P_CUP さんの感想・評価
4.9
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
演出に★10個付けたい
初日に見てきました。原作は連載時に読んでました。
(読み切りは読んでません)
{netabare}
原作との相違点を探して「答え合わせ」的に見てしまうと「×」が付きまくり大幅減点でしょう。
なので原作ファンから「なぜ俺の気に入ってたあのシーンをカットした!?」と文句が出るのは理解します。
それを理解した上で、なお、これは1本のアニメ映画として5億点を付けます。
最後の最後、こちらの曇った眼に貼り付いていた「×」が一斉に剥がれ、
瞬間、この映画が何を描こうとしていたのか、心に直接流し込まれるかのように理解してしまい、後はただただ滂沱。
まさに一瞬の出来事でした。いや、すごい。
落ち着いてから考えると、あのラストの一瞬のために、映像、芝居、そして何より音響が、
冒頭から入念に積み重ねられ続けてたことに気付きます。恐ろしい演出力ですよ、これ。
特に音響ですね。この作品、環境音とか雑踏音が相当リアルな感じで入ってるんです。
見てる間は「臨場感を増すために入れてるんだろうなあ」と、まあ普通に考えてたんですが、
ラストシーンで真の意図が理解できました。なるほど、まさしく「聲」の形です。
{/netabare}
絶対これ2回目の方がもっと面白いやつです。ってことで明日また観て来ます。
【追記】
2回目観てきました。予想通り、2回目の方がいろいろと「気付き」があって良かったです。
というか1回目で気付かなかったところに気付くことで、泣きポイントが増えてしまいますw
すぐ追記レビュー書きたかったんですが、シーンを思い出すだけでパブロフの犬的に涙が出そうになって無理でしたw
♪こまーるなー
{netabare}
さて、新たに気付いた点についてですが、今回はオープニングについて書きたいと思います。
初見時には割りと驚いた部分です。「The Who」の「My Generation」を持って来るとは完全に意表を突かれました。
一部に、作品に合ってないのではないか、という声もあるようですが、
自分としては、小学生将也のイケイケな感じにマッチしてると思いました。
後から、どこかの舞台挨拶で監督が
「子供時代の将也の万能感というか無敵感、そして底抜けに退屈してる様にピッタリだと思った」
と選曲理由を述べてたことを知り、
なるほど、自分の感じた印象はだいたい正解だったのだな、と思ってましたが、
今回、他に何か隠された意図があるのではないかと思い至り、ちょっと考えてみたところ思い当たることがありました。
この曲、例えば「I'm just talkin' 'bout my g-g-g-generation」と言った風に「吃音」を使った唱法が用いられるのですが、当時これが問題視され、イギリスBBCで放送禁止曲にされてしまいます。
吃音症の人に不快感を与える、とか、Fワードを連想させて不謹慎だ、とか、そんな理由だったと思います。
原作が、少年マガジン新人賞を受賞しながらも、聴覚障害者へのイジメというセンセーショナルな内容を含むことから、
雑誌への掲載が自粛され、一時はお蔵入りになったエピソードを知る人なら「ははあ」と思うのではないでしょうか?
もしお蔵入りになったままだったら、当然、その後の連載もなく、この映画だって作られなかったわけです。
これは、名作すらも死蔵させかねない、自粛という名の表現規制に対しての
やんわりとした抗議の意思が含まれているのではないか?
なんとなく、そんなことを考えてしまった秋の夜でした。
{/netabare}
忘れたころに追記。
この作品を山田尚子が作ったことの意味について思うところをつらつらと。
{netabare}
「彼処にて彼等の言葉を乱し、互いに通ずることを得ざらしめん」
この作品において描かれた「障害」とは何なのか?
それは聴覚障害ではなく「コミュニケーション不全」なんですね。
これが全ての不和の根本原因となっています。
硝子は身体的理由によるコミュニケーション不全、将也は精神的理由によるコミュニケーション不全。つまりこの2人の抱える「障害」は同一のものなのです。
この障害がなければどうだったのか?
植野は言います。「西宮が来るまで、私たちのクラスは最高だった」と。
また、硝子が見た夢として、対等のコミュニケーションが取れていた場合のクラスの様子が描かれます。
極端な言い方をすれば、その世界は「日常系アニメ」の世界です。
何の不和も起こらず、可愛いキャラたちが日々を楽しく平和に過ごすお話です。
そこに「コミュニケーション不全」という爆弾が投げ込まれます。
すると、楽しく平和だった世界が、実はその裏に内包していた影の部分が浮かび上がり、不和に満ちた世界に変わってしまいます。
天にも届けと打ち立てた「日常系世界」というバベルの塔は、コミュニケーションを乱されただけで、たちどころに崩壊してしまうのです。
日常系世界というのは、そのような脆さの上に成り立っていることを浮き彫りにしたという意味で、この作品は「反・日常系」と位置付けても良いでしょう。
「けいおん!」という日常系の金字塔を作り上げた山田尚子が、日常系が持つ欺瞞を暴き出してしまったわけです。
しかし、それでも彼女は言います。「最後の最後は、全てを肯定したい」と。
彼女が真に描きたいものとは、現実世界に存在する様々な不和をオミットせず、それでもなお、世界を肯定できるような、そんな作品なのでしょう。
{/netabare}