ossan_2014 さんの感想・評価
3.0
物語 : 3.0
作画 : 3.0
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:途中で断念した
自己愛の微分方程式
【未評価】
*2017/03/10 少し追記
「本命」の相手とストレートに関係を創る事の出来ないねじれを、「クズ」というタイトルで表現したつもりなのだろうか。
他人に向ける「好意」を、これは「友情」、これは「恋愛感情」、これは「特別な親友の友情」と細かく微分して「仕訳」していく事にどんな意味があるのかよく分らない。
ましてや、この感情は「友情」だからこの行為を「しても良い/してはならない」、「疑似恋愛」だから「しても許される/許されない」と区分けすることは、想像の範疇からも越えている。
心理学的には、女性はこの「微分」にシビアで、微分した「友情A」には「行為A」を、「恋愛B」には「行為B」を対応させる仕訳を行い、「友情A」に「不適切な」行為Bを与えることに抵抗を感じるというのだが、本当なのだろうか。
微分された「好意」から、それにふさわしい「行為」を導き出す微分方程式は、心理それ自体というよりも、社会制度が心理に影響する結果のように見える。
社会において安定的に生殖と労働を管理する単位として、「婚姻」は規定される。
言い換えれば、婚姻は社会を安定的に維持していく為に都合の良い形として、各社会ごとに形態が定められる。
一夫一婦制が主流であることは間違いがないだろうが、社会によっては「一夫多妻」や「通い婚」など多様な形態があることは周知のとおりだ。
古い少女マンガで典型であった「互いに両想いになり、周囲から恋人同士であると承認され祝福される」ハッピーエンドが、現実の一夫一婦制の婚姻制度に疑似的に重ねられたものであるのは明らかだろう。
現実の「一夫一婦の夫婦として社会に承認される」婚姻「制度」が、架空の恋物語のハッピーエンドの形をも規定している。
だが、中島らもは稲垣足穂を参照して「恋愛は歴史に対して垂直に立つ」と指摘した(うろ覚え)。
ここでいう歴史とは、事実的な現象の連鎖の意だ。
日常世界の出来事の連鎖と言ってもいい。
時間の経過とともに現象の振幅が生じる二次元のグラフのような、心電図の様なかたちとして「歴史」をとらえることが出来る。
が、恋愛は、そのグラフに対して「垂直に」立つ、時間の経過ゼロで無限の振幅が生じるものとして中島には把握される。
事実的な出来事の連鎖である日常世界の「外部」から、瞬間的に到来する超越的な経験として。
西欧でも、恋に落ちることが「キューピッドの矢」に貫かれると例えられているのは、恋愛は「外部」から「到来」するものとして、「私」の意思的な行動とは次元の異なる「超越」であると、普遍的に把握されているのだろう。
超越的な経験であるがゆえに、意思的な行動の連鎖である「日常世界」の規範に、時として「恋愛」は矛盾し、昔からいくつもの「規範」とぶつかり合う」悲恋物語が生まれてきた。
そして、悲恋を、「規範」を超えて「私の真実」に殉じるものとして肯定的に賞揚するロマン主義が、近代の「人間」の確立と共に誕生する。
恋愛の官能に生きる「私という人間」の真実は、社会が定める「規範」よりも優越するものであると。
遊びに夢中になる幼児は、しばしば大人を振り返る。
遊びの快楽に熱中しながら、この「遊び」が大人に許されているか、大人の顔色を確認する。
大人に承認されなければ、幼児はこの「自分自身の」快楽に浸ることを肯定できずに、不安になるからだ。
「規範」と無関係に自身の内的倫理=モラルによって自己肯定できるのが「大人」であるとすれば、規範なしで行動を決められない「子供」が大人に変わる過渡期が思春期だろう。
規範がない「超越」であるはずの恋愛において、社会制度を擬製して「規範」を擬態する古典的な少女マンガの「ハッピーエンド」は、思春期の少女の過渡期の不安を慰める装置でもある。
本作のヒロインによる、「好意」の微分も、「規範」を十分に撥ね退けることのできない思春期の過渡期性の産物だ。
規範に逆らう「好意」をそれ自体として丸ごと自己肯定できない不安が、「好意」を微分する強迫を生む。
好意を「微分」する作為が守っているのは、「好意」=自身の欲望を肯定してしまえば規範から逸脱してしまうという「不安」から逃れようとする「自己愛」だ。
微分方程式で「していい行為」と「いけない行為」を導きだすことで、「規範」から逸脱して社会「制度」と正面衝突しようとしない言い訳を用意する「自己愛」の防壁。
「行為」が外見的にどれほどインモラルに見えようとも、「規範」との対決を回避するための「自己愛」の防衛機構であることに変わりはない。
強迫的に微分された「恋愛」を、悪無限的に「恋愛A」「恋愛A′」に再微分し、相応しい「行為A」「行為A′」を計算する微分方程式の連鎖は、自己愛の防壁を分厚くしていく。
が、壁が厚くなるほどに、肉体的な行為の描写と裏腹に、恋愛の超越的な官能からは遠ざかるばかりだろう。
描かれているのが「恋愛の苦悩」ではなく「自己愛の悲鳴」である事態を示しているのが、タイトルの「クズ」だ。
歪んだ恋愛(?)を自覚していることを示すように挿入されている「クズ」は、冷静な「自覚」などでは無く、学生のコミュニケーションに有りがちな、いちいち「自分はアタマが悪いから」と前置きして話し始めるのと同型的な、セルフハンディキャッピングに見える。
互いに自分の欠点を宣言し合うような学生のコミュニケーションが、自己愛から生まれるセルフハンディキャッピングの自己防衛であるように、「クズ」の宣言は、あらかじめ免責を期待する自己愛の発露だ。
規範を侵犯する怯えも、モラルをまだ持てない不安も、全ては思春期という過渡期の物語にはふさわしいとは言える。
が、「クズ」という自虐に見せかけたセルフハンディキャップを掲げている限り、恋愛の官能はおろか、失恋というカタルシスすらも手には入らないだろう。
作中に漠然と漂う「不潔」な印象は、ヒロインの行為自体ではなく、セルフハンディキャップの姑息な計算高さが生み出しているようだ。
年齢も性別も異なる視聴者には、「恋愛」はともかく、セルフハンディキャップで誤魔化す少女の自堕落な自己愛に付き合う事は出来そうもない。
強く勧める人がいて続きを少し視聴してみたが、やはり肯定的な感想は持てそうもない。
以下を、勧めてくれた人への回答として記したいと思う。
作中で頻繁に繰り返される性行為だが、最も強い快楽を得られる性行為とは、好きあった者同士で行うときだろう。
綺麗事に聞こえるかもしれないが、セックスレスを研究する心理学者によると、性行為を阻害するもっとも大きな要因は「怒り」の感情であるという。
「怒り」程ではなくとも、相手に対してネガティブな、拒絶的な感情があれば、性行為を阻害するし、行ったとしても快楽は十分に得られない。
裏返せば、快楽を得るには、「好きあっている」というのは理想的に過ぎるとしても、相手に対して、何らかの意味で心が開かれていなければならないということだ。
そうした点から見ると、登場人物たちは、その性行為からほとんど快楽を得られていないように思える。行為中に頻繁に挿入される心理描写が、行為の最中においてすら、眼前の相手を見つめてはいないことを表している。
性の快楽を求めるのは、ある意味では健全で自然なことだ。
何かからの逃避として快楽を求めることもあるだろう。
が、逃避としての快楽も無しに性行為を繰り返す姿は、不健全な、あえて言えば精神病理学的な強迫を感じさせてならない。
やはり、こじらせた自己愛の防壁が、快楽すらないという意味での不毛な性行為を強迫しているようで、ついていきかねる。