ossan_2014 さんの感想・評価
3.8
物語 : 4.0
作画 : 3.5
声優 : 4.5
音楽 : 3.5
キャラ : 3.5
状態:観終わった
認識のしるべ
辞書を編纂し出版するまでを追う物語。
と、一言で言ってしまうと、何とも地味だ。
辞書を、言葉の海を渡る舟とたとえる物語は、また人生を渡るという比喩でもあるのだろう。
「言葉の海」をそのまま「海」として表現してしまうビジュアルはいささか安直だが、その反面、現実的な部分の描写は誠実に描かれている。
背広が、アニメ風のあり得ないデザインではなく正確であるのは珍しいし、劇中での十数年の時間経過を、会社員の服装の流行の変化で表現したのも巧みだ。
辞書編纂という仕事を通じた人間模様は、しかし「お仕事系」の物語としてだけ視聴するのは少し一面的に過ぎる気がする。
「言葉」に憑かれ、言葉の差異にどこまでも潜っていこうとする登場人物たちは、ともすれば一般人からは奇異にみられる「オタク」的な無価値なこだわりにとらわれているように見えるかもしれない。
この拘りを、そんな細かい違いは自分にかんけー無い、と認識する人は、しかし「そんな細かい違いは自分にかんけー無い」という「言葉」によってしか自分の認識を表すことが出来ないという事を自覚してはいない。
何かを認識するとは、「これ」と「これでない」の間に線を引くことだ。
何処にも線を引かなければ、世界は一塊の混沌だろう。
生まれたばかりの赤ん坊の前には、「世界」はそのような混沌であるに違いない。
眼前に現れるものに、〈これ/これでない〉と線を引くことを繰り返して、少しづつ世界を認識していく事になる。
「これ」と「これでない」にそれぞれ違った名前=言葉を与えることが、線を引く、ということだ。
言葉が与えられることで、これと「あれ」が生まれる。
言い換えれば、言葉を振り分けることが、認識をするということでもある。
主人公が、社会や人とのかかわりにうまく適応できていない人物として物語に登場するのは、こうした必然性に導かれている。
自分の認識が世間=「世界」の了解とうまくかみ合っていないような、主人公の感じている齟齬感が、認識を支える「言葉」への興味として、辞書編纂へと向かう動機になって物語を駆動する。
「言葉」を定義して定着させる「辞書」の編纂は、他者との間に「認識」の共有を生み出すものでもある。
言葉の定義にこだわる姿勢は、他者と認識を誤りなく共有したいという欲望とも言えるだろう。
言葉が揺らげば、認識がゆがむ。
認識がゆがむとは、世界が歪むことでもある。
例えば、「戦闘」という言葉を「衝突」と言い換えて内戦など存在していないと言い張る欺瞞は、単なる言い逃れではなく、「戦闘状態」という事実を、そのものとして「認識」させないことが意図されている。
銃撃が行われ死傷者の出ている状態は、「衝突」だから問題ないと「認識」されることを。
窓ガラスが壊された、のではなく、窓ガラスが「衝突によって一体性が消失した」のであれば、窓ガラスを割った犯人は何処にも存在しなくなる。
そのような「言葉」の言いかえを許容することで、「世界」は実相を離れてどこまでも混沌へ後退するだろう。
言い逃れの「言いかえ」を無批判に見逃し続ければ、「世界」は戦争もなく放射能汚染水は完全にコントロールされた清潔で安全なものに「変わる」
が、それは他者と共有可能な「世界」なのだろうか。
言葉と対象の対応を吟味し続ける「辞書編纂」は、このように、浮世離れした学究の高踏的な趣味などではない。
主人公が伴侶と仲間を見出したように、他者と手を取り合いたいのであれば、言いかえを「自分にかんけー無い」と見過ごすわけにはいかないだろう。
「辞書編纂」の物語は、出版の「お仕事」をこえて、「世界」を守る最前線であるともいえる。