ブリキ男 さんの感想・評価
4.6
物語 : 4.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
どす黒く愚鈍にして盲目なる神シビュラ
近未来SF刑事アクション、サイコパスの第二期に当たる作品です。
※1公安局刑事課一係は続投の朱とギノさん、六合塚さんに1期ラストで顔見せがあった霜月監視官、東金、雛河執行官の3名が加わり、人員が6名に回復。中盤以降では雑賀先生も協力者として捜査に参加し、共に新たな犯罪に立ち向かいます。
一係に配属された雛河君以外の2名は1期で退場してしまった人情味溢れる人達とはかなり毛色が異なり、打算や保身、秘密を抱えた人物として描かれています。霜月監視官は一見して優秀とは言い難い利己的な人物に見えますし、東金執行官もオープニングムービーが示す様に暗い何かを抱えている印象から、純粋に頼りになる仲間とは思えず、あまり好感が持てませんでした。
雛河君については無害な上、とても優秀な人物という印象が持てましたが、1クールという短さの所為か人物としての掘り下げが殆どされておらず、好きにも嫌いにもなれない感じでした。朱と霜月監視官の描写が多過ぎるので、半話分位は彼に時間を割いてくれても良い様な気がしました。3期があれば是非焦点を当てて欲しいキャラです。
そして雑賀譲二先生。彼は1期でも狡噛の良きアドバイザーとして重要な役割を果たしていましたが、今回は主に朱の相談役となります。彼の弁証法的話術による情報の引き出し方は※2知の助産婦と評するに相応しく、自らの持つ見解や情報をわざと小出しにしつつ、対話相手の内にある自分でも気付いていない情報、あるいは隠している情報を巧みに暴き出します。優秀な教師が一対一で生徒に教育を施す時に用いる方法と大体同じですね。また豊富な知識量に裏付けされた明晰な洞察力で、一係のメンバーの誰もが気付けない盲点を見抜き、一言、二言で状況を一変させてしまう手腕は驚嘆に値します。灰色の脳細胞が十全に活動している印象です。さすが先生…。
1期から続投の人たちの中で特に印象に変化が見られたのが、宜野座さん(ギノさん)で、1期にて幾多のしがらみを乗り越え成長した彼の立ち居振る舞いは優しさと柔軟性を帯び、彼の父親で優れた執行官でもあった征陸のとっつぁんにますます似てきました。見せ場が少なめなのが残念ですが、要所要所で胸のすく様な台詞や活躍を見せ、頼り甲斐のある一係の要としての立ち位置が定まりつつあります。
填島関連の事件で多くの経験を積んだ朱についても、やはり変化が見られ、刑事としての力量が着々と上がっている印象が見受けられました。一方で全く曇らない※3サイコパスと持ち前の楽観主義、加えて法への信頼、信仰と言っても言い過ぎでない態度や言動などが1期よりも強調されて描かれていた様で、私にはいささか以上に不気味に思えました。やはりこの人はシビュラに選ばれている様に思えてなりません。1期後半~2期におけるシビュラの朱への依存の傾向を見ると、両者の立場は当初と比較して逆転の様相を呈しており、朱がシビュラの保護者、あるいは母親の様にも見えてしまいました。
逆に朱の成長の見られなかった点を挙げるなら、ドミネーター以外の武器を手にしても全く使用出来ない所です。本人はお守りとか言ってますが、使う気が無いなら持たなきゃいいのに‥とか1期と同じ様な印象を抱いてしまいましたが、1期に続いて繰り返しこの様な描写を入れるというのは、いつか朱がそれを用いる事を暗示しているのだろうか?とも思われました。
※1:1期では宜野座、常守監視官、狡噛、征陸、縢、六合塚執行官の構成だった。諸事情により宜野座監視官は執行官となり、狡噛、征陸、縢3名はメンバーから外れる。
※2:出典は忘れてしまいましたが、この呼称はソクラテスの事。ソクラテスは対話によって真実を導く弁証法の発達に貢献した人で、無知の知とかでも有名。
※3:"犯罪係数"として数値化されている。ストレスの増減で心拍数の様に目まぐるしく変化する。作中では犯罪係数が上昇する事を色相が濁ると表現している。シビュラシステムの目とも言えるドミネーターを対象に向けると計測出来る。
{netabare}
最後は本作の事件の首謀者、鹿矛囲桐斗(かむいきりと)。彼は個人の中にシビュラを体現した様な人間で、前作の孤独な槙島と違って、沢山の仲間を持つ宗教団体の教祖の様な人物として描かれています。彼の信者は薬物の投与と自らの責任を全てカムイに転嫁する事によって、正常なサイコパスを保っている様で、カムイが正しいのなら自分も正しいと言う様に、カムイに依存し切っている印象が顕著でした。
彼の信者達の心理状態は戦時下における愛国主義者やスターやアイドルのファンを思わせます。彼等は国の掲げる正義を盲目的に信じたり、表層が魅力的な人物を応援する事で、心の平穏を保ったり幸せを感じたりする事ができ、例え自身の行動が卑劣極まりないものであっても、根拠の薄い異常な偏愛であっても、熱狂が続く限り精神は安定し、ストレスは下がる傾向にある様です。
作中には"エリアストレスの上昇"という言葉がありますが、これは犯罪現場などに居合わせた不特定多数の人々の同時多発的なストレスの上昇現象を意味しますが、作中表現では元々正常なサイコパスを持っている人も、これによって色相が濁ってしまう事がある様です。この因果関係を踏まえるとストレスとは無縁のカムイの信者達の犯罪係数がクリアーカラーに保たれるのも頷けます。彼等は殺人などの非道行為を行っても至って心は晴れやかなのです。カムイが良いと言っているのですから。それもシビュラから見ればの話ですが‥。
ふと以前イラク戦争に参加したアメリカ軍の爆撃機のパイロットのインタビューを見た事があるのですが、爆撃した時の印象を「アメフトのスターになった気分だった」と身の毛もよだつような言葉で誇らしく振り返っていたのを思い出しました。責任を"誰か"や"何か"が請け負ってくれる安心感がある限り、想像力を殺して何だって出来てしまえる程、人は不安定で残酷な生き物なのかも知れません。
エピローグにて、多にして一なる集合的サイコパスという概念を受け入れてしまったシビュラは自身を形作るパーツのいくつかを廃棄する事で、自らのサイコパスの色相の改善を図り、結果クリアーに保つ事が可能になりました。しかしその行為は同時にシビュラの存在意義である多様性の一部を捨てる事を意味します。悪名高い※4ロボトミー手術にも等しい処置を自らに課したシビュラは今後さらに思考の柔軟性を失う事でしょう。
これまでのシビュラも本作における彼の集合的サイコパスの数値が示す様に、多様性とは程遠い灰色、延いてはどす黒い色相の持ち主でしたが、一定の公正さは持っていた様に思います。また1期では保身の為とは言え、特例と称して臨機応変な判断を下せる※5人間的な側面も見られました。
思考の多様性を失うという事は、こうしたルール違反のずるい抜け道を使えず、論理的思考に支配され、矛盾に対峙した時にそれに立ち向かえなくなる危険を孕んでいます。人類の創出してきた法律は未だ不完全で、コンピュータプログラムで言えば多くのバグを含みますが、実際は有機的な言葉を基調としたプログラムゆえ、解釈にばらつき生まれ、その定義も曖昧になる事が有ります。こう言った点は犯罪を助長する一方で、無情な決定を覆す事もあり、社会正義とか倫理とか呼び習わされている人間的感情を首の皮一枚で繋ぎ止める働きも持ち合わせています。
しかしこの先シビュラが、前作の槙島や本作のカムイの提示する様な新たな論理的矛盾に遭遇し、それを解消する為にまた自らの頭脳を削るならば、シビュラの厳格さはさらに強まり、その対応力はさらに弱まる事でしょう。
中国のことわざに亢竜の悔い有りというのがありますが、ひと時はかりそめの隆盛を極めたシビュラもまた、天に登りつめた竜の如く、後は落ちるしかないのでしょうか?
※4:前頭葉切除手術の事。うつ病などの症状が改善されるとされ1970年代半ばまで行われていた。成功例があるとされるが部分的なもので、実際には人間性にとって重大な弊害を引き起こしていた。恐ろしい事に現在でもレーザー照射による脳細胞の焼却という似た様な手術が行われている。
※5:このシビュラの意気地無さが集合的サイコパスという概念を受け入れてしまった原因なのですが‥。人間的という事に関しては強奪されたドミネーターの放置や霜月監視官と東金執行官の採用も、シビュラの興味に基づく実験とも取れます。槙島の事件の時も、シビュラは自分をより良きものにする為に、特例として何でも黙認する様な思考パターンが見られました。
{/netabare}
おまけエピローグ ~孤高の天才 雑賀譲二~
{netabare}
最終話、雑賀先生の「依存するのは性に合わないんでね。」という台詞について。裏を返せば「依存されるのは嫌いなんでね。」とも取れました。東金に指摘されるまでも無く、"講義を聴いた者の犯罪係数が高まる。"とされ、かねてからそれを自覚していた雑賀先生は自身の色相が回復傾向にあるにもかかわらず、もといそれ故に、その理由ついても※1正しく解釈した上で、自らの意思で檻の中へと帰って行きました。
1期の主役槙島聖護はシビュラの知力では認識出来ない"※2名前の無い怪物"ゆえに、クリアカラーでしたが、2期の雑賀先生もまた、他者の色相を黒く染め、一方で自身の色相をクリアに戻す、そう出来るけれどもそうしない、特異極まる人物として描かれていました。架空、現実を含め、能ある鷹は爪を隠すという例えがこれほど似合う人もそうそういないのではないかと思います。
槙島の狡噛への依存と、雑賀先生の狡噛、朱への依存についても、両者はかなりの部分で似通っている様に思われました。求め、求められ、互いに影響を与え合いながらも決して個を失わない。それでも他者に自らの分身をかいま見、希望し、恐れつつも、どうしようもなく惹かれていくという。雑賀先生にとって狡噛と朱は(作中でもその様に描写されていますが)間違いなく生徒ないし弟子に当たります。そして彼等から見れば雑賀先生は当然"師"という事になります。雑賀先生の槙島との違いには、教師としての思いやりと自制、自己防衛の為に、生徒への干渉を能動的に行えなかったという事を挙げられるでしょう。槙島は至って冷徹な指揮者であり奏者でもありました。
朱の「また、来ます。」に対して「楽しみにしてるよ。」とやんわりと返す最終カットの雑賀先生の背中には、そこはかとない寂しさが感じられました。
個々を愛する孤高の天才、雑賀譲二先生が再び檻の外に歩み出る日は来るのでしょうか?
※3これにてこのレビューは終焉となる‥アオイ。
※1:他者と融和し、個を失う事でストレスは減り、サイコパスは好転するという解釈。自らを制し、個を捨て、社会への献身に心を砕く朱の色相が曇らないのも同じ理由だと思われます。当然これもシビュラの判断だけど‥。
※2:EGOISTによる無印一期のEDテーマのタイトルでもあります。彼に相応しい二つ名として引用させて頂きました。槙島とシビュラ、それぞれがお互いを評価に値しない(出来ない)無価値な存在とするならば、両者の意味とも取れるかも知れません。
※3:古典的な語呂合わせ。ウェールズ神話のマビノギオンを読んでとても気に入ったので(笑)今後も追記や修正をするやも知れぬ。すまぬ…。
{/netabare}
3期製作が待ち遠しいです。