ossan_2014 さんの感想・評価
3.3
物語 : 3.0
作画 : 4.5
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:----
歯車の挑発
大胆なCG動画が特徴的だ。
流麗なビジュアルの割に、画像の切り替えや会話のテンポ感にズレが感じられ、あまりストーリーが頭に入ってこないきらいがある。
主人公の操る武器が歯車の集合体で、作動する歯車が組み合わさりながら振り回される描写はCGならではなのだが、今一つ生かされていないようだ。
にもかかわらず視聴してしまうのは、その回転する歯車が組み合わさりながら作動していく武器のビジュアル表現が、機械式腕時計愛好家の琴線に触れる、というかツボをくすぐってくるからだ(笑〉
まあ、愛好しているだけでコレクションまでは手が伸びないのだが、なんとなく、作品自体ではなく、機械や時計についての想像力を刺激してくる。
フィクションの中で、出来事が因果に沿って噛み合うとき、作動する機械のイメージで表現されることは多い。
アニメの場合、歯車がかみ合う複雑な機械装置のビジュアルとして表現されることも多いが、たいていの場合には、時計をモチーフとしてビジュアル化されるようだ。
本作も例外ではない。
それほどに、複雑な機械装置=時計というイメージは普遍的に浸透している現れだろうが、なかでも「腕時計」は、さらに特別な位置を占めている。
現在に至るまで、身体に密着させて携行する機械装置として普及した製品は「腕時計」ただ一つだけだが、SF研究家の永瀬唯によると、腕時計を装着することは「サイボーグ」化のメタファーであるのだという。
腕時計を身に着けた人間を絵に描いたとすれば、松本零士の描く「メーターを埋め込まれた美女」のビジュアルに、確かに重なる。(そういえば松本零士も時計コレクターとして有名だ)
ポケットではなく、身体に密着して携行することは、身体に埋め込むことと意味的に至近にある。
義歯や眼鏡や補聴器がもともと人間が持つ機能を「取り戻す」道具であるのに対し、「人間の持たない」機能を果たす時計という機械を「身体に埋め込む」=手首に密着させる行為が、永瀬の言う「サイボーグ」志向ということだ。
が、戦後SF的な印象のある「サイボーグ」という言葉よりも、機械融合的な欲望という言葉の方が捉えやすいかもしれない。
1880年代に製品として流通し始めた腕時計が、爆発的に普及して懐中時計に取って代わったのは第一次世界大戦後だった。
一般には、戦争という極限状況での機能性が腕時計を普及させたという俗説が流通しているが、それでは、世界大戦後まで40年近く大衆への普及が足踏みしていた理由を説明できない。
他作品のレビューでも記したが、第一次大戦の衝撃で、「人間」が壊れたモノのように変貌し、部品のようなものとして機械と接近しようとする時代精神が、腕時計普及の根底にあるのではないか。
同時代に生まれた、生産設備と一体化するライン作業、マン-マシン系として運用される機甲部隊による電撃戦の戦略構想、直線的な機械の動きを模倣するラインダンスのレビュー・ショー、などなど。機械と融合する欲望が、この時代の時代精神の一部だ。
この流れに呼応して、サイボーグ=機械融合人間=腕時計をつけた人間が大量発生する。
このように、俗説よりも、永瀬唯の「サイボーグ」説の方が、はるかに説得力がある。
そして、本作の主人公の左手首には、「腕時計」が目立つ形で描写されている。
時計に似た歯車の「剣」をふるう姿に重ねるのは、少し強引過ぎるだろうか。いや、強引なのは承知しているが、連想を止められない。
機械式の(ゼンマイ駆動の)腕時計の場合、手巻きであれ自動巻きであれ、駆動するエネルギーは、装着している人間によって、ゼンマイを捲くという形で供給される。
腕時計と装着した人間という一つの〈マン-マシン系〉は、一体として閉じていると言えるだろう。
腕時計をつけた人間は、自分をインディヴィデュアルというか自律したものとして、イメージしているのかもしれない。
が、最近では腕時計の凋落は激しい。
かわりに時刻を計る機能はスマホに受け継がれたようだ。
腕時計のイメージがインディヴィデュアルであるなら、スマホのイメージはネットワークだろう。
腕時計を身に着けた人間の自己イメージが自律であるなら、スマホを持つ人の自己イメージはネットワークの「端末」となるのか。
主人公の腕時計が機械式かクォーツかまでは分らないが、機械式と仮定してみるのも想像が膨らむ。
ヒロインと手を取り合い、一体として戦う姿と、どこか重なってくるようだ。
作品の本筋とはまるで関係は無いが、こんな感想を挑発してくるのも中々に楽しい視聴体験ではあると思う。