古川憂 さんの感想・評価
3.9
物語 : 3.5
作画 : 5.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.5
キャラ : 2.5
状態:観終わった
現代的な感性の紡ぐ「恋愛映画」
「これ、恋愛モノじゃないよな」
本作が公開されてから一週間後ぐらいだっただろうか。ちょうど予定の無い日が合致した友人と共に本作を鑑賞しに行き、劇場から出た自分が発した第一声が、それであった。
「だって、主人公の瀧とヒロインの三葉が直接的な邂逅を果たすのはラストシーンが初めてであって、愛情という感情が芽生えるまでの恋の過程は全く描かれていないから。恋愛って駆け引きがあってなんぼなんじゃないのかな」
というような内容を続けたと記憶している。自分はこれまでの新海誠監督の作品を、手放しに絶賛するほどとはいかないまでも、一定の閾値分は楽しんで鑑賞してきた。長年引きずった初恋からの脱却を描いた「秒速5センチメートル」も、年の差を経た男女の交流をリリカルに描いた「言の葉の庭」も、気に入りの作品である。しかし、本作にはどうも個人的に乗り切れない部分があった。
確かにエンターテイメントとしては上質で、スラップスティック的な掛け合いや主題歌と映像の相乗効果も「映画」的で、ヒットの要因には頷ける。
ただ、何なのだろう。新海監督がメディアに露出するのを見ている間も、若年層の女性が「泣いた」と感想を述懐しているのを見ている間も、紅白で「前前前世」が流れているのを見ている間も、えも言われぬ靄が、心の内側を覆い続けていた。
「あれは恋愛モノじゃない気がするんだよな……過程も無いのに恋に落ちるならそれこそ道ですれ違った人間が相手でも変わらないんだよな……」
そんな、どこか流行に対する反感、嫉妬、呪詛にも似た感情が流れ続け、しまいには本作について考えるのをやめた。
しかし、先日ふとSNSのトップニュースで『数年後には独身の層が人口の半分に達するだろう』という旨の予測を目にしたとき、本作に対する疑問がいちどきに瓦解した。
「ああ、人間同士が致命的に離れている現代社会において、かつてのような『恋愛』のモデルは、想像しにくいものなのだ」
自己と他者の間には、明確な壁が存在する。いくら「相手の気持ちになって物事を考えよう」と説かれても、所詮は他人事、想像力にも限界がある。究極的に他人のことを自分のことに置き換えることは、不可能なのだ。
そして、インターネットが各々の手元に普及した今、現代を生きる私たちは画面の向こう側に潜む匿名の相手の思想や言葉だけを目にしている。SNSを流れるのは特定の人間の言葉ではなく、匿名の大衆の言葉――つまり、生の実感を伴わない不特定多数との接触が、私たちの日常となっている。
そんな現代社会において、生の実感を持った相手同士の交流の、なんと想像しにくいことか。直接相対しなくても感情を交わせるなら、別に直接出会う面倒をわざわざ被ることも無い。つまり、現代においては『身体』の距離は遠く、『心』の距離は近いのだ。その社会体系が悪いとか良いとかを論じたいわけではなく、それが現実として存在するという認識だけを此処に起きたい。
閑話休題、本作の話に戻る。
本作における「入れ替わり」の現象は、そんな自己と他者の壁を軽々と超える。「相手の気持ちになって物事を考える」ことの限界を、易々と飛び越える。なんせ、相手の気持ちになるどころか、相手の身体になって物事を体験しているのだから。そうして得られた体験は、古典的な恋愛モデルなどものともせず(まあ、男女入れ替わりのモチーフ自体は古典なのだがそれはさておき)、現代的な、「自己と他者の交流」へと昇華される。
かつての作品では、宇宙と地球、県境、年齢の差、など男女の間に壁を設けて、最終的には理解し合えないという結論を提示して来た新海監督が、壁を超えた関係を描く。これで、漸く新海作品の男女は手を取り合えたのだ。直接的な駆け引きややり取りなんて、必要なかった。ただ、互いを理解し合うこと、それだけが本来交わる筈も無い人間同士を繋ぐ唯一の鍵だったのだ。
――逆にいえば、こうしてフィクション的な叙述で解答を提示したということは現実的に自己と他者間の断絶を解決する方法はないと暗にほのめかされているような気もしないではないが。それは新海作品の今後の課題である以前に、現代を生きる私たち自身の喫緊の課題でもある。
余談として、流行作品の傾向についても触れておきたい。
交じり合えない他者同士の交流、という観点を持つと、「まどマギ」におけるまどかとほむらの関係、「あの花」における仁太と芽衣子の関係、又、アニメ作品ではないが、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」における主人公とヒロインの関係についても、共通点が見受けられる。
これらの作品においては、
まどマギ(或いは、他のループ系作品において)……ループする側の存在と、そうでない周囲の存在→時間を何度も積み重ねてきた者と、その時間軸にしか生きていない者
あの花……生者と死者
ぼくは明日……時間の逆行する者同士
と、決定的な二者の断絶が見られる。
そうなれば、二者間には作者によって明確な壁が設定されていることになり、これはインターネットの普及により人々の物理的な距離が断絶された現代社会における人間関係の縮図として視聴者に自己投影を促す。そして、これらの二者が最終的に互いを理解し合う図式が、感動を生むのだ。
本作のヒットは、決して過大評価ではない。
生まれるべくして生まれたヒット作であった。
余談のさらにまた余談というようなどうでもいい話ではあるが。
映像では「満月の中心を電柱の送電線が通り、月が二つに分かれて見える」ような1カット(このカット、秒速~でもあったような)だが、小説版でどう表現するのかと思っていたら、「半月」と記述されていた。小説と映画という媒体の違いを十全に理解した上で風景描写にもこだわる新海監督の技巧が見受けられる一幕である。