ossan_2014 さんの感想・評価
4.0
物語 : 4.5
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 3.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
成長と暴力と水
複雑な生い立ちを持つ孤独な少年棋士と、ふとしたきっかけで知り合った三姉妹の家族との交流の物語。
設定の外形だけを追えば、青春の光と影の物語とも見えるのに、全編に漂うこの濃密な暴力の気配はどうしたことだろう。
勝負事や生活上の困難を「闘い」と比喩することはありふれているが、比喩としての「闘い」を暗示するのではなく、具体的に身体と精神に迫る「暴力」として、主人公の「困難」を描き出そうとしているようだ。
映像イメージ、音楽、役者の演技の全てを駆使して表現される「暴力」の気配は、主人公の孤独な心の影という域を越え、どうかすると三姉妹との交流の背後にも垣間見えてさえくる。
緩急の効いた演出で暴力のみが突出することは無いものの、そこに存在することを決して忘れさせないかのように、鋭利な刃物のように作中に切り込んでくる暴力は、敏感な視聴者であれば痛みさえも感じてしまう事だろう。
この過剰な暴力性はどこからやってくるのか。
人が、とりわけ若者が困難を克服する術を身に着けるとき、脊髄反射のように「成長」という言葉が使われ、省みられることは無い。
だが「成長」とは、「変化」が何か肯定的な価値に向かっているときに使われる言葉だ。
花を愛でる人からは、花が咲くまでが「成長」で、萎れて枯れ落ちるさまは「老化」と見えるだろう。
が、生き物としての植物の頂点は種子が撒かれるときだとするならば、「成長」の頂点は種が落下するときであり、花びらが枯れ落ちるのは「成長」であるといえる。
逆に言えば、枯れる花びらを「成長」と呼ぶか「老化」と呼ぶかは、観察の背後の価値観を示しているわけだ。
襲い掛かる困難や悪意に対応していく様を「成長」と呼ぶならば、そのように変化することは「良い」事であると看做すことになる。
であるならば、悪意や困難は、ヘーゲル弁証法の止揚じみた「良い」変化を生じさせる「契機」であると肯定されざるを得ない。
「成長」という「良い」変化を意味する言葉を使用する限り、この契機となる「悪意」は、これ無しで「良い」変化を得ることはできないものとして肯定せざるを得なくなる。
が、本当にそれでいいのか。
心や身体を傷つけようと迫る悪意は、「成長」をもたらして「くれる」契機として受け入れられなくてはならないのか。
それは、どこまでも自分を傷つける「敵」に過ぎないのではないか。
過剰な暴力性の描写は、主人公を傷つける悪意を決して肯定しない、絶対悪としての描写のために要請されているように思われる。
脳直の「成長」というレッテル貼りで思考停止して、「悪意」を契機として承認してしまう事を拒絶するために、濃密な「暴力」として違和感を感じ続けさせることを、製作者は目論んでいるようだ。
描かれているのは少年の「成長」ではなく、容赦ない「敵」の「暴力」との格闘であるのだと。
「成長」と「悪意」の肯定を拒絶するならば、主人公の苦悩は慰めを見出すことはできないだろう。
ただ、悪意を叩き潰す「変化」があるだけだ。
肯定してくれる価値観は無い。
いつか主人公自身が、自身の変化を「成長」と承認する日まで。
が、これも頻繁に挿入される「水」のイメージの先に、製作者が救いを用意している気がする。
はたして救いはどう表れるのか、見届けていきたい。