ゴリラの里 さんの感想・評価
5.0
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
作り込みに脱帽しました
少し前置きして、本作に大きく関わってくる、「ライ麦畑でつかまえて(The catcher in the rye)」の話をしようと思います。この作品、すごくざっくり言えば、世の中が嫌になった青年が放浪する話です。放浪といっても数日間ですが。青年の名前をホールデンと言います。笑い男の周りをメリーゴーランドのようにぐるぐる回る文字の羅列
、“I thought what I’d do was, I’d pretend I was one of those deaf-mutes.“
も彼の言葉です。本作では、「僕は目と耳を閉じ、口をつぐんだ人間になろうと考えた」と訳されています。正直、この部分だけ切り取られてもよくわからないと思います。なぜ笑い男(アオイ)はこの一節を引用したのか。それは、彼の置かれた状況が、ホールデンと酷似していたからです。アオイは村井ワクチンとそれにまつわる諸問題を知ってしまい、義憤に駆られ、セラノ社長を誘拐します。この行動はいかにも正義感に溢れています。しかし、直面したのは社会の歪さでした。たった一言口にするだけで、世の中の不正は正されるというのに、口を開こうとしない。彼は、そこで社会への絶望と自らの無力さを痛感することになります。結局、最後の手の、生放送に割り込むという手段を取ったものの、真相を明かすことはできず、逃亡することになります。この際、笑い男マークが誕生します。
話は変わりますが、ホールデンもまた、社会や大人への絶望を口にしています。少し話が外れますが、第11話のラスト、アオイが授産施設の仲間に残していったメッセージにはこうあります。
”You know what I’d like to be? I mean if I had my goddam choice, I’d just be the catcher in the rye and all”
この文章は終盤、ホールデンが妹に何になりたいのか聞かれて答える「ライ麦畑でつかまえて」の一節です。翻訳では、「僕が何になりたいか言ってやろうかな?なんでも好きなものになれる権利を神様の野郎がくれたとしてだよ、ライ麦畑の捕まえ役、僕はそういったものになりたいんだよ」とあります。訳の部分が離れていたので、若干不自然な感もしますが、こんな感じです。ライ麦畑で彼が何をするかと言うと、一日中、子供しかいない平原で、崖付近に立ち尽くし、子供が落ちないように見張っているだけです。周りには彼以外の大人はいません。これが彼のなりたいものだったのです。実を言うと、この部分の前に、妹から弁護士になるのはどうかと聞かれる場面があります(父親が弁護士だからということで)。これに対する返しが、とても秀逸で、社会や大人を鋭く見透かしています。少し長いですが、次のようです。
「つまりね、始終、無実の人を救ったり、そんなことをしてるんなら、弁護士でも構わないよ。ところが弁護士になると、そういうことはやらないんだな。何をやるかというと、お金を儲けたり、ゴルフをしたり、ブリッジをやったり、車を買ったり、マルティニを飲んだり、偉そうなふりをしたり、そんなことをするだけなんだ。それにだよ。仮に人の命を救ったりなんかすることを実際にやったとしてもだ、それが果たして、人の命を本当に救いたくてやったのか、それとも、本当の望みは素晴らしい弁護士になることであって、裁判が終わった時に、法廷でみんなから背中を叩かれたり、おめでとうを言われたり、新聞記者やみんなからさ、いやらしい映画にあるだろう、あれが本当は望みだったのか、それがわからないからなあ。自分がインチキでないとどうしてわかる?そこが困るんだけど、本当はわからないんだ」
自分はとてもこの言葉に共感できました。つまり、弁護士になっても、いいことばかりするわけじゃなく、時には、圧倒的に悪い人を弁護することだってあるし、自分の地位の保身のため、行きたくもないゴルフに付き合わなければいけないことだってあります。そんな生活をしている中で、人を救ったところで、その行為の出所はどこにあるのかは、本人にすらだんだんとわからなくなってきます。初めは純粋な正義感を持って、悪を断罪し、善を助けようと考えて始めた仕事が、いつの間にか、正義感は腐れ落ち、残ったのは悪も善もごった返しになった、くすんだ灰色の心だけ。彼はこんな風にはなりたくなかったのでしょう。しかし、このことこそ大人として生きていくための利口な手段であり、そうしなければ、淘汰されてしまいます。彼はこの現実が嫌で仕方がなかったのです。そんな文脈で、先のライ麦畑のつかまえ役になりたいと言ったのです。これはずっと子供のままでいたいという意味ではなく、大人にはなりたくないという意味の方でしょう。しかし、時は残酷で、大人になりたくなくても、ならざるを得ません。そこで、彼は言います。
「僕は目と耳を閉じ、口をつぐんだ人間になろうと考えた」
彼は世の中の醜さから目を背けることこそ、一番の生きるための手段と考えました。自ら干渉を断つことで、相手からの干渉も遮断するという最後の抵抗といった感じでしょうか。同時に、自分では何もできない無力さというのも感じたのでしょう。何もできないなりの考えが、孤独に暮らすことだったのです。
しかし、もっと大元の感情が彼の元にはあったはずです。ちなみにですが、英文に忠実に訳すと、先のセリフは「僕は啞(おし)でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ」となります。彼は、この世界に失望し、同時に自らにも絶望した。その結果、導き出されたのは、最初から何も知らなければよかったということだったんじゃないでしょうか。見れば見るほど、くすみ、汚れ、腐敗していく世界の光景に対し、初めから見えていなければと考えたのではないでしょうか。だから、唖(発話障害者のこと)でつんぼ(聴覚障害者のこと)のふりをしようと考えた。つまり、彼は自分の意思で目と耳を閉じ、そして口を閉じようと思ったのではなく、元から、目と耳が不自由で、かつ言葉もままならない人間であればよかったと考えたのです。少しの違いですが、個人的にはなかなか隔たりがあるように感じます。
「ライ麦畑でつかまえて」にて、妹にこう言われる場面があります。「兄さんは世の中に起こることが何もかも嫌なんでしょ!」これはまさにというセリフです。ホールデンのこの言動も元をたどれば、こう見ると非常に簡単に見えてきます。絶望や怒りや無力さなどではなく、単に全てが嫌になったのではないでしょうか。何もかもが。世の中から逃げようとか、誰もわかってくれないことへの絶望とかではなく、とにかく嫌になったからそうするのです。世の中に期待して、絶望することも、自らの無力さを直視することも彼の心情を一言で表せば、「もういいよ」と言ったところでしょうか。駄々っ子のようですが、その通りです。アオイが先の言葉を引用した理由もおそらくこの嫌気が全てに思えます。思い通りにならない世の中が嫌で、力のない自分が嫌で、そんなジレンマに苦しむのも嫌で、嫌で嫌で仕方がなくて、そんな自分の状況をホールデンと重ねて、この一節を引っ張り出したのではないでしょうか。
”I thought what I’d do was, I’d pretend I was one of those deaf-mutes.”
原初の反応で、実に人間らしく、同時に子供っぽいです。アオイもまたホールデンと同じように、子供に過ぎなかったのです。
とこんな感じで、直訳と本編との訳は多少の乖離がありますが、啞とかつんぼとかを地上波で平然と喋る訳にもいかないので、苦肉の策だったのだと思います。それで、笑い男の話が楽しめなくなるかと言ったら、全然そんなことないので、全く問題ないと思います。この引用は、両者の、言葉にし難い心情を暗号的に指し示してくれるものです。ここも本作の特徴かもしれません。1から10を語るような野暮なことはしません。第2話や第3話を思い出してみれば、わかるはずです。戦車の暴走した理由はなんだったのか、アンドロイドに自我は芽生えたのか否か。答えははっきりと提示されません。それは答えを誰かに委託するとともに、全てを語らないことの良さ的なものを物語っているように感じます。少し話がずれましたが、先の引用もまた、語られない要素の一つです。訳自体は何度か言われますが、詳しい解説はあまりされません。ただ、不平を示す言葉としては認識できます。それこそが、一番のあの一節を持ってきた所以に感じます。つまり、アオイの行動を指し示す端的なシグナルをということで、引用したのです。それも、単なる引用に止まっていないことがすごいです。というわけで、訳がどうとかは重箱の隅をつつくようなクソ行為と変わりないです。ただ、あの言葉の源泉は嫌気だったという認識は変わることはありません。
ちょろっと哲学だったり、文学だったりと引用することは容易です。適当に言っておけば、なんかすげーってなるからです。言わせておけば、多少は高尚にも見えてきます。ただ、今回自分が感じたのは、用意周到とも言えるくらいの、引用と本編とのリンクです。引用するには止まらず、二重にも三重にも、作品との関連を増やし、ただの引用には止まらせない作り込みの徹底加減です。よほど造詣が深くなければできない芸当で、監督やスタッフの有用さ加減をうかがわせてくれます。笑い男事件以外にも、1話完結のクオリティも総じて高く、特に2話と11話は度々見てしまいます。自分の中では、これ以上の作品は出てこないと断言できます。表面的に見ても楽しめますが、じっくりと細部まで見るとまた別の面白さが出てくる素晴らしいアニメです。もう10年以上前の作品ではありますが、やはり名作は衰えません。むしろ、今のような時代だからこそ、一層光ってくる作品なのではないでしょうか。今更な話ですが、こんな面白い作品をありがとうございました、といいたくなってしまう、そんな作品でした。