ossan_2014 さんの感想・評価
3.4
物語 : 3.0
作画 : 3.0
声優 : 4.0
音楽 : 3.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
消費者としての読者
なんだか懐かしいような、そうでも無いような。
本好きの高校生であった頃、仲間と本屋街をうろついては喫茶店に入り、手に入れた本を前にあれこれとだべっていたことを思い出す。
いや、本好きのオッサンになった今、酒を飲みながら同じことをしているのを思えば、歳は関係ないかもしれない。
勧められたタイトルを忘れないように、いちいちスマホにメモを取り合うようになったことが、年齢の現れだろうか。
ただ本について喋りあっているだけのアニメが娯楽として放送されているのは、語り合う楽しさが現代でも変ってはいないという事なのだろう。
会話を転がす基本は、本好き「あるある」ネタの応酬だが、誰でも一見して気付くのは主人公のバーナード嬢が、本を読まずに読書家ぶりたい、という奇妙な動機に動かされていることだ。
他人の「感動」をいくら収集したところで、感動を自分のものとして得ることはできない。
読まなければ、自分の中に感動も感想も生まれてこないのは自明のことに思える。
が、読書という手間をかけずに内容=感動だけ得たいのだというバーナード嬢のセリフは、何かに似ているようだ。
例えば家電を買うとき、機能や価格を比較検討し、最小のコストで最大の果実を得ようとする「消費者」に。
本を前にして、読むよりも先に「まとめサイト」やレビューを調べるバーナード嬢の行動は、家電購入前にスペックを比較検討する、コストに対して何が得られるのかを把握する消費者の購買行動と全く同じだ。
読書と「消費」を同一視する行動が奇妙に感じられるのは、そもそも読書体験が、本質的に「交換」の経済活動とは全く異なる性質のものだからだろう。
読書(更に広くは、アニメや映画などの「創作物」の「鑑賞」も含めて)という体験は、あらかじめ何が「得られる」のか決まってはいない。
本質的には、感動は本から「もらえる」ものではなく、読むことによって読者の中に「生まれる」ものだからだ。
ある意味では、「交換」ではなく「ギャンブル」に近いのかもしれない。
人生を変えるほどの「感動が湧き上がる」か、「時間の無駄だった」と本を投げ捨てるのかは、「自分が」読み終わるまで分らない。
しかし、バーナード嬢を代表とする現代人には、この「ギャンブル」は耐えられなくなっているのではないか。
読む=鑑賞するという手間=コストをかけて、時間の「無駄」しか得られないのでは内面化された「等価交換」の原則が脅かされる、と。
本に限らずアニメでも映画でも、宣伝文句やレビューに、「笑える」、「泣ける」というコピーが頻出するように思えるのは、このような「消費者」化した「読者」の登場を示しているようだ。
あらかじめ何が「与えられる」かを示されない限り、手間=コストを掛けることができない「消費者」の登場を。
それは、反面では、コストと引き換えに、感動を「もらう」消費者でもあるだろう。
読書の前に、「笑える」「泣ける」「グロ注意」「鬱展開」「ただのエロ」「大人向け」「主人公最強」などなどの「タグ」を収集して、何が「もらえる」のか計量してから読み始める読者。
「タグ」の収集だけで読書に換えてしまうバーナード嬢は、この「読者」の延長上に設定されている。
本質的に経済とは異なる領域に拡大してくる「消費」原則の強制と内面化は、このところのアニメに頻繁に見受けられるほど浸透してきたように感じられるが、本作の感想にも影響しているようだ。
しかし、バーナード嬢の言動を奇妙なものとして描き、「普通の」読書家との落差を笑いの原動力にする本作の表現法を見ると、創作物の「消費物」化は、過渡期にあるのだな、と言えるかもしれない。