「この世界の片隅に(アニメ映画)」

総合得点
82.8
感想・評価
700
棚に入れた
3106
ランキング
350
★★★★★ 4.2 (700)
物語
4.3
作画
4.2
声優
4.2
音楽
4.0
キャラ
4.2

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ネタバレ

kurosuke40 さんの感想・評価

★★★★★ 4.1
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

流し流され生き行く私たちに

原作未読。

戦時前後の時代の、市井の生活をすずさんの視点から淡々と描いた作品。
あたたかいデフォルメのレタッチで描かれているものの、その実、生活感は生々しく、脚本は地に着いた出来栄えで、実際に戦中の生活を描いたよう。

負のイメージの強い時代の生活を描いた作品だけど、私は率直に羨ましいなと思ったかな。監督曰く「居場所」の物語らしく、それほどとち狂った感想でもなさそうだ。

すずは受け身な女性で、自分で決断をするのは苦手だ。当時としては珍しくもないことだけど、人生の伴侶も自分で決めたわけではない。嫌なら断れば良いと言われても、断ることもなく、かといって自分から選ぶこともしない。ただただ流れに身を任せて選択が決まっていく。広島という彼女の実家を去ったのも、嫁にもらわれたからで、彼女は自分の意思で自身の居場所を選び去ったわけではない。

一方で対照的なのは径子だ。彼女は夫を自分で決めるなど自分の意思で決定を行える女性だ。良いと思ったものを自分で選び、良いと思ったことを行う。傍から見ると空気読めないような行動も起こすけど、その分しっかりと責任と肝が座っている。すずさんが嫁いできてすぐの頃、「広島に帰らないのかい?」といびったのは、径子のスタンスが分かると「成り行きではなく、ここに残るかどうか自分で決めろ」という含意や嫌われ役を務めてすずさんが決定できる機会を与えてくれたようにも思えますね。生き方に限っていえば、すずさんが「世界の片隅に」なら、径子は「世界の中心に」かな。

すずさんからしたら成り行きという形で北條家の一員として生活が始まる。と同時に時代は戦中であり、戦争は少しずつ生活を蝕んでいく。あたかも「本当に大事なものは何か」を探る思考実験のように。
配給が少なくなってきたり、すずさんが絵を描けなくなっていく環境の中で、衣食住や性に関する描写が丁寧に描かれ、ところどころハプニングや笑いが起きつつ、日々を1つ1つ積み重ねていく。それは、戦争が日々の延長線上にわからないように少しずつ忍び込んできているという恐ろしさと同時に、そんな過酷な環境の中でも心地良く生きていけるヒントを与えてくれているように思う。

しかし、戦争はまだ終わらない。
戦争の火花は遂にすずさんを捉え、すずさんは右手を失う。
すずさんにとって右手は人生の相棒だった。思えばあの場面もあの場面もどの場面もすずさんは右手で絵を描いて、問題を解決し、人と触れ合い、自分の心を描写していた。右手を失うのはちょうどこれまでの、そしてこれからの生き方を奪われたようなものだった。

それでも周りの人々は彼女に「良かった」と言う。「良かったって何が良かったの?」
誰も彼女の心に寄り添ってくれないものだから、すずさんは「人の気も知らないで」と燻ってしまう。
これはすずさんにとって右手は彼女の大きな部分を占めていたが、他の人にとって右手はあくまで彼女の小さな部分という認識の齟齬によるものだ。すずさんにとって右手がどれだけ大事なものであったのか、逆に言えばすずさんは右手を失った自分に残る価値を過小評価していて、他の人が残りカスの存在の自分を評価することを認められないし、イライラしている。私のことは私が一番知っているはずなのに、何を勝手に評価して言っているんだろう、と。他の人からしたらすずさんが居てくれているだけでいいんだけどね。
ここでの適切な対応の1つのは、彼女にとって右手を失うことは死んだも同然だったんだねと受け止めた上で、彼女の評価軸ではなく、私の評価として、〇〇ができるから、〇〇という役割を担っているからとか関係なく、ただ居てくれるだけで良いんだよと伝えることだったと思う。(私だったらすずさんが妹さんをどう思っているからかから説得するかな。)ここらへんは『フルハウス』の「ステフのいたずら」を思い出しますね。
追記:すずさんの心についてはまだ微妙にずれている気がするので、ここらへんは話し合って調整かな。

私がこの作品で学んだのは、こういうの(居てくれているだけで良い)というのは、こっちからちゃんと言葉として伝えないといけないんだな、ということ。もちろん態度や行動も伴ってないといけないけど。こっちから情報開示しないと決してすずさん側だけでは「居てくれているだけで良い」と思われていると結論付けることは不可能だから。すずさん側から質問するにしても返答が体面的な回答か真意かどうか結局判断できないし、なによりこっ恥ずかしいし。

作中で伝える役割を担ったのは径子でしたね。むしろ「居てもいいんだよ」という言葉だけですずさんを引き止めれたのは径子以外にはいなかったように思えます。というのも北條父母は優しすぎて重荷だと思ってても言いそうだし、夫も嫁としてもらった責任から言いそうで、それは本当に居てくれているだけで良いと思っているの?と思えてしまえるから。一方で径子は上述の性格と晴美の死による軋轢とすずさんの生活の面倒を見ている負荷から、一番「出てけ」と言いそうな立場にあるんですよね。その径子が「居場所にしていいんだよ」と言ってくれたからこそ、すずさんは北條家を「居場所」にしてもいいんだと思い直したんだと思います。伝わったんだと思います。

私が試聴直後羨ましいなと浮かんできたのは、私もすずさんと同じように流れ流され生きてきたけど、すずさんにはちゃんと居場所があるからかなと思ってたけど、どちらかというと居場所を認められたから、の方が近いかもしれない。すずさんが北條家から出ていこうとしたように、私は居ても良い場所を出てきた気がするから。


ご精読ありがとうございました。


・戦争と玉音放送について
{netabare} ふと視点を変えると、この作品の伝える恐ろしいところは、戦争がただの思考実験ではなく、実際に起こったことであるということで、戦争は生活の困窮だけでなく、人の心まで蝕んでいたことがよくわかる。
すずさんの右手や晴美を失ったとき、心の支えになったのは、国のためにしょうがない、みんなも同じように失っているししょうがないという全体主義や功利主義的な理由で、個人の辛くて悲しい感情は全体の都合により押しつぶされている。
玉音放送はちょうどその全体主義や功利主義的な理由さえも彼女たちから奪った出来事なんだね。全体主義的な理由だとしても心の支えは簡単に捨てられるものじゃないから、すずさんは「はぁお前今更何言ってんの?」と自暴自棄的にキレるし、本当に理由がなくなったと分かると、どうして失う必要があったのか、何のために失う必要があったのかと押しとどめていた感情が湧き出てくる。失ったものが大きい人ほど、せき止めていたことが大きい人ほど玉音放送のダメージは大きい。玉音放送は歴史的事実になるわけやね。 {/netabare}


蛇足
{netabare} すずさんの心の中に新しい居場所が出来たタイミングに広島に原爆を落とすのは、やりすぎな感じはするけど、居場所が1つではなくなった程度の意図という解釈で問題ないのだろうか。原爆ということが色々と解釈を広げやすすぎてワカラン。 {/netabare}

投稿 : 2017/01/15
閲覧 : 286
サンキュー:

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