「ふしぎの国のアリス(アニメ映画)」

総合得点
66.1
感想・評価
34
棚に入れた
242
ランキング
3031
★★★★☆ 3.7 (34)
物語
3.6
作画
3.7
声優
3.6
音楽
3.7
キャラ
3.8

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ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.7
物語 : 4.0 作画 : 5.0 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

テンプレ異世界ものはどこへ行った?(補論)

 「すみっこでこっそりやるシリーズ」の第二弾です。
 前回の「オズ」に引き続き、「異世界もの」の話をしていきます。定義やら基本的な持論やらは前回のレビューを準用しますので、改めての言及はしません。今回の本題は、前回書ききれなかった三つのことです。
 一つ目が、「分断→対比→風刺」の構造の分断の話。二つ目が、最近の「異世界もの」に感じる違和感。三つ目が、②の「異世界から現実世界に舞台を移すもの」と③の「現実世界と異世界を往復するもの」についての妄想です。

 これらの論点に入る前に、個別作品のレビューを書かなくちゃですね。題材は何でも良かった、と言ったら元も子もないですけど、「ピーターパン」と悩んだ末に「不思議の国のアリス(以下アリス)」にしました。「異世界もの」としての出来は「ピーターパン」の方が良いとは思います。じゃあ、なんで「アリス」なのかっていうと、もちろん楽だからです。前回と同じことを長々とやってもしょうがないですからね。サクッと終えて、本題に移っていきます。
 では、まずは「異世界もの」としての「アリス」について。


不思議の国のアリス:{netabare}
 「アリス」の現実世界の描写は、ほんの数行しかありません。姉アリスが挿絵も会話もない本を読んでいて、それを楽しめないアリスは退屈してしまった、ということだけ。ここから分かるのは、二つですね。子供のアリスと大人の姉アリス。そして、アリスにとってはこの現実世界が退屈だということ。
 ここから、「アリス」がどんなテーマを持っているのかも分かると思います。好奇心でいっぱいのアリスが大人と子供の間で揺れ出して、いずれ来る退屈な現実世界とどうやって折り合いを付けて行ったらいいのか、ってところですね。

 退屈な現実世界の対比先が、退屈ではない異世界です。異世界では怒涛のようにイベントラッシュが起こります。このイベントラッシュはあまりにも脈絡がないので、変な話!で終えられてしまうことも多いようなんですけど、すべてを捨ててしまうのは拙速ですよね。子供と大人で揺れるアリスの描写を拾っていく必要がありますからね。

 異世界に到着してすぐに、大きな混乱がアリスを襲います。
 アリスはウサギを追いかけていたんですが、目の前の扉があまりにも小さくて入れませんでした。アリスは、小さくなりたいと願います。すると、小さくなるための飲み物が出てきます。それを飲んで小さくなったら、テーブルの上にある鍵が取れなくなってしまいました。アリスは、大きくなりたいと願います。すると、大きくなるためのケーキが出てきます。それを食べたら、今度は大きくなりすぎてしまいました。
 この「なりたい方向に向かうのに、なりたい自分にはなれない」という状況に、アリスは泣き出してしまいます。そして、「昨日までは普通だったのに、今日は全然違う変な日だ!」「昨日と今日が違うなら、私は本当に私なの? あの子はあの子で、私は私? もう何もわからない! 私はいったい誰なの?」と考えてしまいます。

 このエピソードは、心と身体のミスマッチを描いたものだと思います。大きくなったり小さくなったりする様が「昨日と今日は違う」という身体の成長を表現していて、それと「子供と大人は違う」という心の成長が乖離してしまったってことですね。「アリス」には、自分で自分を諭したり自分で自分を叱ったり、という独り言のシーンが数多く出てきます。これも、自分の中にいる二人のアリス―子供アリスと大人アリス―の乖離の表現なのでしょう。また、この乖離の結果として、アリスは自己の認識をできなくなってしまったどころか、他人の認識までもが危うくなってしまいました。

 ここから先の話では、アリスが自分を取り戻していく過程が描かれています。
 ハトに「おまえは誰だ?」と聞かれても、上手く答えられない。
 イモムシに「おまえは誰だ?」と聞かれても、やっぱり上手く答えられない。でも、イモムシと会話をしているうちに、やっと「あなたこそ誰なのよ?」と聞き返すことができるようになりました。他人認識の回復ですね。
 そして、チェシャ猫から、この世界にいるすべての者は狂っている、と教わります。チェシャ猫もアリスも含めて、ということです。このときからアリスは、自分や他人を冷静に見始めることになります。
 そのおかげもあってか、トランプの女王に「おまえは誰だ?」と聞かれた際には、「私はアリスです!」と応えることができました。ここへ来てやっと、自己認識が回復したのです。
 異世界の終盤では侯爵夫人と出会います。そして、彼女から「Be what you would seem to be」と言われます。なりたい自分になれ、見られたい自分になれ、といった感じですね。これは、異世界到達時の「なりたい方向に向かうのに、なりたい自分にはなれない」へのアンサーなのでしょう。この後、アリスは現実世界に帰ってきます。というか、夢落ちなので、夢から覚めただけですね。

 目覚めたアリスは、姉アリスに異世界での出来事を話します。
 そして、姉アリスもアリスと同じように異世界の夢想を始めます。ですが、現実感が邪魔をしてしまい、なかなか上手くいきません。そして、立派な女性になったアリスを想像しながら、次のように願います。
 大人になっても子供の頃の純朴さを失わないでね。

 「アリス」は、前回触れた「オズ」や「千と千尋」よりも、現実世界の描写が薄いのが特徴です。現実世界は退屈だ、としか表現されていないですからね。ですから、退屈でない異世界を登場させるだけで基本の対比は終わってしまうのです。
 現実世界への風刺は、姉アリスが最後にまとめて行っています。想像力豊かな子供にとって、現実世界は楽しいものだ。子供のような好奇心を大人になっても忘れなければ、現実世界を退屈だなんて思わないでしょ、って感じですね。
 「アリス」は「異世界もの」の元祖的な作品ですが、この頃からすでに「分断→対比→風刺」の構造を持っているのが分かると思います。すごく練られているって感じはしませんけどね。
{/netabare}


↓ここからが本題です。

「異世界もの」における分断:{netabare}
 「オズ」のレビューで、「異世界もの」は「分断→対比→風刺」の構造を持っている、と書きました。また、この構造は「異世界もの」に限った話ではなくて、(都会と田舎のように)分断ができるならば似た構造を持てる、とも書きました。
 では、似た構造で「異世界もの」のすべてを代用できるのか、というと、そうは思わないんですね。私は、似た構造ではできないけれど、「異世界もの」ではできること、というのがあると思っています。

 例えば、「都会でいじめられていた子供が田舎の学校へ移って、はつらつとした姿を取り戻す」という作品があったとします。都会と田舎で対比を作って、都会特有のいじめを風刺する構造ですね。でも、これには弱点があります。それは、都会特有のいじめを風刺できても、都会にも田舎にもある「普遍的ないじめ」を風刺できないってことです。
 これはスケールを上げても解決できません。「自国の学校でいじめられていた子供が外国の学校へ移って…」としたところで、都会と田舎を内包した自国特有のいじめを風刺できたとしても、自国にも外国にもある「普遍的ないじめ」が風刺できないのです。
 「現代の学校でいじめられていた子供が過去の学校に移って…」にしても同様です。現代特有のいじめは風刺できても、現代にも過去にもある「普遍的ないじめ」はやっぱり風刺できない。
 場所も時間も問われない「普遍的ないじめ」をどう風刺したらいいのか、という問題が出て来てしまうのです。

 この問題の原因は、対比のスケールが小さいことにあると思います。対比元のスケールが小さいために、対比先のスケールも小さくなってしまい、必然的に風刺対象も小さくなってしまう、という連鎖が起こっています。都会と田舎でも自国と外国でも現代と過去でも、「普遍的な風刺」に踏み込めるほどスケールの大きな対比ではないってことです。

 この問題を解決するのが「異世界もの」だと思います。場所も時代も問われない「普遍的な風刺」をしたいんだったら、場所や時代の概念を取っ払ってしまえばいいのです。異世界というのは、現実世界の場所や時間に縛られない「まったく別の場所」ですから、それと対比を作る現実世界もまた、場所や時代に縛られません。「異世界もの」における現実世界は、すべての場所や時間を入れ込むことができますから、「普遍的な風刺」に踏み込むことができるのだと思います。
 つまり、「異世界もの」は、「分断→対比→風刺」という構造を最も大きなスケールで捉えたものであって、その結果として、似た構造を持つ作品ではできない「普遍的な風刺」を可能にしたんじゃないの?と私は考えているんです。

 なお、「異世界もの」では常に普遍的な風刺が描かれている、という話ではありません。「異世界もの」のスタート時の現実世界の描写、ここで風刺対象を限定することが可能だからです。「オズ」だったら1900年頃のカンザスで、「千と千尋」だったら現代の日本で縛って風刺をしています。分断が最も強く出る「異世界もの」なら、風刺対象の選択に当たって、普遍性を視野に入れた高い汎用性を得られるのでは?ってだけの話です。
{/netabare}

最近の「異世界もの」:{netabare}
 何度か書いてきましたが、「異世界もの」では、最初の現実世界の描写ってホントに大事ですよね。「分断→対比→風刺」の構造における分断前の描写が大事、と言い換えてもいいです。ここが起承転結の起ですから、ここを上手く読み取らせてくれないと、何をやる作品なのかが分からなくなってしまいますからね。
 もちろん、ここに力を入れない作品もあります。実写映画なんかでたまに見るのは、回想的に分断前の話を差し込んでくるパターンです。起承転結の起が弱くなる代りに、対比が分かりやすくなるっていう利点はありますよね。

 で、最近の「異世界もの」―ラノベ系の「異世界もの」と言った方が良いかもしれないですけど―って、どっちもやらないんですよね。現実世界の描写にほとんど中身がない。良くあるのが、引きこもりだニートだコミュ障だ、という主人公設定で終えてしまうものです。社会風刺をしないなら自己批判でもするのかな、と思いきや、異世界に行ったら成長が描かれる前に適応してしまうんですよね。ギャグのネタ用くらいにしかなっていない。
 現実世界と異世界で対比を取らないんだったら、「異世界もの」じゃなくてもいいんじゃないの?という疑惑が、なかなかに消えてくれません。最近の「異世界もの」に構造的な欠落を感じてしまうんです。「異世界だけを舞台にしたもの」にして、異世界にそういう主人公がいる、というのでもほとんど問題ないですよね?

 「異世界もの」は、脚本的にはやりやすいと思います。主人公が異世界のことを知らないために、その説明を受ける必要があって、それが視聴者への異世界説明としても機能する、というメリットがありますからね。最近の「異世界もの」は異世界の特殊性に注力したものが多いですから、説明しやすい「異世界もの」を使いたくなってしまうのでしょう。
 気持ちは分かりますけど、それでいいのかな、とも思います。「異世界だけを舞台にしたもの」でも、異世界説明がきちんとできている作品は山ほどありますからね。やりやすいから「異世界もの」にしている、ではなくて、「異世界もの」以外ではできないんだ、という確固たる採用理由が、もう少し欲しいです。原作者の実力の問題なのか、原作者の意図を汲み取れていないアニメ側の問題なのかは分かりませんけど。

 ただ、私は別に従来型の「異世界もの」の原理主義者ってわけではないですから、従来型と違うからダメだ、というつもりもないんです。現実世界をスタートにする何らかの積極事由があれば、たとえ評価点に反映しなかったとしても、許容していこうとは思っています。 例えば、「このすば」とか「Reゼロ」とかね。
 「このすば」は、「異世界もの」のメタだから、対比うんぬんは関係なしに「異世界もの」で良いと思います。
 「Reゼロ」は、携帯電話などの道具を現実世界から持ち込みたかっただけですからね。現実世界が完全にツール化していますけど、作劇上に必要なツールなら仕方ないと思います。携帯電話で撮った写真が、今後のストーリーで上手く機能することを願うばかりです。本音としては、もうちょっと何とかして欲しかったですけどね。
 ズルかったのは「オバロ」ですね。現実世界があることを示唆してはいるんですけど、現実世界の描写は一切ありませんでした。偽装「異世界もの」であって、「異世界もの」自体ではありません。これなら、どんな構成にしても許されます。ズルいな、とは思いましたけど、上手いな、とも思いました。

 最近の「異世界もの」に対する主な批判―主人公無双だハーレムだ逃避だ―については、特に気にしていません。視聴者の好みには影響が出ますけど、それ自体が作品の良し悪しを決めるってことにはならないですからね。原作者の好きなようにやったらいいと思います。
 そろそろ、従来型の「異世界もの」の構造的な利点に、最近の「異世界もの」のエンタメ性が乗っかったような、そんな作品が出てくるような気がしているんですけど、どうでしょうかね。
{/netabare}

他の形態の異世界ファンタジー:{netabare}
 今回も前回も、①の「現実世界から異世界に舞台を移すもの」だけを対象にしていましたけど、②の「異世界から現実世界に舞台を移すもの」と③の「現実世界と異世界を往復するもの」についても少しだけ言及します。
 サンプルが少ないので、今までの話以上に妄想垂れ流しですけどね。

 ②の「異世界から現実世界に舞台を移すもの」は、「分断→対比→風刺」の構造を持てるので、①と並列して語ってもいいとは思います。でも、風刺の仕方が違ってくるんですよね。
 ①の「現実世界から異世界に舞台を移すもの」は、異世界を通して現実世界を見ることになります。前回書いた、間接的な風刺になるって話です。でも、②の「異世界から現実世界に舞台を移すもの」は、舞台が現実世界なんですよね。外国人が日本に来てあれこれと指摘するのと同じで、現実世界への直接的な風刺になります。
 裏から表を間接的に見るのか、表を直接的に見るのか、という違いですね。「トトロ」のレビューで書いた、「トトロ」と「魔女宅」の違いと同じようなものです。矢印の向きが違うから大違いとも言えるし、矢印の向きが違うだけなら大して変わらないとも言える。そんな感じ。


 ③の「現実世界と異世界を往復するもの」はどうなんですかね。
 裏から表を間接的に見ることもできるし、表を直接的に見ることもできるってことは、①と②のハイブリッド型になっているんですよね。それが特徴だ!で終えてもいいんですけど、何でハイブリッド型を採用する必要があるのかが、少し気になります。
 思うに、現実世界と異世界を均等に近く描いていくことで、違いを浮き彫りにしながらも同質化を図ることが目的になっているんじゃないのかな、と。こんなに違う世界なのに、こんなに同じだよね、という感じ。

 上の「都会でいじめられていた子供が田舎の学校へ移って、はつらつとした姿を取り戻す」という例を改題して、「都会でいじめられていた子供が、田舎に移ってもやっぱりいじめられていた」にすると、少し分かりやすいですかね。こうしてみると、いじめの原因は、都会にあるわけでも田舎にあるわけでもないってなります。主人公自身が悪いからいじめられているとか、どこにでもいじめるやつがいるとかって話になる。すごく違う場所だ、という対比を活かしつつも、変わらない何かがある、って話になります。
 これをスケールアップさせると、現実世界と異世界はこんなに違うのに、人間の業のせいで争いが起こってしまうとか、人間の愛情は変わらないとか、そういう話になりそうですよね。世界の違いが明確であるがゆえに、人間の持つ根源的な特性がつまびらかになってしまうってことです。つまり、こんなに違う世界なのに、こんなに同じだよね、ということ。

 これをやろうとすると、現実世界と異世界の違いをしっかりと描くことが大前提になりますから、異世界ばっかりの①でも現実世界ばっかりの②でも、ちょっとやりづらい気がします。③の採用理由になるかもしれません。
 まぁ、机上の空論ばかりを並べても仕方ないですね。大人しく作品を見てきます。一般論を帰納的に導くには、視聴の絶対量が足りてないってことだけはよく分かりました。
{/netabare}

雑記:{netabare}
 「すみっこでこっそりやるシリーズ」の第二弾って書きましたけど、第一弾が前回の「オズ」ですね。
 シリーズ化するつもりは、もちろんありません。

 何ですみっこでこっそりやるのかって言うと、手段と目的をはき違えているからです。
 前回も書きましたけど、個別作品のレビューっていうのは、その作品について述べることが目的になっていなくちゃダメですよね。でも、前回と今回って、個別作品のレビューが手段になっちゃってるんですよね。あまり褒められたものではない気がします。
 でも、もう一個だけこっそりやりたいのがあるんですよね。こっそりできそうにないので、ただいま思案中です。

 あと、「アリス」ね。上のは原作の話が中心ですけど、ディズニーのアニメ版も見ました。普通に面白かったです。調子に乗って「シンデレラ」まで見てしまいました。懐かしすぎて泣いた。歌も結構覚えていましたね。
{/netabare}

投稿 : 2016/06/05
閲覧 : 497
サンキュー:

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