Kuphony さんの感想・評価
5.0
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:今観てる
ミステリーではないとの主張と各話感想
第一話
非常に評価の難しい一話でした。
当然相変わらずの作画の気遣いだったり、Lantisな良いOPなどよくパッケージングされた作品であることは間違いありません。これはOPのCDを買ってしまうでしょう。
しかし、問題なのは氷菓がハルヒはもちろんのこと、CLANNADをかなり意識的に織り込んできたということです。
例えば、里志の放課後の座り方。あの椅子の置き方で最後尾窓際の机に肘を置かれ、しかも声優が同じとまでなると、もうこれはCLANNADです。千反田えるちゃんの登場のシーンも、あの桜並木の坂道での渚ちゃんのカメラワーク的な超スロー感があり、さらには、部室は校舎の端にあるときました、廃部寸前です。これはCLANNADです。
なぜここまでCLANNAD感があるのか、制作陣がなにをやりたいのか、まだわかりません。しかし、2000年代初頭に刊行されたキョンの類型が主人公の小説を今更アニメ化させるあたり、狙いは京アニアニメの復活なのでしょうか。
ところで、千反田えるちゃんは最高ですね。全身から秀才感があって、これはCDはゲーマーズで買うしかありませんね。試験勉強なんて要領ですからね。えぇ。
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折木奉太郎のような灰色人生観が回避しえない中でありながら、ここ数年はそんなこと言っちゃう自分語り系主人公が敬遠されてきて、「俺たちは俺たちのユーフォリアを作るんだ」とタイムきらら的な作品が受けたわけです(いわゆる日常系の勃興)。その日常系作品の出した結論が、「部活でお茶やる今がかけがえないよね」で、そこからの進展は無いでしょう。なぜなら、同じ日々が続くから。
残念ながら現実の日常は描かれる女子高校生の日常よりつまらないものです。それで「今が最高だよね」と言われても戸惑います。ハルヒでは残念な日常に目がさめるようなハルヒの登場があり、それが超越性に繋がりセカイ系と呼ばれるようになりましたが、氷菓では超越性には届きそうにありません。千反田えるちゃんは好奇心旺盛な以外は類型な才色兼備です。で、氷菓がアニメ脚本の系譜の中での発展図の一端を担うとすれば、「退屈な日常をどう引き受けるか」という問に実数解を与えるという挑戦でしょう。
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OPについて
作曲家の宮崎誠さんは最近ではドラゴンクライシス!のサウンドトラックや新谷良子さんを始めとする声優曲などを担当されてますが、(楽曲での)自分の印象は、自然な進行の中で印象的なメロディを残す方です。もっとぶっちゃけた言い方すると、カラオケ(off vocalではなく)で流れると良曲に聴こえるタイプ。今回の優しさの理由でも、自然とサビに向かって盛り上がり、一回落として、もう一回駆け上がるお手本のような作り。同じ、ちょうちょ、改めChouchoさんのましろ色シンフォニーOP Authentic Symphony(作曲:虹音)に通じる構成です。Authentic Symphonyの場合はとにかくバイオリンの旋律が神がかっていて、それに絡むChouchoさんの歌声で完全に制圧したわけですが、今回はシンプルな楽器構成のなかで、受け入れやすい見事な楽曲に仕上がっています。
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第二話
明らかに涼宮ハルヒの消失冒頭と被る目覚め。
なぜこうも過去を思い出させようとするのか。
折木君と他者との距離感が破壊神千反田えるによって崩されそうになる引き際、これがキョンなら違う反応をするのか、
私、気になります。
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声優
私、確信しました。
佐藤聡美さんが最高の選択であったと。
アクティブかつ繊細かつ天然。これはりっちゃんの本質であり、最上の人間こそが誇れる特徴であると。
目がギアス化して、折木君の腕を引き釣り、「私、気になります。」と高らかに宣言するその華奢なお姿。
これに対応するお声、佐藤聡美さんしかおられません。
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第三話
冒頭部分の演出が神でしたね。
告白という言葉にドキドキしちゃう思春期青年とそれに無縁だとする省エネ人間の間をどう描くか、これはかなり難しい問題なのです。
過剰に反応すると、「折木君も普通の男子なんだね」となってしまい、主人公として残念になり、全く反応しないのもそれはそれでリアリティに欠けてしまう。
そこで出てきたのが、ハート型の振り子でした。
いや、揺れ動いてましたね。
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第四話
京アニの絵コンテへのいちゃもんが多いので、妄想ながらに解説しておきます。
この作品では千反田えるちゃんの行動が物語の主導権を握っていて、大概の脚本の起点や演出(特に一話の髪の毛長くなるシーンはその示唆と象徴)視聴者がえるちゃんの動作に注目するようにできています。
今回の四話では折木君にシュタゲ的なエフェクトがあったわけですが、それはえるちゃんに渡されていた焦点が折木君に移ったと表現するためです。
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第五話
完成度が高すぎて泣けますね。藤井システムぐらい見事な組み立てでした。
氷菓は読んでいたので、このオチは知っていましたが、やはり良い読後感。数学の良問を解いた時と似た感覚があります。
話の冒頭で折木君が人生観の転換を表明した瞬間、思わず私は「えぇ〜」と奇声をあげてしまいました。いつか、これをやらないといけないのは分かっていましたが、早過ぎないかと。
しかし、折木君の転換と45年前の学生達の暴走に注目するとこのタイミングがベストなのだなと気づきます。
糸魚川先生が「おもちゃを取り上げられて駄々をこねる」と表現した、文化祭縮小への反対運動。これは学生たちが気づかぬうちに人生の目的=文化祭、という等式を信じ込んでいるから成立しました。それに対し、折木君の指す灰色、とは正しい等式が存在しないと考える人生観です。そこで、折木君がその灰色を(あえて)捨てるという行為はすなわち等式が存在すると(あえて)思い込む心理変化と同義です。
米澤穂信が込めた折木君に似た青年へのメッセージ、それは人生の意味を勘違いしろ、ではないでしょうか。
現在の私が想像する未来の私と未来の私。
その違いが残酷でも、2つは同値であると信じ、生きていけたら嬉しいなって。
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五話後記
この脚本がオリジナルなら五話で切ってます。
これはほぼ全ての自分語り系アニメに共通することですが、結局「お前らも友達作ってコミュニケーション楽しめよ」という結論に到達してます。
社会常識的にはそうなのでしょう。それは分かる。でも抗って欲しい。いや、一人の方が面白いじゃないかと。
これが難しいのはわかります。というのは、脚本を書いたり原稿を練っている時点で、それはコミュニケーションの一動作であって、それをつまらないと言ってしまうと、「じゃあ、お前なにやってんの?」ってなるからです。
このあやを乗り越えて、そういうこれまでと違う思想をベースにした作品が欲しいものです。
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氷菓編総評
いつのまにかネット界の一部本格派オタクを気取りたい方々から激しい逆風を浴びるようになった京都アニメーションですが、ここまでそう問題があるでしょうか。千反田ちゃんがぐうかわだというのに。
ミステリーとして大したことない批判もまた吹き荒れておりますが、本作はミステリー以外の要素が大きく、トリックが大層だとその他要素に注目がいかなくなるという効果を考えたらどうなんでしょう。
こんな敵意剥き出しな前置きを元に本作を考えたい。
上で「実数解を与える」とか言ってて、それは見事に五話冒頭で導いてくれました。自分でもびっくりするぐらい予想の範囲内。(まぁそりゃ原作一巻は読んでますからね)
私が考えるに、氷菓におけるミステリー要素というのは、折木君の青春の場に過ぎないです。ミステリーは将棋でも良かったし化学でも良かった。代替可能なものです。
作者の米澤穂信氏いわく、ミステリーとラノベの融合に可能性を感じたそうですが、少なくともアニメ脚本ではラノベの上にミステリーが乗っかっているのです。それは折木君が謎解きをすることに社会的な理由が無いからで、つまり彼が探偵だとか、何らかの行動動機が示されていない。そして、この特徴が直接的にこの作品を自分語り系ラノベに仕立て上げるのです。生きることに意味付けがされてない少年が、なにか(ミステリー)をなんかの勘違いでやってしまう。
というわけで、ミステリーアニメとして見るのやめたらどうですかね。
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第六話
新編開始、ここからは原作未読の領域。
ミステリーではないと言ってみたりしましたが、やはりそうではないでしょう。
今話は特に象徴的で、事件から解き明かされるのは千反田えるちゃんの生態で、大きな隠蔽された事実ではない。
ミステリーをダシにキャラクターを造っています。
やはり、古典部四人、特に千反田えるちゃんと折木君のキャラクター性が主軸に置かれているのです。
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キャラクター性
アニメやゲームキャラクターについて語るとき、常に付きまとうのは「リアリティ」という言葉です。
これは恐らく、濫造されるテンプレキャラクターの増加に対して反動したいという批評精神から来るもので、それを否定はしませんが、
しかし、リアリティを求めるならアニメ・ゲームの方が手っ取り早いというどうしようもない事実があったりします。
よって、すでにある濫造されたテンプレを昇華する形で得られる独自性、的なことを考えたほうが良いのではないでしょうか。
というわけで千反田えるちゃん!
お嬢様で好奇心旺盛、といえばエロゲーにおいて性のこと全然知らないのに主人公と関わるうちにぞっこんになっちゃう系キャラですね。
まぁ千反田えるちゃんは清楚なはず。かんなぎ事件なんて起きない。
そのえるたんキャラ造形において一番良い所は手加減なくうざいこと。プチねんどろいどが折木君にまとわりつくくらいにはうざい。
で、過度にうざいのがなんでいいかというと、まとめブログ他でネタになりやすいから。(割と真面目)
まとめブログで「私、気になります」と手を前にして平沢唯ちゃんの「私、軽音部って所にはいってみました」に似たポーズをとりつつ宣誓をするキャプチャを見た後に、後話を見ると、「私、気になります」に尚引っかかるようになるんですよね。SEでもそうなるように音入れてるし、氷菓における音響技術の二割は、そのSEで語れるんじゃないでしょうか。
(キャラクターの批評って出来ないですよ、だって好みだもの(逃げ腰))
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第七話
折木君は良いですね。感覚が凄く共有できる。
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第十話&第十一話
この二話で私が脚本に対して持っていた不安が一気に解消されました。
折木君がミステリー映画の結末に解を与え、才能があるんだと周りに言われ自分も言葉にしないものの認める。しかしその後に彼のシナリオは間違いであると執拗に言われ続け、半ギレになりながら正解を見つけ出し依頼主に声を荒げながら迫る。
これを抽象的な言葉に置き換えると、
特に努力せず才能を持った主人公が、その才能の分野で挫折し、しかしその挫折を非省エネ的に乗り越える。
こう読むと、よくあるライトノベルに対する批判的なメッセージを認められます。そして、この考えが私のメンタリティと似ていて非常に好ましい。
私が思うに、人間はいつのまにか偶然に出会ったわけのわからないものにのめり込んでしまい、省エネになりきれないときがあります。
そこで、生じる文学的な課題は省エネになりきれない自分をどう引き受けるか、という問題です。
折木君が一話の頃に言っていた彼の人生観(省エネ主義)には無理があって、そうなれないことをどう処理するのか。彼は、省エネじゃないのも面白いかもしれない、と千反田家を訪問したあとにぼやきました。
これでは自分には物足りなかった。というのは、この処理の仕方だと、
「省エネじゃない生き方が楽しい」ということになり
「省エネでありたいのにあれない生をどう楽しもうか」という話をすり替えているからです。
しかし、この10~11話は、折木君が再び省エネ的な生き方に戻りかけている中で、偶然出会ってしまった事柄に異様な関心を持ってしまった、「省エネでありたいのにあれない」状態でした。
そこで折木君は省エネかどうか、という問いすら無視し、物事の解決に走ったのです。つまり、省エネかどうかという評価軸そのものを一時的に消し去った。これは「省エネじゃない生き方が楽しい」という発想とは異なり、実践的な文学的課題への解答だったと私は考えます。
第11.5話
事件からまもなくの夏、折木君は労働に勤しむ。
省エネという評価軸を失い、いよいよ彼もニヒリズムの境地に達するのかというとき、伊原麻耶香に「前に戻れ」と言われ復活したよう。
前回、「省エネになりきれないことを引き受ける」ことをテーマにして、その評価軸そのものを消すことが解決策だと書きました。
しかし、この11.5話、または6話辺りの「省エネじゃない人生でもいいかもしれない」という発言から読み取れるのは、
人生観が固有でなくてもよい
という結論なのではないかと再考し始めました。
人が何を基準にものを考えるかは常に可変で、人生観を絶対視することは愚かなのではないかと。
千反田えるちゃんが可愛かったです。