ossan_2014 さんの感想・評価
4.0
物語 : 4.5
作画 : 3.0
声優 : 5.0
音楽 : 3.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
不等価交換のセカイ
芸能や広告の世界では「子供と動物には勝てない」と言われているが、それにしても、つむぎはちょっとズルい。
「食べるとこ見てて」って、それは反則だろう。
ああ子供ってこうなんだよなあ、と一発でノックアウトされるに決まっているではないか。
アニメ的に特殊な「幼女」とは異なる、地に足の着いたような『つむぎ』の愛らしさは、成る程このために子役を起用したのかと思わせる。
食べ物が中心におかれた本作だが、主題になるのは「食事」であって「美味」ではない。
食文化を標榜して究極だ至高だとぶち上げるグルメマンガが、結局のところ「美味」や「調理法」という、「情報」を消費する娯楽を提供しているのに対し、本作は食べ物がお腹に納まる幸せと、幸せを家族で共有する「食事」を焦点に描いている。
生き物にとって栄養の摂取が本源的行為であるならば、食べ物が腹に入る充実の方が、美食よりも本質的な「幸福」に近いのは当然だろう。
作中の、そしてラストの、つむぎの言う「おいしいね」は、美味を意味しているのではなく、「幸せだね」の言い換えなのだ。
美味しいご飯を娘に食べさせようとする父親の奮闘は、娘を「幸せ」にしたいという願いを表現している。
娘を幸せにしたい父親の気持ちは、物語の中で「ご飯を作る」という実践として具体化されることになる。
これは、料理をする事だけを意味しているのではない。
自分が娘の「おとさん」であり続けると、改めて決意することでもある。
が、この決意は、文字面から感じられる程ありふれた物でも手軽なものでもない。
自分が100パーセント「娘の父親」である事。
「時には一人の『 男 』に戻る時間が必要」とか「自分の中の『 男 』捨てずに」といった女性雑誌の記事を逆転させたような言い訳を一切自分に許さず、24時間365日「おとさん」であり続ける決意が、不器用な手つきで包丁を操る調理の背後にある。
だが、「おとさん」にとって、この決意と調理の「手間」は、娘の「犠牲」になるという事ではない。
娘の「幸せ」と成長のために、交換に支払わなければならない「コスト」でもない。
娘の幸せのために、なくてはならない行動ではある。が、自分の「労力」に対して等量の「見返り」を期待する「取引」ではなく、単に自分がそうしたいのだ。
つむぎが成長し、万に一つ、父親のパンツを箸でつまんで洗濯機に入れる日が来たとしても、「おとさん」は、自分の支払ったコストに対して不当に低い「見返り」であるとは思いつきもしないだろう。
「損な」取引をしているといった後悔は、決してしない。
ちょっと悲しそうに苦笑して、やっぱり美味しいご飯を作るに違いない。
子供の笑顔は、おそらく大人のこのような行為に守られて初めて実現するのだろう。
「おとさん」の決意と実行にブレが無いからこそ、同僚やママ友など、周囲の大人は皆、自然と犬塚一家に暖かな眼差しと協力の手を差し伸べてしまう。
報道される児童虐待やネグレクトが、社会のあらゆる場面で等価の見返りを要求する「等価交換」が家庭の中にまで侵入してきた一つの現れなのだとしたならば、このような大人と子供の関係は、あるいは古臭いとも、理解できないとも言われるかもしれない。
しかし、食べ物を家族で分け合う「食事」という、原始から続く営みを主題にしたことが、古典的な親子関係を古典的な絵空事には見せない。
そして、大人たちの中心にある『つむぎ』の笑顔の愛らしさが確かであることが、つむぎに向けられる思いやりもまた確かであることを支えて、リアルさを保証する。
やっぱり、つむぎはちょっとズルい。