく生きる」という物語は、子供の夢想とも聴こえながら、本物の大人が本気で「現実」を描くことで、本作のように描き出されてくる。
一時期の「社会」領域を排除した「セカイ系」の物語ばかりであった時代は過ぎたが、これほど「社会」を真正面に描くアニメ作品が登場してきたのには、少し驚かされた。{/netabare}